「錯覚」の版間の差分

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 錯覚は、対象についての知識と一致しない知覚(あるいは認知)である。ということは、錯覚は、対象からの刺激によって脳内あるいは心に生成した知覚というだけのものではない。その対象についての「客観的」な知識を事前あるいは事後に持っていて、その知識とその知覚を照合する過程が錯覚の成立に必須である。すなわち、同じ刺激で同じ知覚が得られたとしても、ある人にとっては錯覚であり、別の人には普通の知覚であることがある。たとえば、静止画が動いて見える錯視という現象がある(図2)。ある観察者が図1を見て円盤が回転して見えた時、この画像は静止画ではなく動画であると認識すれば、その観察者にとっては知覚された錯視的運動は錯視ではなく、リアルなものである。この画像が「本当は静止画である」という知識と知覚の不一致を認識して初めて錯視なのである。この錯視的運動が知覚されない観察者にとっては、この図はただの静止画であって錯視画像ではないことは言うまでもないが、それは知覚と知識が一致しているからである。ちなみに、この錯視画像を観察中に運動視を司ると考えられる大脳皮質の領域(hMT+)が活性化される証拠がある<ref>Kuriki, I., Ashida, H., Murakami, I., & Kitaoka, A. (2008). Functional brain imaging of the Rotating Snakes illusion by fMRI. Journal of Vision, 8(10):16, 1-10.</ref>。[[ファイル:Muller-Lyerillusion.jpg|サムネイル|図3 ミュラー=リヤー錯視。上下の水平線分の長さは物理的には等しいが、斜線が内向きの上の線分より斜線が外向きの下の線分の方が長く見える。]]
 錯覚は、対象についての知識と一致しない知覚(あるいは認知)である。ということは、錯覚は、対象からの刺激によって脳内あるいは心に生成した知覚というだけのものではない。その対象についての「客観的」な知識を事前あるいは事後に持っていて、その知識とその知覚を照合する過程が錯覚の成立に必須である。すなわち、同じ刺激で同じ知覚が得られたとしても、ある人にとっては錯覚であり、別の人には普通の知覚であることがある。たとえば、静止画が動いて見える錯視という現象がある(図2)。ある観察者が図1を見て円盤が回転して見えた時、この画像は静止画ではなく動画であると認識すれば、その観察者にとっては知覚された錯視的運動は錯視ではなく、リアルなものである。この画像が「本当は静止画である」という知識と知覚の不一致を認識して初めて錯視なのである。この錯視的運動が知覚されない観察者にとっては、この図はただの静止画であって錯視画像ではないことは言うまでもないが、それは知覚と知識が一致しているからである。ちなみに、この錯視画像を観察中に運動視を司ると考えられる大脳皮質の領域(hMT+)が活性化される証拠がある<ref>Kuriki, I., Ashida, H., Murakami, I., & Kitaoka, A. (2008). Functional brain imaging of the Rotating Snakes illusion by fMRI. Journal of Vision, 8(10):16, 1-10.</ref>。[[ファイル:Muller-Lyerillusion.jpg|サムネイル|図3 ミュラー=リヤー錯視。上下の水平線分の長さは物理的には等しいが、斜線が内向きの上の線分より斜線が外向きの下の線分の方が長く見える。]]


 ヒト以外の動物にも錯視が見えるという報告はある<ref>Bååth, R., Seno, T., & Kitaoka, A. (2014). Cats and Illusory Motion. Psychology, 5, 1131-1134.</ref><ref>Fujita, K., Blough, D.S., & Blough, P.M. (1991). Pigeons see the Ponzo illusion. Animal Learning & Behavior, 19, 283–293.</ref><ref>Nakamura, N., Watanabe, S., & Fujita, K. (2008). Pigeons perceive the Ebbinghaus-Titchener circles as an assimilation illusion. Journal of Experimental Psychology: Animal Behavior Processes, 34(3), 375–387.</ref>。それによって、ヒトが錯視図形を見て知覚するような「知覚の歪み」が動物にもあるらしい、ということはわかる。しかし、それが動物にとって錯視であるかどうかについては、いくらか疑わしい。たとえばヒトは錯視をおもしろがるが、動物は特段錯視をおもしろがるようには見えない。もちろん、動物が錯視をおもしろがらないからと言って、それが動物が錯視を錯覚として認識していないことの証拠にはならない。しかしながら、「動物にも錯視は見えるか」という問いはヒトと動物の連続性があることを期待して発せられているので、ヒトが錯視をおもしろがるなら動物もおもしろがるはずであるのにそうでないことの説明は必要である。[[ファイル:Veincolorillusion04L.jpg|サムネイル|図4 静脈の錯視。静脈は青く(あるいは緑っぽく)見えるが、1点を見れば彩度の低い(灰色に近い)黄色から赤の色相の色である。]]
 ヒト以外の動物にも錯視が見えるという報告はある<ref>Agrillo, C., Parrish, A.E., & Beran, M.J. (2014). Do rhesus monkeys (Macaca mulatta) perceive the Zöllner illusion? Psychonomic Bullutin & Review, 21, 986–994.</ref><ref>Bååth, R., Seno, T., & Kitaoka, A. (2014). Cats and illusory motion. Psychology, 5, 1131-1134.</ref><ref>Fujita, K., Blough, D.S., & Blough, P.M. (1991). Pigeons see the Ponzo illusion. Animal Learning & Behavior, 19, 283–293.</ref><ref>Nakamura, N., Watanabe, S., & Fujita, K. (2008). Pigeons perceive the Ebbinghaus-Titchener circles as an assimilation illusion. Journal of Experimental Psychology: Animal Behavior Processes, 34(3), 375–387.</ref>。それによって、ヒトが錯視図形を見て知覚するような「知覚の歪み」が動物にもあるらしい、ということはわかる。しかし、それが動物にとって錯視であるかどうかについては、いくらか疑わしい。たとえばヒトは錯視をおもしろがるが、動物は特段錯視をおもしろがるようには見えない。もちろん、動物が錯視をおもしろがらないからと言って、それが動物が錯視を錯覚として認識していないことの証拠にはならない。しかしながら、「動物にも錯視は見えるか」という問いはヒトと動物の連続性があることを期待して発せられているので、ヒトが錯視をおもしろがるなら動物もおもしろがるはずであるのにそうでないことの説明は必要である<ref>繁桝算男・北岡明佳 (2018). 連載 人生の智慧のための心理学 第4回 錯覚から世界を考える? 書斎の窓(有斐閣), 655(2018年1月号), 44-48.</ref>。[[ファイル:Veincolorillusion04L.jpg|サムネイル|図4 静脈の錯視。静脈は青く(あるいは緑っぽく)見えるが、1点を見れば彩度の低い(灰色に近い)黄色から赤の色相の色である。]]


 脳科学辞典は、脳科学分野で研究活動を行っている、または行おうとしている学生と研究者を主に想定し、自分の専門分野から離れた分野の知らない用語の内容をインターネット上で簡単に調べられることを目的としている。本稿の執筆者は錯視の研究者であり、錯視のレビューということであればもう少し具体的に書くこともできたかもしれないが、錯覚といういう広いスタンスの解説ということで、説明が抽象的となってしまった嫌いがある。それならば、少し抽象度を下げて、錯視について調べたい学生と研究者を想定して、彼らに薦めるのに最適な文献を考えてみたい。ところが、実は錯視の指し示す範囲でもまだ広すぎて、選定は容易ではない。2017年に刊行された"The Oxford compendium of visual illusions"という分厚い錯視の専門書<ref>Shapiro, A. G. & Todorović, D. (Eds.) (2017). The Oxford compendium of visual illusions. Oxford University Press.</ref>があり、世界中の錯視あるいは視覚の研究者が著した書籍であるから、この本を薦めておけばよいのだが、初学者が簡単に錯視を概観するという目的に照らせば、量的に多すぎると言わざるをえない。数十年前であれば、Robinsonの錯視のレビュー本<ref>Robinson, J. O. (1972/1998). The psychology of visual illusion. Mineola, NY: Dover.</ref>を紹介すれば、手頃な分量であったこともあり、錯視のことを知るにはそれ一冊で十分であったが、今となっては同書は錯視の入門書というよりは、錯視研究史の重要書籍に位置づけられる。そこで、ここでは「錯視の科学ハンドブック」<ref>後藤倬男・田中平八(編) (2005). 錯視の科学ハンドブック 東京大学出版会</ref>、「錯視入門」<ref>北岡明佳 (2010). 錯視入門 朝倉書店</ref>、"Eye and brain"<sup>[2]</sup>を、錯視の入門書として挙げておく。認知的錯覚の入門書としては、「錯覚の科学」<sup>[3]</sup>がある。同じタイトル名に翻訳された"The invisible gorilla"<ref>Chabris, C. F. & Simons, D. J. (2010). The invisible gorilla: And other ways our intuitions deceive us. HarperCollins. (日本語訳: クリストファー・チャブリス、ダニエル・シモンズ(著)、木村博江(訳) (2011). 錯覚の科学 文藝春秋)</ref>も参考になる。しかし、それらだけでは認知的錯覚を広くカバーできていないので、認知心理学や行動経済学の書籍にも当たって頂きたい。なお、物理的錯覚のまとまった入門書となると、執筆者は寡聞にして推薦できるものを持ち合わせていない。
 脳科学辞典は、脳科学分野で研究活動を行っている、または行おうとしている学生と研究者を主に想定し、自分の専門分野から離れた分野の知らない用語の内容をインターネット上で簡単に調べられることを目的としている。本稿の執筆者は錯視の研究者であり、錯視のレビューということであればもう少し具体的に書くこともできたかもしれないが、錯覚といういう広いスタンスの解説ということで、説明が抽象的となってしまった嫌いがある。それならば、少し抽象度を下げて、錯視について調べたい学生と研究者を想定して、彼らに薦めるのに最適な文献を考えてみたい。ところが、実は錯視の指し示す範囲でもまだ広すぎて、選定は容易ではない。2017年に刊行された"The Oxford compendium of visual illusions"という分厚い錯視の専門書<ref>Shapiro, A. G. & Todorović, D. (Eds.) (2017). The Oxford compendium of visual illusions. Oxford University Press.</ref>があり、世界中の錯視あるいは視覚の研究者が著した書籍であるから、この本を薦めておけばよいのだが、初学者が簡単に錯視を概観するという目的に照らせば、量的に多すぎると言わざるをえない。数十年前であれば、Robinsonの錯視のレビュー本<ref>Robinson, J. O. (1972/1998). The psychology of visual illusion. Mineola, NY: Dover.</ref>を紹介すれば、手頃な分量であったこともあり、錯視のことを知るにはそれ一冊で十分であったが、今となっては同書は錯視の入門書というよりは、錯視研究史の重要書籍に位置づけられる。そこで、ここでは「錯視の科学ハンドブック」<ref>後藤倬男・田中平八(編) (2005). 錯視の科学ハンドブック 東京大学出版会</ref>、「錯視入門」<ref>北岡明佳 (2010). 錯視入門 朝倉書店</ref>、"Eye and brain"<sup>[2]</sup>を、錯視の入門書として挙げておく。認知的錯覚の入門書としては、「錯覚の科学」<sup>[3]</sup>がある。同じタイトル名に翻訳された"The invisible gorilla"<ref>Chabris, C. F. & Simons, D. J. (2010). The invisible gorilla: And other ways our intuitions deceive us. HarperCollins. (日本語訳: クリストファー・チャブリス、ダニエル・シモンズ(著)、木村博江(訳) (2011). 錯覚の科学 文藝春秋)</ref>も参考になる。しかし、それらだけでは認知的錯覚を広くカバーできていないので、認知心理学や行動経済学の書籍にも当たって頂きたい。なお、物理的錯覚のまとまった入門書となると、執筆者は寡聞にして推薦できるものを持ち合わせていない。
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