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== 分離脳とは == | == 分離脳とは == | ||
1960年代にヨーロッパの古典理論への理解と詳細な症例検討から、[[局在論]]を復権させた[[w:Norman_Geschwind|ゲシュウィンド]](Geschwind, N.)は、[[高次脳機能]]の障害がその機能の責任部位(中枢)の損傷だけでなく、複数の中枢間や、中枢と[[感覚]]・[[運動効果器]]間を結ぶ[[神経線維]]結合([[連合線維]]、[[交連線維]]など)の損傷でも生じるという[[離断症候群]](disconnection syndrome)の概念を提唱した<ref name=Geschwind1965a><pubmed>5318481</pubmed><br>'''河内十郎 訳 (1984)'''<br>高次脳機能の基礎 ―動物と人間における離断症候群―. 新曜社</ref><ref name=Geschwind1965b><pubmed> 5318824 </pubmed><br>'''河内十郎 訳 (1984)'''<br>高次脳機能の基礎 ―動物と人間における離断症候群―. 新曜社</ref>。 | 1960年代にヨーロッパの古典理論への理解と詳細な症例検討から、[[局在論]]を復権させた[[w:Norman_Geschwind|ゲシュウィンド]](Geschwind, N.)は、[[高次脳機能]]の障害がその機能の責任部位(中枢)の損傷だけでなく、複数の中枢間や、中枢と[[感覚]]・[[運動効果器]]間を結ぶ[[神経線維]]結合([[連合線維]]、[[交連線維]]など)の損傷でも生じるという[[離断症候群]](disconnection syndrome)の概念を提唱した<ref name=Geschwind1965a><pubmed>5318481</pubmed><br>('''河内十郎 訳 (1984)'''<br>高次脳機能の基礎 ―動物と人間における離断症候群―. 新曜社)</ref><ref name=Geschwind1965b><pubmed> 5318824 </pubmed><br>('''河内十郎 訳 (1984)'''<br>高次脳機能の基礎 ―動物と人間における離断症候群―. 新曜社)</ref>。 | ||
この離断症候群の中でも最も多くの関心を集め、研究が行われてきたのが左右の[[大脳半球]]をつなぐ最大の交連線維である[[脳梁]]が、全面的あるいは部分的に切断された分離脳の患者である。分離脳患者に認められる左右大脳半球間の情報伝達が損なわれることによって生じる諸症状は[[半球離断症候群]]と呼ばれている。脳梁が損傷する原因としては、外科手術による人為的切断、[[脳血管障害]]による切断、[[脳外傷]]や[[神経変性疾患|変性疾患]]等による切断、先天的な脳梁の形成不全([[脳梁欠損]])等があるが、主に1930~60年代にかけて、難治性[[てんかん]]の症状の軽減を目的に実施された[[脳梁離断術]](corpus callosotomy)を受けた患者の研究が有名であり、それだけを狭義の分離脳という場合もある<ref name=山鳥1985>'''山鳥 重 (1985).'''<br>神経心理学入門. 医学書院</ref>。 | この離断症候群の中でも最も多くの関心を集め、研究が行われてきたのが左右の[[大脳半球]]をつなぐ最大の交連線維である[[脳梁]]が、全面的あるいは部分的に切断された分離脳の患者である。分離脳患者に認められる左右大脳半球間の情報伝達が損なわれることによって生じる諸症状は[[半球離断症候群]]と呼ばれている。脳梁が損傷する原因としては、外科手術による人為的切断、[[脳血管障害]]による切断、[[脳外傷]]や[[神経変性疾患|変性疾患]]等による切断、先天的な脳梁の形成不全([[脳梁欠損]])等があるが、主に1930~60年代にかけて、難治性[[てんかん]]の症状の軽減を目的に実施された[[脳梁離断術]](corpus callosotomy)を受けた患者の研究が有名であり、それだけを狭義の分離脳という場合もある<ref name=山鳥1985>'''山鳥 重 (1985).'''<br>神経心理学入門. 医学書院</ref>。 | ||
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しかし、それ以後スペリーとガザニガは対立を深めていく。ガザニガは、対象患者の一部で右半球にもある程度の言語機能がある証拠を示した。患者の左視野(右脳)に歩けという指示を提示し、歩き出したときに何故歩いているか質問すると、患者はのどが渇いたから飲み物を買いに行くと答えた。ある患者は左視野に「ガールフレンド」という言葉を提示された時に顔をあからめてクスクス笑ったが、左手で文字カードを並べて女の子の名前をつづった。これらの観察より右脳にも簡単な言葉を理解する能力があることや、感情の表出がある可能性が示された。 | しかし、それ以後スペリーとガザニガは対立を深めていく。ガザニガは、対象患者の一部で右半球にもある程度の言語機能がある証拠を示した。患者の左視野(右脳)に歩けという指示を提示し、歩き出したときに何故歩いているか質問すると、患者はのどが渇いたから飲み物を買いに行くと答えた。ある患者は左視野に「ガールフレンド」という言葉を提示された時に顔をあからめてクスクス笑ったが、左手で文字カードを並べて女の子の名前をつづった。これらの観察より右脳にも簡単な言葉を理解する能力があることや、感情の表出がある可能性が示された。 | ||
分離脳患者では、左脳に入力される右視野に提示された視覚刺激や、右手の感覚に対する反応だけが、言語によって報告される。これは言語能力が左脳に局在し、右脳からの情報が遮断されるためである。しかし、左手による選択や描画による反応や、様々な[[神経心理検査]]、[[脳波]]([[事象関連電位]])などの結果を総合すると、分離された右脳は知覚、記憶、判断、評価、感情、意思など言語以外のほぼ全ての心的機能を備えており、左右の脳が独立した意識系を形成している可能性が示唆される。しかし、このような特殊な実験場面以外においては、分離脳患者に意識の統一性の障害は認められない。この問題についてガザニガは、脳の情報処理においては異なる領域やモジュールが自動的・同時的に働いており、それぞれが意識を持っていると考えている。にもかかわらず意識の統一性が保たれているのは、左脳の[[インタープリター・モジュール]](left-brain interpreter module)がそれらの情報を統合し、意味づけて説明しているからだというのがガザニガの主張である。このインタープリター・モジールによる意味づけは多分に後付け的なもので、事実を歪曲してでも整合性のあるストーリーを構築する傾向があり、その結果の一つが脳梁離断患者で観察された[[作話]]的回答であると解釈される<ref name=Sperry1968><pubmed>5682831</pubmed></ref><ref name= Gazzaniga1978>'''Gazzaniga, M, S., & LeDoux, J. E. (1978).'''<br>The Integrated mind. New York: Plenum Press. | 分離脳患者では、左脳に入力される右視野に提示された視覚刺激や、右手の感覚に対する反応だけが、言語によって報告される。これは言語能力が左脳に局在し、右脳からの情報が遮断されるためである。しかし、左手による選択や描画による反応や、様々な[[神経心理検査]]、[[脳波]]([[事象関連電位]])などの結果を総合すると、分離された右脳は知覚、記憶、判断、評価、感情、意思など言語以外のほぼ全ての心的機能を備えており、左右の脳が独立した意識系を形成している可能性が示唆される。しかし、このような特殊な実験場面以外においては、分離脳患者に意識の統一性の障害は認められない。この問題についてガザニガは、脳の情報処理においては異なる領域やモジュールが自動的・同時的に働いており、それぞれが意識を持っていると考えている。にもかかわらず意識の統一性が保たれているのは、左脳の[[インタープリター・モジュール]](left-brain interpreter module)がそれらの情報を統合し、意味づけて説明しているからだというのがガザニガの主張である。このインタープリター・モジールによる意味づけは多分に後付け的なもので、事実を歪曲してでも整合性のあるストーリーを構築する傾向があり、その結果の一つが脳梁離断患者で観察された[[作話]]的回答であると解釈される<ref name=Sperry1968><pubmed>5682831</pubmed></ref><ref name= Gazzaniga1978>'''Gazzaniga, M, S., & LeDoux, J. E. (1978).'''<br>The Integrated mind. New York: Plenum Press. <br>('''柏原恵龍 他訳 (1980).'''<br>二つの脳と一つの心 ―左右の半球と認知―. ミネルヴァ書房)</ref><ref name= Gazzaniga1987>'''Gazzaniga, M. S. (1987).'''<br>Social brain: Discovering the networks of the mind. New York: Basic Books. (杉下 守弘・関啓子 訳 社会的脳 ―心のネットワークの発見―. 青土社 1987)</ref><ref name= Gazzaniga2011>'''Gazzaniga, M. S. (2011).'''<br>Who's in Charge?: Free Will and the Science of the Brain (1st ed.). New York: Ecco. <br>('''藤井留美 訳 (2014).'''<br>〈わたし〉はどこにあるのか ―ガザニガ脳科学講義―. 紀伊國屋書店)</ref>。 | ||
このガザニガの[[インタープリター理論]]は、脳梁離断患者だけでなく、右脳損傷患者に認められる左半身麻痺の否認や無関心、記憶障害患者における作話反応、[[重複記憶錯誤]](reduplicative paramnesia)や[[カプグラ症候]](Capgras syndrome)等の[[妄想性人物誤認症候群]]等の説明にも応用されている。しかし、この理論は左脳の言語機能への依存度が高く、インタープリター・モジュールが損傷された場合の意識状態についての洞察は十分に行われていない。また、健康な脳を含めたより広範な意識の現象に対する適用性についての批判も存在する。 | このガザニガの[[インタープリター理論]]は、脳梁離断患者だけでなく、右脳損傷患者に認められる左半身麻痺の否認や無関心、記憶障害患者における作話反応、[[重複記憶錯誤]](reduplicative paramnesia)や[[カプグラ症候]](Capgras syndrome)等の[[妄想性人物誤認症候群]]等の説明にも応用されている。しかし、この理論は左脳の言語機能への依存度が高く、インタープリター・モジュールが損傷された場合の意識状態についての洞察は十分に行われていない。また、健康な脳を含めたより広範な意識の現象に対する適用性についての批判も存在する。 |