「境界性パーソナリティ障害」の版間の差分

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英語名:borderline personality disorder 英略語:BPD 独:Borderline-Persönlichkeitsstörung 仏:trouble de la personnalité borderline
英語名:borderline personality disorder 英略語:BPD 独:Borderline-Persönlichkeitsstörung 仏:trouble de la personnalité borderline


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{{box|text= 境界性パーソナリティ障害は、パーソナリティ障害の1タイプである。その特徴は20世紀の初めに端を発する境界例の症状論的概念を引き継ぐものであり、そこから豊かな精神療法理論が発展したという点にある。現在では、そのパーソナリティ心理学との結びつきが明らかにされるなどの多くの臨床的研究が蓄積され、生物学的研究が活発に続けられている。わが国の精神科臨床では、それらの発展を日常の診療の中でどのように活かすかが重要な課題となっている。}}
 境界性パーソナリティ障害は、パーソナリティ障害の1タイプである。その特徴は20世紀の初めに端を発する境界例の症状論的概念を引き継ぐものであり、そこから豊かな精神療法理論が発展したという点にある。現在では、そのパーソナリティ心理学との結びつきが明らかにされるなどの多くの臨床的研究が蓄積され、生物学的研究が活発に続けられている。わが国の精神科臨床では、それらの発展を日常の診療の中でどのように活かすかが重要な課題となっている。
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==はじめに==
==はじめに==
 境界性パーソナリティ障害は、現在の精神科臨床において一般的な精神障害であり、特に思春期・青年期患者の診療や、物質使用障害や自殺未遂・自傷行為が問題になる精神科救急で扱われることの多い精神疾患である。
 境界性パーソナリティ障害は、現在の精神科臨床において一般的な[[精神障害]]であり、特に[[思春期]]・[[青年期]]患者の診療や、[[物質使用障害]]や[[自殺]]未遂・[[自傷行為]]が問題になる精神科救急で扱われることの多い[[精神疾患]]である。


 その診断に該当するのは、次のようなケースである。ここには、境界性パーソナリティ障害に特徴的な感情・対人関係の不安定さ、衝動性が顕れている。
 その診断に該当するのは、次のようなケースである。ここには、境界性パーソナリティ障害に特徴的な[[感情]]・対人関係の不安定さ、[[衝動性]]が顕れている。


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| Aさんは、「怒ると止まらなくなる。自分でもそれが怖い」ということを主訴として母親と共に受診した。彼女の激しい怒りは、主に母と夫に向けられる。怒りは2-3時間で収束することが多いが、著しい興奮が持続すると、家具を壊したり、自らの四肢を包丁で刺したり、自分から110番をしてパトカーを呼んだりという行動に至る。その後、2児の母である彼女は、「自分のせいで子どもがちゃんと育たない」といった後悔や自己嫌悪に苛まれる。このような著しい気分の変動のせいで、「苦痛を忘れるため」に鎮痛剤の過量服薬を行うことがある。生活は不規則になりがちであるが、時折母親の支援を必要とするものの、家事をこなすことはできている。
| Aさんは、「怒ると止まらなくなる。自分でもそれが怖い」ということを主訴として母親と共に受診した。彼女の激しい怒りは、主に母と夫に向けられる。怒りは2-3時間で収束することが多いが、著しい興奮が持続すると、家具を壊したり、自らの四肢を包丁で刺したり、自分から110番をしてパトカーを呼んだりという行動に至る。その後、2児の母である彼女は、「自分のせいで子どもがちゃんと育たない」といった後悔や自己嫌悪に苛まれる。このような著しい気分の変動のせいで、「苦痛を忘れるため」に鎮痛剤の過量服薬を行うことがある。生活は不規則になりがちであるが、時折母親の支援を必要とするものの、家事をこなすことはできている。
 境界性パーソナリティ障害については、現在多くの臨床的実践が蓄積されつつあり、また、精神療法的研究などの臨床的研究、生物学的研究が活発に行われている<ref>'''Gunderson JG, Weinberg I, Choi-Kain L.'''<br>Borderline Personality Disorder. <br>''FOCUS''. 2013;11(2):129-145.</ref>。
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 境界性パーソナリティ障害については、現在多くの臨床的実践が蓄積されつつあり、また、精神療法的研究などの臨床的研究、生物学的研究が活発に行われている<ref>'''Gunderson JG, Weinberg I, Choi-Kain L.'''<br>Borderline Personality Disorder. <br>''FOCUS''. 2013;11(2):129-145.</ref>。


==歴史的概観==
==歴史的概観==
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 現行の[[DSM-5]]<ref name=ref2>American Psychiatric Association. Diagnostic and statistical manual of mental disorders, fifth edition, DSM-5.<br>Washington, DC: ''American Psychiatric Association''; 2013.</ref>では、DSM-III以来の記述が大枠で踏襲されている。そこでは、パーソナリティ障害の特徴が、患者の[[内的体験]]および行動の持続的パターンの偏りが広い機能領域に及んでいること(つまり、特定の領域が決定的に障害されているのではないこと)、そのパターンが個人的および社会的状況の幅広い範囲に見られること、そして長期間持続しており、その始まりが青年期もしくは成人期早期までに認められることなどが基本的なものだとされている。
 現行の[[DSM-5]]<ref name=ref2>American Psychiatric Association. Diagnostic and statistical manual of mental disorders, fifth edition, DSM-5.<br>Washington, DC: ''American Psychiatric Association''; 2013.</ref>では、DSM-III以来の記述が大枠で踏襲されている。そこでは、パーソナリティ障害の特徴が、患者の[[内的体験]]および行動の持続的パターンの偏りが広い機能領域に及んでいること(つまり、特定の領域が決定的に障害されているのではないこと)、そのパターンが個人的および社会的状況の幅広い範囲に見られること、そして長期間持続しており、その始まりが青年期もしくは成人期早期までに認められることなどが基本的なものだとされている。


 境界性パーソナリティ障害の診断基準項目(比較的疾患特異的な精神症状)は9項目あり、そのうちの5が満たされるなら、境界性パーソナリティ障害の診断を考慮することになる。DSM-5の診断基準を表に示す。
 境界性パーソナリティ障害(BPD)は、全般的な気分、対人関係、自己像の不安定さ、著しい衝動性のパターンで、成人期早期に始まり、種々の状況で明らかになる。境界性パーソナリティ障害の診断基準項目(比較的疾患特異的な精神症状)は9項目あり、そのうちの5が満たされるなら、境界性パーソナリティ障害の診断を考慮することになる。DSM-5の診断基準を'''表'''に示す。
 


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| 境界性パーソナリティ障害(BPD)は、全般的な気分、対人関係、自己像の不安定さ、著しい衝動性のパターンで、成人期早期に始まり、種々の状況で明らかになる。以下のうち5項目以上が存在すれば診断される。
|+表. DSM-5による境界性パーソナリティ障害の診断基準
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|#実際のまたは想像上の見捨てられる体験を避けようとする懸命の努力。但し、(5)の自殺、自傷行為を含めないこと。
|'''以下のうち5項目以上が存在すれば診断される。'''
#実際のまたは想像上の見捨てられる体験を避けようとする懸命の努力。但し、'''5.'''の自殺、自傷行為を含めないこと。
#過剰な理想化と過小評価との両極端を揺れ動く特徴をもつ不安定で激しい対人関係の様式。
#過剰な理想化と過小評価との両極端を揺れ動く特徴をもつ不安定で激しい対人関係の様式。
#同一性障害:著明で持続的な自己像や自己感覚の不安定さ。
#[[自己同一性障害|同一性障害]]:著明で持続的な自己像や[[自己感覚]]の不安定さ。
#衝動性によって自己を傷つける可能性のある領域の少なくとも2つにわたるもの。例えば、浪費、セックス、薬物常用、万引、無謀な運転、過食。但し、(5)に示される自殺行為や自傷行為を含まない。
#衝動性によって自己を傷つける可能性のある領域の少なくとも2つにわたるもの。例えば、浪費、セックス、[[薬物常用]]、万引、無謀な運転、[[過食]]。但し、'''5.'''に示される自殺行為や自傷行為を含まない。
#自殺の脅かし、そぶり、行動、または自傷行為の繰り返し。
#自殺の脅かし、そぶり、行動、または自傷行為の繰り返し。
#著明な感情的反応性による感情的な不安定さ (例えば、一過性の強烈な気分変調性障害、焦燥感や不安、通常2-3時間続くが、2-3日以上続くことは稀)。
#著明な感情的反応性による感情的な不安定さ (例えば、一過性の強烈な[[気分変調性障害]]、焦燥感や[[不安]]、通常2-3時間続くが、2-3日以上続くことは稀)。
#慢性的な空虚感、退屈。
#慢性的な空虚感、退屈。
#不適切で激しい怒り、または怒りの制御ができないこと (例えば、しばしばかんしゃくを起こす、いつも怒っている、喧嘩を繰り返す)。
#不適切で激しい怒り、または怒りの制御ができないこと (例えば、しばしばかんしゃくを起こす、いつも怒っている、喧嘩を繰り返す)。
#一過性の,ストレスに関連した妄想的念慮,もしくは重症の解離症状。
#一過性の,ストレスに関連した妄想的念慮,もしくは重症の[[解離症状]]。
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 境界性パーソナリティ障害の基本的精神症状は、その診断基準9項目の因子分析から、[[対人関係の障害]](対人関係が不安定で[[自己同一性]]が不確定)、[[行動コントロール]]の障害([[衝動的行動]]が多いこと)、[[感情コントロール]]の障害(感情不安定で怒りが強いこと)の3種に分類されるという見解が示されている。
 境界性パーソナリティ障害の基本的精神症状は、その診断基準9項目の因子分析から、[[対人関係の障害]](対人関係が不安定で[[自己同一性]]が不確定)、[[行動コントロール]]の障害([[衝動的行動]]が多いこと)、[[感情コントロール]]の障害(感情不安定で怒りが強いこと)の3種に分類されるという見解が示されている。


 さらにDSM-5<ref name=ref2 />において代替モデルとして提案された診断基準では、境界性パーソナリティ障害が否定的感情 (negative affectivity: 不安や感情不安定が著しいこと)、[[対抗]](antagonism: 対人関係で摩擦が多いこと)、[[脱抑制]](disinhibition: 衝動行為が発生しやすいこと)といった病的パーソナリティ傾向が特徴であるとされる。ここでは、この病的パーソナリティ傾向の構成が、先に紹介した境界性パーソナリティ障害診断基準項目の分類とほぼ相応していることが確認される。
 さらにDSM-5<ref name=ref2 />において代替モデルとして提案された診断基準では、境界性パーソナリティ障害が否定的感情 (negative affectivity: 不安や感情不安定が著しいこと)、[[対抗]](antagonism: 対人関係で摩擦が多いこと)、[[脱抑制]](disinhibition: 衝動行為が発生しやすいこと)といった[[病的パーソナリティ傾向]]が特徴であるとされる。ここでは、この病的パーソナリティ傾向の構成が、先に紹介した境界性パーソナリティ障害診断基準項目の分類とほぼ相応していることが確認される。


===疫学===
===疫学===
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==まとめ==
==まとめ==
 境界性パーソナリティ障害は、感情や対人関係の不安定さ、衝動的行動パターンを主徴とするパーソナリティ障害であり、精神科臨床で見られる頻度の高いものである。その病因論では、生物学的要因や養育環境の要因などさまざまな発病要因の関与が想定されている。その治療では、さまざまな精神療法や薬物療法が組み合わせられて用いられており、治療の実績が確認されつつある。すなわち、現在これは、治療によって改善・回復が十分に期待できる精神障害であると考えられる。しかしそこには、依然として疾病論的に不確定の部分が残されており、さらに多数の精神障害が併存する性質があることなどから、境界性パーソナリティ障害の診断・治療を定式化して普及させることが容易でないと考えられる。特にわが国では、その診断が一般的になっておらず、治療技法も十分普及していない状態にある。今後とも議論を積み重ねて、わが国に適合した対策を考案し、導入することが要請されている<ref name=ref12>'''林直樹'''<br>実地診療におけるパーソナリティ障害の診断および誤診の特殊性<br>''精神科診断学''. 2014;7(1):57-63.</ref>。
 境界性パーソナリティ障害は、感情や対人関係の不安定さ、衝動的行動パターンを主徴とするパーソナリティ障害であり、精神科臨床で見られる頻度の高いものである。その病因論では、生物学的要因や養育環境の要因などさまざまな発病要因の関与が想定されている。その治療では、さまざまな精神療法や薬物療法が組み合わせられて用いられており、治療の実績が確認されつつある。すなわち、現在これは、治療によって改善・回復が十分に期待できる精神障害であると考えられる。しかしそこには、依然として疾病論的に不確定の部分が残されており、さらに多数の精神障害が併存する性質があることなどから、境界性パーソナリティ障害の診断・治療を定式化して普及させることが容易でないと考えられる。特にわが国では、その診断が一般的になっておらず、治療技法も十分普及していない状態にある。今後とも議論を積み重ねて、わが国に適合した対策を考案し、導入することが要請されている<ref name=ref12>'''林直樹'''<br>実地診療におけるパーソナリティ障害の診断および誤診の特殊性<br>''精神科診断学''. 2014;7(1):57-63.</ref>。
== 関連項目 ==
* [[パーソナリティ障害]]


==参考文献==
==参考文献==
<references />
<references />