「錯覚」の版間の差分

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 以上のように、錯覚、幻覚、妄想の三者は学問的には明確に区別できるものであるが、日常用語あるいは一般の辞書類では曖昧に用いられる場合がある。たとえば、研究社 新英和大辞典 第5版によれば、"illusion"は「1 幻覚、幻影、幻(cf. hallucination) 2 幻想、妄想、迷想、迷い、誤解(delusion) 3 〘心理〙錯覚:an optical~ 錯視」となっていて、錯覚、幻覚、妄想は混同されやすい概念であることがわかる。奇術あるいは手品(magic)がイルージョンと呼ばれることもしばしばであり、奇術と認識されているうちは普通の錯覚の話だが、それが心霊術(spiritualism)として活用されると、イルージョンに超常的な性質が意味づけされることなる。
 以上のように、錯覚、幻覚、妄想の三者は学問的には明確に区別できるものであるが、日常用語あるいは一般の辞書類では曖昧に用いられる場合がある。たとえば、研究社 新英和大辞典 第5版によれば、"illusion"は「1 幻覚、幻影、幻(cf. hallucination) 2 幻想、妄想、迷想、迷い、誤解(delusion) 3 〘心理〙錯覚:an optical~ 錯視」となっていて、錯覚、幻覚、妄想は混同されやすい概念であることがわかる。奇術あるいは手品(magic)がイルージョンと呼ばれることもしばしばであり、奇術と認識されているうちは普通の錯覚の話だが、それが心霊術(spiritualism)として活用されると、イルージョンに超常的な性質が意味づけされることなる。


 試みに、深層学習の旗手 ChatGPT に「錯覚とは何か」について聞いてみた。ChatGPTは、2022年11月にOpenAIがリリースした対話に特化したWebサービスである。情報を広く収集しているAIなのだから、より一般的な見解が得られる可能性がある。回答は以下のとおりであった(2023年1月8日に筆者が英語で質問し、英語で回答されたものを日本語に翻訳)。''錯覚とは、感覚的な体験における誤った認識や誤解のことである。どの感覚にも起こる可能性があるが、最も一般的なのは視覚である。錯覚は、物理的な環境、個人の精神状態、あるいは両者の相互作用など、さまざまな要因によって引き起こされる可能性がある。例えば、目の錯覚は、脳が目から受け取った情報を、実際の物理的な世界のあり方とは異なる方法で解釈したときに起こる。その結果、実際には存在しない形や模様が見えるなど、現実のようでいて現実ではない視覚体験をすることがある。また、聴覚、味覚、触覚などにも錯覚が生じることがある。''上述の英和辞典が錯覚を病的なものと明示的に並列させていたことに比べれば、一見健常的なものとしてまとめている。ただし、たとえば「現実のようでいて現実ではない視覚体験」という表現で幻覚を暗示している可能性はある。
 試みに、深層学習の旗手 ChatGPT に「錯覚とは何か」について聞いてみた。ChatGPTは、2022年11月にOpenAIがリリースした対話に特化したWebサービスである。情報を広く収集しているAIなのだから、より一般的な見解が得られる可能性がある。回答は以下のとおりであった(2023年1月8日に筆者が英語で質問し、英語で回答されたものを日本語に翻訳)。''錯覚とは、感覚的な体験における誤った認識や誤解のことである。どの感覚にも起こる可能性があるが、最も一般的なのは視覚である。錯覚は、物理的な環境、個人の精神状態、あるいは両者の相互作用など、さまざまな要因によって引き起こされる可能性がある。例えば、目の錯覚は、脳が目から受け取った情報を、実際の物理的な世界のあり方とは異なる方法で解釈したときに起こる。その結果、実際には存在しない形や模様が見えるなど、現実のようでいて現実ではない視覚体験をすることがある。また、聴覚、味覚、触覚などにも錯覚が生じることがある。''上述の英和辞典が錯覚を病的なものと明示的に並列させていたことに比べれば、一見健常的なものとしてまとめている。ただし、たとえば「現実のようでいて現実ではない視覚体験」という表現で幻覚を暗示している可能性はある。[[ファイル:Rotsnakesstrong6b.jpg|thumb|300px|'''図1 静止画が動いて見える錯視の例。最適化型フレーザー・ウィルコックス錯視を用いた作品「蛇の回転」(北岡, 2003)。円盤がひとりでに回転して見える。明るくてコントラストの高い刺激で錯視は強く、中心視で錯視は弱い。''']]


 錯覚は、対象についての知識と一致しない知覚(あるいは認知)である。ということは、錯覚は、対象からの刺激によって脳内あるいは心に生成した知覚というだけのものではない。その対象についての「客観的」な知識を事前あるいは事後に持っていて、その知識とその知覚を照合する過程が錯覚の成立に必須である。すなわち、同じ刺激で同じ知覚が得られたとしても、ある人にとっては錯覚であり、別の人には普通の知覚であることがある。たとえば、静止画が動いて見える錯視という現象がある(図1)。[[ファイル:Rotsnakesstrong6b.jpg|thumb|300px|'''図1 静止画が動いて見える錯視の例。最適化型フレーザー・ウィルコックス錯視を用いた作品「蛇の回転」(北岡, 2003)。円盤がひとりでに回転して見える。明るくてコントラストの高い刺激で錯視は強く、中心視で錯視は弱い。''']]ある観察者が図1を見て円盤が回転して見えた時、この画像は静止画ではなく動画であると認識すれば、その観察者にとっては知覚された錯視的運動は錯視ではなく、リアルである。この画像が「本当は静止画である」という知識と知覚の不一致を認識して初めて錯視なのである。この錯視的運動が知覚されない観察者にとっては、この図はただの静止画であって錯視画像ではないことは言うまでもないが、それは知覚と知識が一致しているからである。
 錯覚は、対象についての知識と一致しない知覚(あるいは認知)である。ということは、錯覚は、対象からの刺激によって脳内あるいは心に生成した知覚というだけのものではない。その対象についての「客観的」な知識を事前あるいは事後に持っていて、その知識とその知覚を照合する過程が錯覚の成立に必須である。すなわち、同じ刺激で同じ知覚が得られたとしても、ある人にとっては錯覚であり、別の人には普通の知覚であることがある。たとえば、静止画が動いて見える錯視という現象がある(図1)。ある観察者が図1を見て円盤が回転して見えた時、この画像は静止画ではなく動画であると認識すれば、その観察者にとっては知覚された錯視的運動は錯視ではなく、リアルなものである。この画像が「本当は静止画である」という知識と知覚の不一致を認識して初めて錯視なのである。この錯視的運動が知覚されない観察者にとっては、この図はただの静止画であって錯視画像ではないことは言うまでもないが、それは知覚と知識が一致しているからである。ちなみに、この錯視画像を観察中に運動視を司ると考えられる大脳皮質の領域(hMT+)が活性化される証拠がある。
 
 ヒト以外の動物にも錯視が見えるという報告はある。それによって、ヒトが錯視図形を見て知覚するような「知覚の歪み」が動物にもあるらしい、ということはわかる。しかし、それが動物にとって錯視であるかどうかは疑わしい。たとえばヒトはなぜか錯視をおもしろがる(だからこそ脳科学辞典に錯覚の項目が設定されたのであろう)が、動物は特段錯視をおもしろがるようには見えない。もっとも、動物が錯視をおもしろがらないからと言って、それが動物が錯視を錯覚として認識していないことの証拠にはならない。しかしながら、「動物にも錯視は見えるか」という問いはヒトと動物の連続性があることを期待して発せられているので、ヒトが錯視をおもしろがるなら動物もおもしろがることが期待されるのに、そうではないことから、「錯視を錯覚として認識するのはヒトだけである」という可能性はある。


 ヒト以外の動物にも錯視が見えるという報告はある。それによって、ヒトが錯視図形を見て知覚するような「知覚の歪み」が動物にもあるらしい、ということはわかる。しかし、それが動物にとって錯視であるかどうかは疑わしい。たとえばヒトはなぜか錯視をおもしろがる(だからこそ脳科学辞典に錯覚の項目が設定されたのであろう)が、動物は特段錯視をおもしろがるようには見えない。もちろん、動物が錯視をおもしろがらないからと言って、それが動物が錯視を錯覚として認識していないことの証拠にはならない。しかしながら、「動物にも錯視は見えるか」という問いはヒトと動物の連続性があることを期待して発せられているので、ヒトが錯視をおもしろがるなら動物もおもしろがるはずであるのにそうでないことの説明は必要である。


(以下、修正予定)
(以下、修正予定)
つまり、錯覚は知覚でありながら、その定義が観察者の知識に左右されるという点で、客観性が低く感じられる概念である。ところが、多くの観察者が一致して比較的一定の範囲の知覚を錯覚と呼ぶことと、錯覚を研究することで知覚や認知のメカニズムが明らかになるかもしれないという期待から、心理学においてはその初期(19世紀後半)より錯覚を研究の対象としてきた。
つまり、錯覚は知覚でありながら、その定義が観察者の知識に左右されるという点で、客観性が低く感じられる概念である。ところが、多くの観察者が一致して比較的一定の範囲の知覚を錯覚と呼ぶことと、錯覚を研究することで知覚や認知のメカニズムが明らかになるかもしれないという期待から、心理学においてはその初期(19世紀後半)より錯覚を研究の対象としてきた。
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