「脳神経倫理学」の版間の差分

編集の要約なし
17行目: 17行目:
 脳神経倫理学とは、脳神経科学研究の発展に伴う倫理的・社会的問題を扱う学際的で実践的な学問領域である<ref name=ref3>'''Illess, J.''' ed.<br>Neuroethics: Defining the Issues in Theory, Practice And Policy. <br>''Oxford University Press'', Oxford, 2005.<br>(高橋隆雄、粂和彦監訳:脳神経倫理学―理論・実践・政策上の諸問題、''篠原出版新社''、2009.)</ref> <ref name=ref2>'''Illes, J., Barbara J. Sahakian, J. B., Federico, A. C., Morein-Zamir, S.'''<br>The Oxford Handbook of Neuroethics. <br>''Oxford University Press'', Oxford, 2011.</ref> <ref name=ref1><pubmed>17034890</pubmed></ref> <ref name=ref5>'''Gazzaniga, M.'''<br>The Ethical Brain. <br>D''ana Press'', 2005<br>(梶山 あゆみ訳:脳のなかの倫理―脳倫理学序説、''紀伊國屋書店''、2006.)</ref> <ref name=ref12>'''信原幸弘, 原塑'''編<br>脳神経倫理学の展望<br>''勁草書房''、2008.</ref> <ref name=ref17>'''美馬達哉'''<br>脳のエシックス―脳神経倫理学入門<br>''人文書院''、2010</ref> <ref name=ref15>'''福士珠美・佐倉統'''<br>「Brain-Machine Interface (BMI) 研究開発のための倫理とガバナンス:日米における取り組みの現状と将来展望」<br>『電子情報通信学会技術研究報告』107(263), 59-62. 2007</ref> <ref name=ref7>'''Racine, E.'''<br>Pragmatic Neuroethics: Improving Treatment and Understanding of the Mind-Brain.<br>''The MIT Press'', Cambridge, 2010</ref>。[[生命倫理]]や[[医療倫理]]と密接な関係がある応用倫理学の一分野であるが、脳神経科学がもたらす新たな倫理的・社会的課題について対応するという側面から、生命倫理学などとは異なる新たな学問分野として位置づけられることが通常である<ref name=ref12>'''信原幸弘, 原塑'''編<br>脳神経倫理学の展望<br>''勁草書房''、2008.</ref>。現在の脳神経倫理学は、ヒトを対象とした脳活動の画像解析技術が格段に進歩したことを受けて、2000年頃からその重要性が指摘され始めた領域を指す。原語は「Neuroethics」であり、日本語においては「神経倫理学」、「脳倫理」などと称されることもあるが、脳と神経の両方を対象とすることを強調するため、本項目では「脳神経倫理学」とする。
 脳神経倫理学とは、脳神経科学研究の発展に伴う倫理的・社会的問題を扱う学際的で実践的な学問領域である<ref name=ref3>'''Illess, J.''' ed.<br>Neuroethics: Defining the Issues in Theory, Practice And Policy. <br>''Oxford University Press'', Oxford, 2005.<br>(高橋隆雄、粂和彦監訳:脳神経倫理学―理論・実践・政策上の諸問題、''篠原出版新社''、2009.)</ref> <ref name=ref2>'''Illes, J., Barbara J. Sahakian, J. B., Federico, A. C., Morein-Zamir, S.'''<br>The Oxford Handbook of Neuroethics. <br>''Oxford University Press'', Oxford, 2011.</ref> <ref name=ref1><pubmed>17034890</pubmed></ref> <ref name=ref5>'''Gazzaniga, M.'''<br>The Ethical Brain. <br>D''ana Press'', 2005<br>(梶山 あゆみ訳:脳のなかの倫理―脳倫理学序説、''紀伊國屋書店''、2006.)</ref> <ref name=ref12>'''信原幸弘, 原塑'''編<br>脳神経倫理学の展望<br>''勁草書房''、2008.</ref> <ref name=ref17>'''美馬達哉'''<br>脳のエシックス―脳神経倫理学入門<br>''人文書院''、2010</ref> <ref name=ref15>'''福士珠美・佐倉統'''<br>「Brain-Machine Interface (BMI) 研究開発のための倫理とガバナンス:日米における取り組みの現状と将来展望」<br>『電子情報通信学会技術研究報告』107(263), 59-62. 2007</ref> <ref name=ref7>'''Racine, E.'''<br>Pragmatic Neuroethics: Improving Treatment and Understanding of the Mind-Brain.<br>''The MIT Press'', Cambridge, 2010</ref>。[[生命倫理]]や[[医療倫理]]と密接な関係がある応用倫理学の一分野であるが、脳神経科学がもたらす新たな倫理的・社会的課題について対応するという側面から、生命倫理学などとは異なる新たな学問分野として位置づけられることが通常である<ref name=ref12>'''信原幸弘, 原塑'''編<br>脳神経倫理学の展望<br>''勁草書房''、2008.</ref>。現在の脳神経倫理学は、ヒトを対象とした脳活動の画像解析技術が格段に進歩したことを受けて、2000年頃からその重要性が指摘され始めた領域を指す。原語は「Neuroethics」であり、日本語においては「神経倫理学」、「脳倫理」などと称されることもあるが、脳と神経の両方を対象とすることを強調するため、本項目では「脳神経倫理学」とする。


 近年の脳神経科学研究の発展としては、例えば、以下のようなものが挙げられる。ブレイン・マシン・インターフェース(BMI)のような外部機器と脳を接続することで、リハビリや医療応用を目指すもの。脳神経科学と経済学の交錯領域として、脳神経経済学(ニューロエコノミクス)と呼ばれる領域が隆盛してきている。従来の経済学は経済理論、数理モデル、統計を駆使したものが主流であったが、[[wj:経済学|経済学]]と脳神経科学の融合により、経済学的モデルに対して脳神経科学アプローチによる研究が行われるようになってきた。例えば、不確実な状況下における人間の意志決定に際して、脳内メカニズムの解明を試みるなどの研究がある。将来的には、脳内メカニズムの解明結果を用いて、人間の意志決定の場面などにおいて外部からの意志のコントロールなどの可能性を含んでおり、社会との接点において倫理的・社会的にも注視に値する。また、脳神経マーケティング(ニューロマーケティング)と呼ばれる、脳神経経済学とも密接に関連する領域も研究が盛んである。この研究分野においては、マーケティングという、より実践的で日常的な場面での意志決定などへの脳神経科学的アプローチを用いた研究が行われるようになってきている。例えば、商品の選好場面において、その個人はどのような脳内状態であるのかを明らかにするような研究がある。より実践的には、企業のマーケティング戦略において、購買意欲を駆り立てるような商品開発や広報の方法の仕方などへの応用も視野に入れられている。そのため、社会との接点においては、企業マーケティングにおいて従来の広告などの手法に加えてより消費者への働きかけが強くなる可能性もあるため、脳神経経済学(ニューロエコノミクス)よりもさらに注意が必要である。また、脳神経科学と法学の接点として、裁判において被疑者や証人の脳状態が証拠となりうる可能性を模索する、脳神経法学と呼ばれる領域も近年の研究は盛んである。[[精神鑑定]]や[[wj:DNA|DNA]]判定が裁判での有力な証拠となるように、被疑者や証人の脳状態もまた裁判の証拠として採用される可能性がある。例えば、脳神経科学研究における脳画像診断によって、被疑者の責任の有無に影響を与えることが想定される。一方で、証人や被疑者の脳状態を法廷での判断材料とすることには、信頼性などの面で時期尚早であるという批判も強い。またこの問題は自由意志と責任帰属の問題とも密接に関連し、当人自体と当人の脳状態によってどこまで責任が当人自体に帰属されるのかということに関わる事項である<ref name=ref15>'''Garland, B.''' ed.<br>Neuroscience and the Law: Brain, Mind, and the Scales of Justice. <br>''Dana Press'', New York, 2004<br>(古谷和, 久村典子訳:脳科学と倫理と法―神経倫理学入門、''みすず書房''、2007)</ref> <ref name=ref16>'''樋口範雄'''編<br>ケース・スタディ生命倫理と法 第2版<br>''有斐閣''、2012</ref>。
 近年の脳神経科学研究の発展としては、例えば、以下のようなものが挙げられる。ブレイン・マシン・インターフェース(BMI)のような外部機器と脳を接続することで、リハビリや医療応用を目指すもの。脳神経科学と経済学の交錯領域として、脳神経経済学(ニューロエコノミクス)と呼ばれる領域が隆盛してきている。従来の経済学は経済理論、数理モデル、統計を駆使したものが主流であったが、[[wj:経済学|経済学]]と脳神経科学の融合により、経済学的モデルに対して脳神経科学アプローチによる研究が行われるようになってきた。例えば、不確実な状況下における人間の意志決定に際して、脳内メカニズムの解明を試みるなどの研究がある。将来的には、脳内メカニズムの解明結果を用いて、人間の意志決定の場面などにおいて外部からの意志のコントロールなどの可能性を含んでおり、社会との接点において倫理的・社会的にも注視に値する。また、脳神経マーケティング(ニューロマーケティング)と呼ばれる、脳神経経済学とも密接に関連する領域も研究が盛んである。この研究分野においては、マーケティングという、より実践的で日常的な場面での意志決定などへの脳神経科学的アプローチを用いた研究が行われるようになってきている。例えば、商品の選好場面において、その個人はどのような脳内状態であるのかを明らかにするような研究がある。より実践的には、企業のマーケティング戦略において、購買意欲を駆り立てるような商品開発や広報の方法の仕方などへの応用も視野に入れられている。そのため、社会との接点においては、企業マーケティングにおいて従来の広告などの手法に加えてより消費者への働きかけが強くなる可能性もあるため、脳神経経済学(ニューロエコノミクス)よりもさらに注意が必要である。また、脳神経科学と法学の接点として、裁判において被疑者や証人の脳状態が証拠となりうる可能性を模索する、脳神経法学と呼ばれる領域も近年の研究は盛んである。[[精神鑑定]]や[[wj:DNA|DNA]]判定が裁判での有力な証拠となるように、被疑者や証人の脳状態もまた裁判の証拠として採用される可能性がある。例えば、脳神経科学研究における脳画像診断によって、被疑者の責任の有無に影響を与えることが想定される。一方で、証人や被疑者の脳状態を法廷での判断材料とすることには、信頼性などの面で時期尚早であるという批判も強い。またこの問題は自由意志と責任帰属の問題とも密接に関連し、当人自体と当人の脳状態によってどこまで責任が当人自体に帰属されるのかということに関わる事項である<ref name=ref15>'''Garland, B.''' ed.<br>Neuroscience and the Law: Brain, Mind, and the Scales of Justice. <br>''Dana Press'', New York, 2004<br>(古谷和, 久村典子訳:脳科学と倫理と法―神経倫理学入門、''みすず書房''、2007)</ref> <ref name=ref16>'''樋口範雄'''編<br>ケース・スタディ生命倫理と法 第2版<br>''有斐閣''、2012</ref>。
 
 


==具体的な問題事例==
==具体的な問題事例==