「意味性認知症」の版間の差分

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類義語:semantic variant primary progressive aphasia
類義語:semantic variant primary progressive aphasia


{{box|text= 意味性認知症(semantic dementia: SD)とは、側頭葉に比較的限局する左右差のある萎縮を有し、臨床的には意味記憶障害が前景に立つ臨床症候群である。65歳未満で発症する事が多い。左優位萎縮では一般物品(例:蜜柑、桜など)についての意味記憶障害を呈し、右優位萎縮では人物についての意味記憶障害を呈しやすい。一般物品の意味記憶障害では、その名前が言えない、名称を聞いても、そのものが理解できないという失語症状に始まり、その後次第に物品を見ても、触っても同定できなくなる。自発語は流暢で、聴理解障害、物品呼称の障害があり、語の理解障害が中心である。人物の意味記憶障害では熟知相貌の認知障害から始まり、良く知っているはずの人の顔を見ても同定できず、声を聞いても名前を聞いても同定できない。エピソード記憶、視空間認知機能は保たれる。脱抑制、被影響性亢進で説明できる行動異常を経過中に認める事が多い。甘い物を多食するような食行動変化がしばしば出現する。運動機能は初期には保たれるが、進行すると脳萎縮の高度な側の反対側の上下肢に錐体路徴候や筋強剛が出現し、寝たきりとなって死亡する。病理学的にはTDP-43陽性封入体を有する前頭側頭葉変性症(FTLD-TDP)のタイプC病理の頻度が高い。根本的な治療法はなく、介護の関わりによる生活の工夫といった非薬物的介入と、選択的セロトニン再取り込み阻害剤を用いた対症療法的な薬物療法を試みる事が多い。平成27年から指定難病となっている。}}
{{box|text= 意味性認知症とは、側頭葉に比較的限局する左右差のある萎縮を有し、臨床的には意味記憶障害が前景に立つ臨床症候群である。65歳未満で発症する事が多い。左優位萎縮では一般物品(例:蜜柑、桜など)についての意味記憶障害を呈し、右優位萎縮では人物についての意味記憶障害を呈しやすい。一般物品の意味記憶障害では、その名前が言えない、名称を聞いても、そのものが理解できないという失語症状に始まり、その後次第に物品を見ても、触っても同定できなくなる。自発語は流暢で、聴理解障害、物品呼称の障害があり、語の理解障害が中心である。人物の意味記憶障害では熟知相貌の認知障害から始まり、良く知っているはずの人の顔を見ても同定できず、声を聞いても名前を聞いても同定できない。エピソード記憶、視空間認知機能は保たれる。脱抑制、被影響性亢進で説明できる行動異常を経過中に認める事が多い。甘い物を多食するような食行動変化がしばしば出現する。運動機能は初期には保たれるが、進行すると脳萎縮の高度な側の反対側の上下肢に錐体路徴候や筋強剛が出現し、寝たきりとなって死亡する。病理学的にはTDP-43陽性封入体を有する前頭側頭葉変性症(FTLD-TDP)のタイプC病理の頻度が高い。根本的な治療法はなく、介護の関わりによる生活の工夫といった非薬物的介入と、選択的セロトニン再取り込み阻害剤を用いた対症療法的な薬物療法を試みる事が多い。平成27年から指定難病となっている。}}


== 概要 ==
== 概要 ==
=== 背景、歴史 ===
=== 背景、歴史 ===


 意味性認知症(semantic dementia: SD)とは、前頭葉と側頭葉の限局性の萎縮と、それに基づく行動異常や神経心理学的症状で特徴づけられる前頭側頭葉変性症のうち、脳萎縮の分布が側頭葉に限局するか、あるいは側頭葉と前頭葉に萎縮が認められるが側頭葉の方が優位で、臨床的には意味記憶障害が前景に立つ状態像を指す臨床症候群の名称である <ref name=Hodges1992><pubmed>1486461</pubmed></ref><ref name=Hodges1999><pubmed>10067773</pubmed></ref><ref name=Snowden1996>'''Snowden JS, Neary D, Mann DMA (1996).'''<br>Fronto-temporal dementia. In: Snowden JS, Neary D, Mann DMA. Frontotemporal lobar degeneration. Frontotemporal dementia、 progressive aphasia, semantic dementia. New York: Churchill Livingstone 9-41.</ref>[1][2][3]。臨床概念であるので病理基盤の種類は問わない。
 意味性認知症(semantic dementia: 意味性認知症)とは、前頭葉と側頭葉の限局性の萎縮と、それに基づく行動異常や神経心理学的症状で特徴づけられる前頭側頭葉変性症のうち、脳萎縮の分布が側頭葉に限局するか、あるいは側頭葉と前頭葉に萎縮が認められるが側頭葉の方が優位で、臨床的には意味記憶障害が前景に立つ状態像を指す臨床症候群の名称である <ref name=Hodges1992><pubmed>1486461</pubmed></ref><ref name=Hodges1999><pubmed>10067773</pubmed></ref><ref name=Snowden1996>'''Snowden JS, Neary D, Mann DMA (1996).'''<br>Fronto-temporal dementia. In: Snowden JS, Neary D, Mann DMA. Frontotemporal lobar degeneration. Frontotemporal dementia、 progressive aphasia, semantic dementia. New York: Churchill Livingstone 9-41.</ref>[1][2][3]。臨床概念であるので病理基盤の種類は問わない。


 脳の限局性萎縮に対応した症候群の分類名は歴史的変遷があり、SDの概念はその流れの中で理解できる。前頭葉と側頭葉に萎縮が限局し、それに対応した症状をきたす症例群は、歴史的には病理背景に関係なく「ピック病」と呼ばれてきた。側頭葉優位の萎縮を有す例は「側頭葉型ピック病」と呼ばれていた時期があるが、その症例報告には現在のSDの臨床症状がしばしば記載されていた。
 脳の限局性萎縮に対応した症候群の分類名は歴史的変遷があり、意味性認知症の概念はその流れの中で理解できる。前頭葉と側頭葉に萎縮が限局し、それに対応した症状をきたす症例群は、歴史的には病理背景に関係なく「ピック病」と呼ばれてきた。側頭葉優位の萎縮を有す例は「側頭葉型ピック病」と呼ばれていた時期があるが、その症例報告には現在の意味性認知症の臨床症状がしばしば記載されていた。


 1994年にスウェーデンLund大学のGustafsonらと英国Manchester大学のNearyらのグループが前頭側頭型認知症(frontotemporal dementia: FTD)の概念をまとめ<ref name=Lund1994><pubmed>8163988</pubmed></ref>[4]、次いで1998年にNearyらがFTDに加えて、前頭側頭葉の萎縮と同部位の症状が前景に立つ症候群としてSDと進行性非流暢性失語(progressive non-fluent aphasia: PNFA)を合わせて前頭側頭葉変性症(frontotemporal lobar degeneration: FTLD)と呼ぶことを提唱した(図1) <ref name=Neary1998><pubmed>9855500</pubmed></ref>[5]。
 1994年にスウェーデンLund大学のGustafsonらと英国Manchester大学のNearyらのグループが前頭側頭型認知症(frontotemporal dementia: FTD)の概念をまとめ<ref name=Lund1994><pubmed>8163988</pubmed></ref>[4]、次いで1998年にNearyらが前頭側頭型認知症に加えて、前頭側頭葉の萎縮と同部位の症状が前景に立つ症候群として意味性認知症と進行性非流暢性失語(progressive non-fluent aphasia: PNFA)を合わせて前頭側頭葉変性症(frontotemporal lobar degeneration: FTLD)と呼ぶことを提唱した(図1) <ref name=Neary1998><pubmed>9855500</pubmed></ref>[5]。


 側頭葉優位の萎縮を呈するSD例ではその脳萎縮に左右差がある事が多い。左優位萎縮では一般物品についての意味記憶障害を呈する例、右優位萎縮では人物についての意味記憶障害、相貌認知障害、視覚対象認知障害を呈しやすく、SDの概念はこの両方を含む<ref name=Snowden1996></ref>[3]。この様な意味記憶障害に沿った概念の整理と並行して、言語の障害に注目した臨床像の整理も進められた。まず初期に言語障害が前景に立ち認知症を欠く症例を緩徐進行性失語(slowly progressive aphasia without generalized dementia)とする概念が提唱され<ref name=Mesulam1982><pubmed>7114808</pubmed></ref>[6]、次いで、発症二年以内に言語以外の認知機能や行動に異常を認めないとする原発性進行性失語(primary progressive aphasia: PPA)とまとめた概念が提唱された<ref name=Mesulam2001><pubmed>11310619</pubmed></ref>[7]。PPAには三亜型としてnon-fluent progressive aphasia、logopenic progressive aphasiaとともにSDが設定されていたが<ref name=Gorno-Tempini2004><pubmed>14991811</pubmed></ref>[8]、その後、SDから物品呼称の障害と単語理解の障害を有する例だけを抽出して「意味性亜型PPA(semantic variant primary progressive aphasia: svPPA)」と設定しなおした。これが現在のPPAの分類である<ref name=Gorno-Tempini2011><pubmed>21325651</pubmed></ref>[9]。
 側頭葉優位の萎縮を呈する意味性認知症例ではその脳萎縮に左右差がある事が多い。左優位萎縮では一般物品についての意味記憶障害を呈する例、右優位萎縮では人物についての意味記憶障害、相貌認知障害、視覚対象認知障害を呈しやすく、意味性認知症の概念はこの両方を含む<ref name=Snowden1996></ref>[3]。この様な意味記憶障害に沿った概念の整理と並行して、言語の障害に注目した臨床像の整理も進められた。まず初期に言語障害が前景に立ち認知症を欠く症例を緩徐進行性失語(slowly progressive aphasia without generalized dementia)とする概念が提唱され<ref name=Mesulam1982><pubmed>7114808</pubmed></ref>[6]、次いで、発症二年以内に言語以外の認知機能や行動に異常を認めないとする原発性進行性失語(primary progressive aphasia: PPA)とまとめた概念が提唱された<ref name=Mesulam2001><pubmed>11310619</pubmed></ref>[7]。PPAには三亜型としてnon-fluent progressive aphasia、logopenic progressive aphasiaとともに意味性認知症が設定されていたが<ref name=Gorno-Tempini2004><pubmed>14991811</pubmed></ref>[8]、その後、意味性認知症から物品呼称の障害と単語理解の障害を有する例だけを抽出して「意味性亜型PPA(semantic variant primary progressive aphasia: svPPA)」と設定しなおした。これが現在のPPAの分類である<ref name=Gorno-Tempini2011><pubmed>21325651</pubmed></ref>[9]。


 svPPAとSDとの違いは二点ある。一つは、SDには初期から人物の意味記憶障害による相貌認知障害を呈する例が含まれるが、svPPAでは初期から視知覚性の障害が顕著な例は含まれない。二つ目は、svPPAの診断は、原発性進行性失語(primary progressive aphasia)の診断基準を満たすことが前提となるため、病初期に失語が最も目立つ症状でなければならず、顕著な行動異常があった場合は除外される。そのため初期に行動異常がある程度目立つ場合は、SDと診断できてもsvPPAとは診断できない。これらの違いのためSD症例のうちsvPPAと診断される症例はごく一部である<ref name=池田学2013>'''池田 学、一美奈緒子、橋本 衛 (2013).'''<br>進行性失語の概念と診断。高次脳機能研究 33: 304-309</ref>[10]。右優位側頭葉萎縮例では人物の意味記憶障害、相貌認知障害、視覚対象認知障害、行動異常を呈しやすいので、結果的にsvPPAの基準を満たしにくい。右側頭葉優位萎縮例の臨床像はright-temporal lobe syndrome(右側頭葉症候群)と呼ばれる<ref name=Miller2014>'''Miller BL. (2014).'''<br>The clinical syndrome of svPPA. In: Miller BL. Frontotemporal dementia. New York: Oxford University Press 47-65.</ref>[11]。
 svPPAと意味性認知症との違いは二点ある。一つは、意味性認知症には初期から人物の意味記憶障害による相貌認知障害を呈する例が含まれるが、svPPAでは初期から視知覚性の障害が顕著な例は含まれない。二つ目は、svPPAの診断は、原発性進行性失語(primary progressive aphasia)の診断基準を満たすことが前提となるため、病初期に失語が最も目立つ症状でなければならず、顕著な行動異常があった場合は除外される。そのため初期に行動異常がある程度目立つ場合は、意味性認知症と診断できてもsvPPAとは診断できない。これらの違いのため意味性認知症症例のうちsvPPAと診断される症例はごく一部である<ref name=池田学2013>'''池田 学、一美奈緒子、橋本 衛 (2013).'''<br>進行性失語の概念と診断。高次脳機能研究 33: 304-309</ref>[10]。右優位側頭葉萎縮例では人物の意味記憶障害、相貌認知障害、視覚対象認知障害、行動異常を呈しやすいので、結果的にsvPPAの基準を満たしにくい。右側頭葉優位萎縮例の臨床像はright-temporal lobe syndrome(右側頭葉症候群)と呼ばれる<ref name=Miller2014>'''Miller BL. (2014).'''<br>The clinical syndrome of svPPA. In: Miller BL. Frontotemporal dementia. New York: Oxford University Press 47-65.</ref>[11]。


 SDとsvPPAという異なる用語があるのは、症状のどの側面に注目すべきと考えるかという研究者の見解の違いによる。SDは、意味記憶障害という中核の症状は言語的要素だけではなく、相貌や物体の認識における問題として出現し、それが言葉の意味の障害より先行する場合がある事などから、「言語」よりも本質的には「記憶」の障害と考える立場から提唱されている<ref name=Snowden1996></ref>[3]。svPPAは、PPAという失語を中心に考える「言語の障害による認知症状態(language-based dementia <ref name=Mesulam2003><pubmed>14561797</pubmed></ref>[12])」という概念の一亜型である。
 意味性認知症とsvPPAという異なる用語があるのは、症状のどの側面に注目すべきと考えるかという研究者の見解の違いによる。意味性認知症は、意味記憶障害という中核の症状は言語的要素だけではなく、相貌や物体の認識における問題として出現し、それが言葉の意味の障害より先行する場合がある事などから、「言語」よりも本質的には「記憶」の障害と考える立場から提唱されている<ref name=Snowden1996></ref>[3]。svPPAは、PPAという失語を中心に考える「言語の障害による認知症状態(language-based dementia <ref name=Mesulam2003><pubmed>14561797</pubmed></ref>[12])」という概念の一亜型である。


== 診断 ==
== 診断 ==
=== 臨床症状 ===
=== 臨床症状 ===
==== 意味記憶障害 ====
==== 意味記憶障害 ====
 意味性認知症で最も重要な症状である。意味記憶は、エピソード記憶、手続き記憶などと共にヒトの記憶システムを構成する<ref name=Tulving1972>'''Tulving, E. and Donaldson W. (1972).'''<br>Episodic and semantic memory. In E. Tulving & W. Donaldson (Eds.). Organization of memory. New York: Academic Press.</ref><ref name=Tulving1991>'''Tulving, E.(太田信夫 訳)(1991).'''<br>人間の複数記憶システム. 科学; 61: 263-270。</ref><ref name=小森憲治郎2014>'''小森憲治郎、谷向 知、数井裕光、上野修一 (2014).'''<br>意味性認知症の臨床像から. 基礎心理学研究 33: 55-63 [https://doi。org/10.1365/s35127-014-0479-y DOI]</ref><ref name=小森憲治郎2019>'''小森憲治郎 (2019).'''<br>神経心理学的症候のとらえ方. 学術の動向 5: 25-31</ref>[13][14][15][16]。SDにおいては一般物品と人物の意味記憶障害が含まれ、前者は後述の失語の側面から、後者は広く視覚対象の認知障害としても理解できる。
 意味性認知症で最も重要な症状である。意味記憶は、エピソード記憶、手続き記憶などと共にヒトの記憶システムを構成する<ref name=Tulving1972>'''Tulving, E. and Donaldson W. (1972).'''<br>Episodic and semantic memory. In E. Tulving & W. Donaldson (Eds.). Organization of memory. New York: Academic Press.</ref><ref name=Tulving1991>'''Tulving, E.(太田信夫 訳)(1991).'''<br>人間の複数記憶システム. 科学; 61: 263-270。</ref><ref name=小森憲治郎2014>'''小森憲治郎、谷向 知、数井裕光、上野修一 (2014).'''<br>意味性認知症の臨床像から. 基礎心理学研究 33: 55-63 [https://doi。org/10.1365/s35127-014-0479-y DOI]</ref><ref name=小森憲治郎2019>'''小森憲治郎 (2019).'''<br>神経心理学的症候のとらえ方. 学術の動向 5: 25-31</ref>[13][14][15][16]。意味性認知症においては一般物品と人物の意味記憶障害が含まれ、前者は後述の失語の側面から、後者は広く視覚対象の認知障害としても理解できる。


 一般物品とは、蜜柑、犬、コップ、鉛筆など目に見える様々な物体であり、例えば「ジャガイモ」に関する意味記憶を構成するのは、名称、形、色、硬さ、匂い、それらのバリエーション、カテゴリー(食べ物、野菜など)、それを使ってできた物(料理、菓子)、といった情報である。ある物品について完全にその意味記憶が失われている場合、それを見て呼称ができず、既視感すらないため「見た事がない」と述べ、その名前を聞いても「聞いたことがない」と述べ、実物を触っても、匂いを嗅いでも、食べられる物なら食べてみても、それが何であるかが分からず、「知らない」と述べる。健常者の物の認識は、それを見ただけで可能であるが(つまり視覚モダリティだけで同定できる)、更に、見ずに触る、においだけを感じる、味だけ確かめるといった、一つの感覚モダリティを用いるだけでも通常は可能である。例えばポテトサラダを食べると、ジャガイモの形がなくともジャガイモが使われていると分かり、昆布だしの汁は昆布の形がみえない液体でも味で昆布が使われていると分かる。しかし意味記憶障害では、どの知覚を用いてもその物を知っている感覚が得られない。その意味で意味記憶障害は、一つの感覚モダリティに限局した障害である通常の失認とは異なる。
 一般物品とは、蜜柑、犬、コップ、鉛筆など目に見える様々な物体であり、例えば「ジャガイモ」に関する意味記憶を構成するのは、名称、形、色、硬さ、匂い、それらのバリエーション、カテゴリー(食べ物、野菜など)、それを使ってできた物(料理、菓子)、といった情報である。ある物品について完全にその意味記憶が失われている場合、それを見て呼称ができず、既視感すらないため「見た事がない」と述べ、その名前を聞いても「聞いたことがない」と述べ、実物を触っても、匂いを嗅いでも、食べられる物なら食べてみても、それが何であるかが分からず、「知らない」と述べる。健常者の物の認識は、それを見ただけで可能であるが(つまり視覚モダリティだけで同定できる)、更に、見ずに触る、においだけを感じる、味だけ確かめるといった、一つの感覚モダリティを用いるだけでも通常は可能である。例えばポテトサラダを食べると、ジャガイモの形がなくともジャガイモが使われていると分かり、昆布だしの汁は昆布の形がみえない液体でも味で昆布が使われていると分かる。しかし意味記憶障害では、どの知覚を用いてもその物を知っている感覚が得られない。その意味で意味記憶障害は、一つの感覚モダリティに限局した障害である通常の失認とは異なる。


 初期のSD患者は症状を自覚できるので、自分で身の回りの様々な物の写真を撮り、その名前を言う練習をすることがある。しかし、例えばあるカーテンの写真を見て「カーテン」と呼称できるようになっても、別の実際に他の窓にかかる異なる色・形のカーテンを見ると、「カーテン」とは呼称できず、カーテンと認識すること自体できないことがある。このため、一つの物を呼称できる様になる機能と、その物の概念として意味記憶を形成する機能は異なると考えられる。同様の現象はSD患者への言語訓練の過程で指摘されている<ref name=一美奈緒子2012>'''一美奈緒子、橋本衛、小松優子、池田学 (2013).'''<br>意味性認知症における言語訓練の意義。高次脳機能研究 32: 417-425</ref>[17]。通常、人が「カーテン」という物が何かという事を理解する時には、多種多様なカーテンを見て覚えるという作業をする事はない。例えば小さな子供が1、2種類のイヌの写真を使って「これがワンワン」と教えられると、道で全く見たことのない色、毛の長さ、顔立ち、体つきのイヌを見ても一瞬で指さして「ワンワン」と呼称できる。このことからも物品のバリエーションを記銘する積み上げ型の学習と意味概念を成立させる作業は本質的に異なると推測できる。意味記憶機能が正常の状態では、既にある物について意味記憶が成立し、概念のカテゴリーの境界が設定できているので、その後初めて見る外見の物でも既に保有しているカテゴリーの境界内の物であると認識できる。一方、SD患者では「キュウリを見て何か分からなくても、野菜という事は分かり、動物と間違えることはない」など、下位カテゴリーの境界の認識から低下する傾向がある。このようなことを踏まえると、意味記憶機能は概念の境界の設定に関係している様にも思われる。
 初期の意味性認知症患者は症状を自覚できるので、自分で身の回りの様々な物の写真を撮り、その名前を言う練習をすることがある。しかし、例えばあるカーテンの写真を見て「カーテン」と呼称できるようになっても、別の実際に他の窓にかかる異なる色・形のカーテンを見ると、「カーテン」とは呼称できず、カーテンと認識すること自体できないことがある。このため、一つの物を呼称できる様になる機能と、その物の概念として意味記憶を形成する機能は異なると考えられる。同様の現象は意味性認知症患者への言語訓練の過程で指摘されている<ref name=一美奈緒子2012>'''一美奈緒子、橋本衛、小松優子、池田学 (2013).'''<br>意味性認知症における言語訓練の意義。高次脳機能研究 32: 417-425</ref>[17]。通常、人が「カーテン」という物が何かという事を理解する時には、多種多様なカーテンを見て覚えるという作業をする事はない。例えば小さな子供が1、2種類のイヌの写真を使って「これがワンワン」と教えられると、道で全く見たことのない色、毛の長さ、顔立ち、体つきのイヌを見ても一瞬で指さして「ワンワン」と呼称できる。このことからも物品のバリエーションを記銘する積み上げ型の学習と意味概念を成立させる作業は本質的に異なると推測できる。意味記憶機能が正常の状態では、既にある物について意味記憶が成立し、概念のカテゴリーの境界が設定できているので、その後初めて見る外見の物でも既に保有しているカテゴリーの境界内の物であると認識できる。一方、意味性認知症患者では「キュウリを見て何か分からなくても、野菜という事は分かり、動物と間違えることはない」など、下位カテゴリーの境界の認識から低下する傾向がある。このようなことを踏まえると、意味記憶機能は概念の境界の設定に関係している様にも思われる。


 SD患者における物品についての意味記憶は、その人にとって親しみがあり使用頻度の高い物品について、より保たれる傾向がある<ref name=Snowden1996></ref> [3]。またそのカテゴリー内で典型的な対象物が残りやすい傾向があり、非典型的な対象を典型的に見誤るエラーが生じやすい(例:なすびの絵を緑色に塗る)<ref name=Patterson2006><pubmed>16494679</pubmed></ref>[18]。 同じ物品でも、実物より写真、更に要素を簡略化した線画ほど認識しにくい。しかし、意味記憶機能が正常な人の場合、かなり誇張されたアニメを見ても(極端な場合は道具や建物の無機物に顔を描いて人の様なキャラクターにしたとしても)、元の物の種類が分からなくなることはない。一般物品についての意味記憶障害は全ての物品について一律に完全な障害を認めるわけではなく、既視感の全くない物品、カテゴリーだけ正答できる物品、かろうじて呼称までできる物品などが混ざる。
 意味性認知症患者における物品についての意味記憶は、その人にとって親しみがあり使用頻度の高い物品について、より保たれる傾向がある<ref name=Snowden1996></ref> [3]。またそのカテゴリー内で典型的な対象物が残りやすい傾向があり、非典型的な対象を典型的に見誤るエラーが生じやすい(例:なすびの絵を緑色に塗る)<ref name=Patterson2006><pubmed>16494679</pubmed></ref>[18]。 同じ物品でも、実物より写真、更に要素を簡略化した線画ほど認識しにくい。しかし、意味記憶機能が正常な人の場合、かなり誇張されたアニメを見ても(極端な場合は道具や建物の無機物に顔を描いて人の様なキャラクターにしたとしても)、元の物の種類が分からなくなることはない。一般物品についての意味記憶障害は全ての物品について一律に完全な障害を認めるわけではなく、既視感の全くない物品、カテゴリーだけ正答できる物品、かろうじて呼称までできる物品などが混ざる。


 SD患者では、アイコン、標識、マークの意味の理解が高度に不良である場合が多い。例えば赤信号の写真を見せて「これはどういう意味か」と訊くと、「赤い電気がついている」と述べるなど表面的な視覚情報の認識にとどまり、真の意味理解(例:赤信号なら「止まれ」)はできていない。「てまねき」など意味を含む動作の理解も障害される<ref name=Nishio2006><pubmed>16891383</pubmed></ref>[19]。このような真の意味が人為的に付与された事柄の理解が難しい傾向がある。
 意味性認知症患者では、アイコン、標識、マークの意味の理解が高度に不良である場合が多い。例えば赤信号の写真を見せて「これはどういう意味か」と訊くと、「赤い電気がついている」と述べるなど表面的な視覚情報の認識にとどまり、真の意味理解(例:赤信号なら「止まれ」)はできていない。「てまねき」など意味を含む動作の理解も障害される<ref name=Nishio2006><pubmed>16891383</pubmed></ref>[19]。このような真の意味が人為的に付与された事柄の理解が難しい傾向がある。


 意味記憶は、一般物品や人物といった「見える物体」以外の「見えない抽象概念」に関してもある。これは暑い、寒いといった形容詞の概念や、助ける、掛けるといった動詞の概念、許可、禁止、思いやり、上品、下品、自分勝手、濡れ衣といった抽象名詞の概念である。これらの意味記憶機能が正常の場合は、今から自分が取る行動や態度が抽象概念に当てはまるもか否かを瞬時に判断できる(例:自分の行動が「厚かましい」か否かを判断する)。しかし抽象概念の意味記憶が障害されると、この判断はできなくなると推測される。SD患者では、一般常識に照らすと「無遠慮」、「下品」、「自分勝手」と見える行動が生活の中で頻発し、指摘しても本人は悪びれる様子がないという特異な反応を示すことがしばしばあるが、この様な行動には脱抑制だけでなく、遠慮、品、思いやりといった道徳に関する意味記憶が失われているために、それらを逸脱した行動をとっていることに気付けなくなっている可能性も推測される。これと類似すると思われる現象が慣用句の理解について観察されており、例えば身体部位はSDでも比較的良く保たれる概念だが、その身体部位を使った「腹が立つ」「足が出る」「耳が痛い」など、きわめて簡易な構造の複合語である慣用句はSDでは初期から障害される<ref name=橋本衛2015>'''橋本衛、一美美奈子、池田学 (2014).'''<br>Semantic dementiaの言語障害の本質とは何か. 高次脳機能研究 35:304-311. [https://doi.org/10.2496/hbfr.35.304 DOI]</ref>[20]。こうした具体的な対象物の意味から派生した概念の喪失は、SDの社会的判断に多くの支障を生じさせる一因として働いている可能性がある。
 意味記憶は、一般物品や人物といった「見える物体」以外の「見えない抽象概念」に関してもある。これは暑い、寒いといった形容詞の概念や、助ける、掛けるといった動詞の概念、許可、禁止、思いやり、上品、下品、自分勝手、濡れ衣といった抽象名詞の概念である。これらの意味記憶機能が正常の場合は、今から自分が取る行動や態度が抽象概念に当てはまるもか否かを瞬時に判断できる(例:自分の行動が「厚かましい」か否かを判断する)。しかし抽象概念の意味記憶が障害されると、この判断はできなくなると推測される。意味性認知症患者では、一般常識に照らすと「無遠慮」、「下品」、「自分勝手」と見える行動が生活の中で頻発し、指摘しても本人は悪びれる様子がないという特異な反応を示すことがしばしばあるが、この様な行動には脱抑制だけでなく、遠慮、品、思いやりといった道徳に関する意味記憶が失われているために、それらを逸脱した行動をとっていることに気付けなくなっている可能性も推測される。これと類似すると思われる現象が慣用句の理解について観察されており、例えば身体部位は意味性認知症でも比較的良く保たれる概念だが、その身体部位を使った「腹が立つ」「足が出る」「耳が痛い」など、きわめて簡易な構造の複合語である慣用句は意味性認知症では初期から障害される<ref name=橋本衛2015>'''橋本衛、一美美奈子、池田学 (2014).'''<br>Semantic dementiaの言語障害の本質とは何か. 高次脳機能研究 35:304-311. [https://doi.org/10.2496/hbfr.35.304 DOI]</ref>[20]。こうした具体的な対象物の意味から派生した概念の喪失は、意味性認知症の社会的判断に多くの支障を生じさせる一因として働いている可能性がある。


==== 言語の症状 ====
==== 言語の症状 ====
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==== 神経症状・運動障害 ====
==== 神経症状・運動障害 ====
 初期には運動機能は保たれ、神経学的異常を欠くことが多いとされるが<ref name=Snowden1996></ref> [3]、外見的に運動障害がないように見える例でも、診察により軽度の筋強剛や錐体路徴候(腱反射亢進や軽度のバビンスキー徴候など)が大脳萎縮の強い側の対側の上肢や下肢に認められることは稀ではない<ref name=横田修2015>横田修。TDP-43陽性封入体を有する前頭側頭葉変性症(FTLD-TDP)の臨床的特徴. 精神医学 2015; 57: 839-847.</ref>[28]。運動障害の軽微な症状は左右差のある明らかな上下肢の錐体路障害、パーキンソニズム、拘縮に移行する<ref name=Yokota2009 />[26]。後方視的な検討では、SDを呈する代表的な疾患であるTDP-43陽性封入体を有するFTLD(FTLD-TDP)では、SDを呈する例の50%以上が脳萎縮の強い側の反対側に強調される左右差のある錐体路障害やパーキンソニズムを呈する<ref name=Yokota2009 />[26]。このため最終的には歩行不能となり寝たきりとなる。四肢の運動障害の進行と共に、嚥下障害も出現し、誤嚥性肺炎を起こす。
 初期には運動機能は保たれ、神経学的異常を欠くことが多いとされるが<ref name=Snowden1996></ref> [3]、外見的に運動障害がないように見える例でも、診察により軽度の筋強剛や錐体路徴候(腱反射亢進や軽度のバビンスキー徴候など)が大脳萎縮の強い側の対側の上肢や下肢に認められることは稀ではない<ref name=横田修2015>横田修。TDP-43陽性封入体を有する前頭側頭葉変性症(FTLD-TDP)の臨床的特徴. 精神医学 2015; 57: 839-847.</ref>[28]。運動障害の軽微な症状は左右差のある明らかな上下肢の錐体路障害、パーキンソニズム、拘縮に移行する<ref name=Yokota2009 />[26]。後方視的な検討では、意味性認知症を呈する代表的な疾患であるTDP-43陽性封入体を有するFTLD(FTLD-TDP)では、意味性認知症を呈する例の50%以上が脳萎縮の強い側の反対側に強調される左右差のある錐体路障害やパーキンソニズムを呈する<ref name=Yokota2009 />[26]。このため最終的には歩行不能となり寝たきりとなる。四肢の運動障害の進行と共に、嚥下障害も出現し、誤嚥性肺炎を起こす。


=== 検査所見 ===
=== 検査所見 ===


==== 脳形態画像検査 ====
==== 脳形態画像検査 ====
 CT(図2)、MRI(図3A)では側頭葉極に強い、左右差のある脳萎縮が認められる。扁桃核、海馬、島回も側頭葉萎縮の強い側と同側に強い萎縮を呈する<ref name=Snowden1996></ref> [3]。前頭葉皮質は側頭葉より萎縮が軽度で、左右差に関しては側頭葉と一致する。進行と共に側頭葉萎縮の強い側と同側の中心前回や下頭頂小葉の萎縮が出現する例がある<ref name=Yokota2009><pubmed>19194716</pubmed></ref>[26]。
 '''CT'''(図2)、MRI('''図3A''')では側頭葉極に強い、左右差のある脳萎縮が認められる。扁桃核、海馬、島回も側頭葉萎縮の強い側と同側に強い萎縮を呈する<ref name=Snowden1996></ref> [3]。前頭葉皮質は側頭葉より萎縮が軽度で、左右差に関しては側頭葉と一致する。進行と共に側頭葉萎縮の強い側と同側の中心前回や下頭頂小葉の萎縮が出現する例がある<ref name=Yokota2009><pubmed>19194716</pubmed></ref>[26]。


==== 脳血流シンチグラフィー ====
==== 脳血流シンチグラフィー ====
 脳萎縮の左右差と一致して側頭葉に強い血流低下を認める(図3B) <ref name=Snowden1996></ref> [3]。前頭葉にはより軽度の血流低下を同じ左右差で認めることが多い。
 脳萎縮の左右差と一致して側頭葉に強い血流低下を認める('''図3B''') <ref name=Snowden1996></ref> [3]。前頭葉にはより軽度の血流低下を同じ左右差で認めることが多い。


=== 診断基準 ===
=== 診断基準 ===


SDの診断基準
意味性認知症の診断基準
Nearyらが1998年に発表した診断基準<ref name=Neary1998><pubmed>9855500</pubmed></ref>[5]を'''表1'''に示す。
Nearyらが1998年に発表した診断基準<ref name=Neary1998><pubmed>9855500</pubmed></ref>[5]を'''表1'''に示す。


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=== 鑑別診断 ===
=== 鑑別診断 ===


 意味記憶障害による物品呼称の障害や物を見て認識できない症状を、周囲が「物忘れ」と表現する事が多いためアルツハイマー病(Alzheimer’s disease: AD)と診断されることがある。海馬傍回に強い萎縮を認める事が多いため、側頭極の高度の萎縮を見慣れていないと、高度の海馬萎縮をADの支持的な所見と誤解しうる。SDでは側頭葉極は初期から左右差を持って萎縮するが、ADでは初期から同部位がそのような萎縮を呈することはない。SDでは扁桃核萎縮も初期から明らかで、側頭葉萎縮の左右差と一致した左右差を呈するが、これもADでは初期からは認められない。
 意味記憶障害による物品呼称の障害や物を見て認識できない症状を、周囲が「物忘れ」と表現する事が多いためアルツハイマー病(Alzheimer’s disease: AD)と診断されることがある。海馬傍回に強い萎縮を認める事が多いため、側頭極の高度の萎縮を見慣れていないと、高度の海馬萎縮をADの支持的な所見と誤解しうる。意味性認知症では側頭葉極は初期から左右差を持って萎縮するが、ADでは初期から同部位がそのような萎縮を呈することはない。意味性認知症では扁桃核萎縮も初期から明らかで、側頭葉萎縮の左右差と一致した左右差を呈するが、これもADでは初期からは認められない。


SDは初期から意味記憶障害以外に前頭葉機能障害による軽度の行動異常を呈する例がしばしばある。このため意味記憶障害や言語の問題の存在を見落とすと行動異常型前頭側頭型認知症(behavioral variant frontotemporal dementia: bvFTD)と診断されうる。
 意味性認知症は初期から意味記憶障害以外に前頭葉機能障害による軽度の行動異常を呈する例がしばしばある。このため意味記憶障害や言語の問題の存在を見落とすと行動異常型前頭側頭型認知症(behavioral variant frontotemporal dementia: bvFTD)と診断されうる。


bvFTDの最大50%はその診断の前に自閉症スペクトラム症、あるいは躁うつ病、統合失調症、強迫性疾患、嗜癖などの精神疾患と誤診されているが<ref name=Ducharme2020><pubmed>32129844</pubmed></ref>[29]、svPPAでも精神疾患と診断されている例が20%あるとの報告がある<ref name=Miller2014></ref>[11]。このようにFTLDは精神疾患と誤診されやすい。精神疾患とbvFTDの鑑別には、神経心理学的評価、MRIによる脳萎縮の評価(特に定量的統計解析)、18F-fluorodeoxyglucose PET、髄液中のニューロフィラメント軽鎖濃度が鑑別に有用で、C9orf72遺伝子におけるGGGGCCリピートの異常伸長の検索も重要と考えられているが<ref name=Ducharme2020 />[29]、SDと精神疾患の鑑別でも同様であると考えられる。
 bvFTDの最大50%はその診断の前に自閉症スペクトラム症、あるいは躁うつ病、統合失調症、強迫性疾患、嗜癖などの精神疾患と誤診されているが<ref name=Ducharme2020><pubmed>32129844</pubmed></ref>[29]、svPPAでも精神疾患と診断されている例が20%あるとの報告がある<ref name=Miller2014></ref>[11]。このようにFTLDは精神疾患と誤診されやすい。精神疾患とbvFTDの鑑別には、神経心理学的評価、MRIによる脳萎縮の評価(特に定量的統計解析)、18F-fluorodeoxyglucose PET、髄液中のニューロフィラメント軽鎖濃度が鑑別に有用で、C9orf72遺伝子におけるGGGGCCリピートの異常伸長の検索も重要と考えられているが<ref name=Ducharme2020 />[29]、意味性認知症と精神疾患の鑑別でも同様であると考えられる。


== 病因・病態 ==
== 病因・病態 ==


 SDでは側頭葉極に強い脳萎縮を認め、相対的に前頭葉は保たれ、側頭前頭型の萎縮を呈する。この萎縮分布パターンを取れば病理背景に関わらず臨床的にSDを呈しうると考えられるが、実際にはSDを呈する疾患で頻度が高いものはFTLD-TDPである。SD患者ではタウ陽性封入体が出現するタウオパチーの頻度が低い<ref name=Snowden2007><pubmed>17569065</pubmed></ref>[30]。新皮質におけるTDP-43陽性病変は組織病理学的にtype Aからtype Dの4型がまず整理され(図4A~4C) <ref name=Cairns2007><pubmed>17579875</pubmed></ref><ref name=Mackenzie2011><pubmed>21644037</pubmed></ref>[31][32]、後にtype Eが追加された<ref name=Lee2017><pubmed>28130640</pubmed></ref>[33]、SD患者のTDP-43病理学的サブタイプは長い変性神経突起を多く認めるtype C病理が高頻度である(図4C)。Manchester大のシリーズではSDを呈したFTLD-TDPの約90%を占め<ref name=Snowden2007 /> [30]、本邦でのFTLD-TDPの剖検シリーズでも同様の傾向を認める<ref name=Yokota2009><pubmed>19194716</pubmed></ref>[26]。ただし、稀にtype A病理<ref name=Snowden2007 /> [30]や、type B病理<ref name=Yokota2009><pubmed>19194716</pubmed></ref>[26]を有する例がある。特にtype B病理はTDP-43陽性封入体を有する筋萎縮性側索硬化症に強く関連する病理であるが、type BでSDを呈する例で経過中に四肢や舌の筋萎縮が出現し(図5A、 5B、 5C)、病理学的に上位・下位運動ニューロンの変性(図5D、 5E、 5F)と運動ニューロンにTDP-43陽性病変(図5G、 5H)を認める場合があるため、臨床実地では注意を要する。
 意味性認知症では側頭葉極に強い脳萎縮を認め、相対的に前頭葉は保たれ、側頭前頭型の萎縮を呈する。この萎縮分布パターンを取れば病理背景に関わらず臨床的に意味性認知症を呈しうると考えられるが、実際には意味性認知症を呈する疾患で頻度が高いものはFTLD-TDPである。意味性認知症患者ではタウ陽性封入体が出現するタウオパチーの頻度が低い<ref name=Snowden2007><pubmed>17569065</pubmed></ref>[30]。新皮質におけるTDP-43陽性病変は組織病理学的にtype Aからtype Dの4型がまず整理され(図4A~4C) <ref name=Cairns2007><pubmed>17579875</pubmed></ref><ref name=Mackenzie2011><pubmed>21644037</pubmed></ref>[31][32]、後にtype Eが追加された<ref name=Lee2017><pubmed>28130640</pubmed></ref>[33]、意味性認知症患者のTDP-43病理学的サブタイプは長い変性神経突起を多く認めるtype C病理が高頻度である(図4C)。Manchester大のシリーズでは意味性認知症を呈したFTLD-TDPの約90%を占め<ref name=Snowden2007 /> [30]、本邦でのFTLD-TDPの剖検シリーズでも同様の傾向を認める<ref name=Yokota2009><pubmed>19194716</pubmed></ref>[26]。ただし、稀にtype A病理<ref name=Snowden2007 /> [30]や、type B病理<ref name=Yokota2009><pubmed>19194716</pubmed></ref>[26]を有する例がある。特にtype B病理はTDP-43陽性封入体を有する筋萎縮性側索硬化症に強く関連する病理であるが、type Bで意味性認知症を呈する例で経過中に四肢や舌の筋萎縮が出現し(図5A、 5B、 5C)、病理学的に上位・下位運動ニューロンの変性(図5D、 5E、 5F)と運動ニューロンにTDP-43陽性病変(図5G、 5H)を認める場合があるため、臨床実地では注意を要する。


 3Rタウ陽性4Rタウ陰性のピック小体を有するピック病でSDを呈する例はかなり稀であり、本邦の経過を追えた14例のシリーズではSDを呈した例はおらず<ref name=Yokota2009><pubmed>19194716</pubmed></ref>[26]、米国のブレインバンクのピック病21例でもSDを呈した例はいなかった<ref name=Irwin2016><pubmed>26583316</pubmed></ref>[34]。英国のSDの剖検シリーズ24例においては、3例(12。5%)がPick小体を有するピック病、3例(12。5%)がADで、残りの18例(75%)がubiquitin陽性封入体を有するFTLDと報告されている(うち13例でTDP-43を検討し全例がFTLD-TDPであった) <ref name=Hodges2010><pubmed>19805492</pubmed></ref>[35]。
 3Rタウ陽性4Rタウ陰性のピック小体を有するピック病で意味性認知症を呈する例はかなり稀であり、本邦の経過を追えた14例のシリーズでは意味性認知症を呈した例はおらず<ref name=Yokota2009><pubmed>19194716</pubmed></ref>[26]、米国のブレインバンクのピック病21例でも意味性認知症を呈した例はいなかった<ref name=Irwin2016><pubmed>26583316</pubmed></ref>[34]。英国の意味性認知症の剖検シリーズ24例においては、3例(12。5%)がPick小体を有するピック病、3例(12。5%)がADで、残りの18例(75%)がubiquitin陽性封入体を有するFTLDと報告されている(うち13例でTDP-43を検討し全例がFTLD-TDPであった) <ref name=Hodges2010><pubmed>19805492</pubmed></ref>[35]。


 FTLD-TDPに関してはC9orf72遺伝子、valosin-containing protein(VCP)遺伝子、progranulin遺伝子の変異を有する例がある。
 FTLD-TDPに関してはC9orf72遺伝子、valosin-containing protein(VCP)遺伝子、progranulin遺伝子の変異を有する例がある。


 嗜銀顆粒病は扁桃核や海馬といった辺縁系、それに連続する側頭葉皮質に病変が分布する疾患だが、SDを呈する例は極めて稀である。病理学的に皮質基底核変性症や進行性核上性麻痺と診断される例も生前にSDを呈することはなく、これも新皮質の萎縮が前頭葉穹隆面に強調され、側頭葉は極を含めて比較的よく保たれることと矛盾しない。
 嗜銀顆粒病は扁桃核や海馬といった辺縁系、それに連続する側頭葉皮質に病変が分布する疾患だが、意味性認知症を呈する例は極めて稀である。病理学的に皮質基底核変性症や進行性核上性麻痺と診断される例も生前に意味性認知症を呈することはなく、これも新皮質の萎縮が前頭葉穹隆面に強調され、側頭葉は極を含めて比較的よく保たれることと矛盾しない。


== 治療、経過、予後 ==
== 治療、経過、予後 ==
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 根本的治療薬はない。対症療法に関しては、選択的セロトニン再取り込み阻害剤(selective serotonin reuptake inhibitor)が脱抑制などの行動異常に有効であったとの報告があり、2017年の認知症疾患診療ガイドライン<ref name=日本神経学会2017>認知症疾患診療ガイドライン2017.監修:日本神経学会.編集:認知症疾患診療ガイドライン作成委員会.医学書院2017年</ref>[36]では推奨されている(保険適応外使用)。
 根本的治療薬はない。対症療法に関しては、選択的セロトニン再取り込み阻害剤(selective serotonin reuptake inhibitor)が脱抑制などの行動異常に有効であったとの報告があり、2017年の認知症疾患診療ガイドライン<ref name=日本神経学会2017>認知症疾患診療ガイドライン2017.監修:日本神経学会.編集:認知症疾患診療ガイドライン作成委員会.医学書院2017年</ref>[36]では推奨されている(保険適応外使用)。


 非薬物的治療介入としては、エピソード記憶、手続き記憶、視空間認知機能が保たれることを利用した介入<ref name=池田学1995>'''池田 学,田邊敬貴,堀野 敬,小森憲治郎,平尾一幸,山田典史,橋本 衛,数井裕光,森 隆志 (1995).'''<br>Pick病のケア:保たれている手続き記憶を用いて.精神神経誌 97: 179-192.</ref>[37]、行動療法的な介入<ref name=池田学1996>'''池田 学, 今村 徹, 池尻義隆,下村辰雄,博野信次,中川賀嗣,森悦朗 (1996).'''<br>Pick 病患者の短期入院による在宅介護の支援.精神経誌 98: 822-829.</ref>[38]、社会的に問題になる行動を別の行動に置き換える介入<ref name=Lough2002><pubmed>12169338</pubmed></ref>[39]の有効性が報告されている。介護の取り組みとして個別性の高い少人数ケアを行う事で精神症状、行動障害、生活の質が改善する可能性も報告されている<ref name=Yokota2006><pubmed>16765875</pubmed></ref>[40]。比較的病初期から取りくんだ活動性は進行期にもルーチンとして保たれる場合が多く、福祉サービスの利用時に役立つ場合も少なくない<ref name=Tanabe1999><pubmed>10436341</pubmed></ref><ref name=小森憲治郎2018>'''小森憲治郎、柴 球美、谷向 知 (2018).'''<br>原発性進行性失語のケア. 日本認知症ケア学会誌. 17: 546−553.</ref>[41][42]。SD例が好む個別の活動では、ジグソーパズルや数独などがあげられ、特異な方法で高い習熟を示す<ref name=Green2009><pubmed>19014960</pubmed></ref>[43]。塗り絵などにも熱心な関心を示す例があり、言語機能が衰退した進行期にも、新たな創造性発現の可能性を秘めている<ref name=小森憲治郎2019 /><ref name=Miller1998><pubmed>9781516</pubmed></ref>[16][44]。
 非薬物的治療介入としては、エピソード記憶、手続き記憶、視空間認知機能が保たれることを利用した介入<ref name=池田学1995>'''池田 学,田邊敬貴,堀野 敬,小森憲治郎,平尾一幸,山田典史,橋本 衛,数井裕光,森 隆志 (1995).'''<br>Pick病のケア:保たれている手続き記憶を用いて.精神神経誌 97: 179-192.</ref>[37]、行動療法的な介入<ref name=池田学1996>'''池田 学, 今村 徹, 池尻義隆,下村辰雄,博野信次,中川賀嗣,森悦朗 (1996).'''<br>Pick 病患者の短期入院による在宅介護の支援.精神経誌 98: 822-829.</ref>[38]、社会的に問題になる行動を別の行動に置き換える介入<ref name=Lough2002><pubmed>12169338</pubmed></ref>[39]の有効性が報告されている。介護の取り組みとして個別性の高い少人数ケアを行う事で精神症状、行動障害、生活の質が改善する可能性も報告されている<ref name=Yokota2006><pubmed>16765875</pubmed></ref>[40]。比較的病初期から取りくんだ活動性は進行期にもルーチンとして保たれる場合が多く、福祉サービスの利用時に役立つ場合も少なくない<ref name=Tanabe1999><pubmed>10436341</pubmed></ref><ref name=小森憲治郎2018>'''小森憲治郎、柴 球美、谷向 知 (2018).'''<br>原発性進行性失語のケア. 日本認知症ケア学会誌. 17: 546−553.</ref>[41][42]。意味性認知症例が好む個別の活動では、ジグソーパズルや数独などがあげられ、特異な方法で高い習熟を示す<ref name=Green2009><pubmed>19014960</pubmed></ref>[43]。塗り絵などにも熱心な関心を示す例があり、言語機能が衰退した進行期にも、新たな創造性発現の可能性を秘めている<ref name=小森憲治郎2019 /><ref name=Miller1998><pubmed>9781516</pubmed></ref>[16][44]。


 SDは平成27年から指定難病の一つとなり、65歳未満の発症で重症度分類が3以上であるといった条件を満たした場合に医療助成が受けられるようになった。
 意味性認知症は平成27年から指定難病の一つとなり、65歳未満の発症で重症度分類が3以上であるといった条件を満たした場合に医療助成が受けられるようになった。
SDの生命予後に関しては、平均死亡時年齢が69.7±5。8歳、50%生存期間は12.8年であったとの報告がある<ref name=Hodges2010></ref>[35]。
意味性認知症の生命予後に関しては、平均死亡時年齢が69.7±5。8歳、50%生存期間は12.8年であったとの報告がある<ref name=Hodges2010></ref>[35]。


== 疫学 ==
== 疫学 ==


 臨床診断SD100例の検討では、男女比は6:4、平均発症年齢が60.3±7.01歳、平均診断時年齢が64.24±7.1歳、平均施設入所時年齢が66.9±6.5歳であったとの報告がある<ref name=Hodges2010></ref> [35]。発症年齢については46%が65歳以上で診断され、7例は75歳以上で診断されていたとされる<ref name=Hodges2010></ref>[35]。ただし、SDの代表的な病理であるFTLD-TDPの本邦の剖検シリーズの検討では、88.9%が65歳未満で発症しているため<ref name=Yokota2009><pubmed>19194716</pubmed></ref>[26]、高齢発症のSDではFTLD-TDP以外の病理背景の頻度が高い可能性がある。萎縮の左右差がSDでは認められやすく、左優位萎縮例:右優位萎縮例が70:24であったとの報告があるが<ref name=Hodges2010></ref>[35]、右優位例が多いシリーズの報告もある<ref name=Miki2016><pubmed>26969837</pubmed></ref>[45]。左優位萎縮例では失語を呈しやすいので脳神経内科を受診しやすく、右優位例は精神症状や行動異常が目立つ傾向があるため<ref name=Hodges2010></ref>[35]、精神科を受診しやすいといった施設バイアスが生じやすいと推測され、左右差のデータの解釈には注意を要する<ref name=Miller2014></ref>[11]。
 臨床診断意味性認知症100例の検討では、男女比は6:4、平均発症年齢が60.3±7.01歳、平均診断時年齢が64.24±7.1歳、平均施設入所時年齢が66.9±6.5歳であったとの報告がある<ref name=Hodges2010></ref> [35]。発症年齢については46%が65歳以上で診断され、7例は75歳以上で診断されていたとされる<ref name=Hodges2010></ref>[35]。ただし、意味性認知症の代表的な病理であるFTLD-TDPの本邦の剖検シリーズの検討では、88.9%が65歳未満で発症しているため<ref name=Yokota2009><pubmed>19194716</pubmed></ref>[26]、高齢発症の意味性認知症ではFTLD-TDP以外の病理背景の頻度が高い可能性がある。萎縮の左右差が意味性認知症では認められやすく、左優位萎縮例:右優位萎縮例が70:24であったとの報告があるが<ref name=Hodges2010></ref>[35]、右優位例が多いシリーズの報告もある<ref name=Miki2016><pubmed>26969837</pubmed></ref>[45]。左優位萎縮例では失語を呈しやすいので脳神経内科を受診しやすく、右優位例は精神症状や行動異常が目立つ傾向があるため<ref name=Hodges2010></ref>[35]、精神科を受診しやすいといった施設バイアスが生じやすいと推測され、左右差のデータの解釈には注意を要する<ref name=Miller2014></ref>[11]。


 欧米ではFTLDについて家族歴ある例が多く10~60%と高い頻度が報告される<ref name=Snowden2002><pubmed>11823324</pubmed></ref>[46]。SD100連続例において2~7%の家族歴が推定されている<ref name=Hodges2010></ref>[35]。一方、日本ではFTLDの家族例は極めて稀である<ref name=Ikeda2004><pubmed>15178933</pubmed></ref>[47]。
 欧米ではFTLDについて家族歴ある例が多く10~60%と高い頻度が報告される<ref name=Snowden2002><pubmed>11823324</pubmed></ref>[46]。意味性認知症100連続例において2~7%の家族歴が推定されている<ref name=Hodges2010></ref>[35]。一方、日本ではFTLDの家族例は極めて稀である<ref name=Ikeda2004><pubmed>15178933</pubmed></ref>[47]。


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==