「ヘブ則」の版間の差分
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1949年カナダの心理学者であったDonald Hebb(ドナルド・ヘブ)が自らの著書『The Organization of Behavior』の中で唱えた仮説。同書の該当箇所には、 | |||
「When an axon of cell A is near enough to excite a cell B and repeatedly or persistently takes part in firing it, some growth process or metabolic change takes place in one or both cells such that A's efficiency, as one of the cells firing B, is increased.(細胞Aの軸索が細胞Bを発火させるのに十分近くにあり、繰り返しあるいは絶え間なくその発火に参加するとき、いくつかの成長過程あるいは代謝変化が一方あるいは両方の細胞に起こり、細胞Bを発火させる細胞の1つとして細胞Aの効率が増加する。)(『The Organization of Behavior』D. O. Hebb著より引用)」 | |||
と書かれている。要約すれば「ニューロンAの発火がニューロンBを発火させると2つのニューロンの結合が強まる」となる。これは脳の中で起こっている記憶の基礎現象であると考えられる。つまり、記憶とは適切なニューロン同士の結合力の変化であると定式化できる。 | |||
ヘブは当時の知見を徹底的に吟味し、神経活動における「cell assembly(細胞集成体)」という概念を打ち立てた。ある受容器が刺激された場合には、それに応じて活動する細胞群によってcell assemblyが形成され、それはひとつの閉じた系として短時間活動できるようになると推測した。記憶とはそうした反響性活動の中で生じる永続的な細胞の構造変化であり、「ニューロンとニューロンの接合部であるシナプスというところに、長期的な変化が起こって信号の伝達効率が変化することが学習の仕組みである」という学習のシナプス仮説を唱えた。今日では、この仮説に基づくシナプス可塑性のルールが「ヘブ則」と呼ばれている。 | |||
ヘブの学説が大きく注目を浴びるのは、それが発表されて20年以上も経ってからである。1973年BlissとLomoは電気生理学的手法を用いて、ウサギの有孔質路を単一パルスで刺激した際の海馬でのシナプス伝達応答を観察していた。そして、彼らは有孔質路を高頻度に連続して刺激したときに、その刺激前後で単一パルスに対するシナプス応答が増大し、これが数時間以上さらには数日間にもわたって維持されることを見出した。後に長期増強(long-term potentiation, LTP)と呼ばれるシナプス可塑性の発見である。ヘブが記憶の痕跡であると考えた仮説はまさにこのLTPの機構を説明するものであった。当初、記憶と関わりの深い海馬で観察されたことから、LTPは記憶の基礎現象であると注目されLTPの研究は一気に加速していった。その後、LTPは大脳皮質、小脳、扁桃体などの様々な脳領域で見つかり、ヘブの学説が脳における一般的な学習メカニズムのひとつであると認知されるようになった。 | |||
現在では、LTPにはさまざまな分子機構が存在することがわかっており、脳領域や細胞種、生物の年齢によっても大きく異なる。その中でも、とりわけヘブ則と関連深いのはNMDA受容体依存的なLTPであろう。この種のLTPは最も広く研究されているシナプス可塑性であり、Blissらが最初に報告したLTPもこれに当たる。驚くべきことに、LTPがもつ3つの特徴のうち、「共同性(cooperativity)」と「連合性(associativity)」についてはすでにヘブの学説の中で予見されていたことであった(3つ目の特徴は、「入力特異性」である)。これら2つの特性は、McNaughtonら(1978年)およびLevyら(1979年)によってそれぞれ確認されている。 | |||
1997年にMarkramらによって発見されたspike timing-dependent plasticity (STDP)という学習法則は、ヘブ則とLTPとの関係をより深く理解するために重要である。というのも、ヘブ則はしばしば簡略化されて、「ニューロンAとニューロンBが同時に発火することによりシナプスが増強される」と解釈される。ところが彼らの研究では、(厳密には同時ではなく)ニューロンAがニューロンBに対して少しだけ先行して発火した場合にのみLTPが誘導されることが明らかとなった。この点についても、本来のヘブの仮説は正確であったと言える。ヘブ則には「ニューロンAがニューロンBを発火させると…」という2細胞間での発火の因果関係が明確に記されているからである。 | |||
一方で、ヘブ則に従わない可塑性ルールも多数発見されていることも事実であり、ヘブ則が唯一の学習理論であるわけではない。そうしたヘブ則に従わない一部の学習ルールは反ヘブ則(anti-Hebbian rule)や非ヘブ則(non-Hebbian rule)とも呼ばれ、重要な研究対象となっている。 | |||
最後に、ヘブ則が広まったのは実験科学の分野だけではない。1957年アメリカのRosenblattは、ヘブ則を学習関数として組み込んだパーセプトロンというパターン認識アルゴリズムを考案した。その後も、計算機シミュレーションを用いたニューラルネットワークの研究に大きな影響を与えている。 | |||
ヘブは当時の知見を徹底的に吟味し、神経活動における「cell | |||
2012年1月17日 (火) 18:50時点における版
1949年カナダの心理学者であったDonald Hebb(ドナルド・ヘブ)が自らの著書『The Organization of Behavior』の中で唱えた仮説。同書の該当箇所には、
「When an axon of cell A is near enough to excite a cell B and repeatedly or persistently takes part in firing it, some growth process or metabolic change takes place in one or both cells such that A's efficiency, as one of the cells firing B, is increased.(細胞Aの軸索が細胞Bを発火させるのに十分近くにあり、繰り返しあるいは絶え間なくその発火に参加するとき、いくつかの成長過程あるいは代謝変化が一方あるいは両方の細胞に起こり、細胞Bを発火させる細胞の1つとして細胞Aの効率が増加する。)(『The Organization of Behavior』D. O. Hebb著より引用)」
と書かれている。要約すれば「ニューロンAの発火がニューロンBを発火させると2つのニューロンの結合が強まる」となる。これは脳の中で起こっている記憶の基礎現象であると考えられる。つまり、記憶とは適切なニューロン同士の結合力の変化であると定式化できる。 ヘブは当時の知見を徹底的に吟味し、神経活動における「cell assembly(細胞集成体)」という概念を打ち立てた。ある受容器が刺激された場合には、それに応じて活動する細胞群によってcell assemblyが形成され、それはひとつの閉じた系として短時間活動できるようになると推測した。記憶とはそうした反響性活動の中で生じる永続的な細胞の構造変化であり、「ニューロンとニューロンの接合部であるシナプスというところに、長期的な変化が起こって信号の伝達効率が変化することが学習の仕組みである」という学習のシナプス仮説を唱えた。今日では、この仮説に基づくシナプス可塑性のルールが「ヘブ則」と呼ばれている。 ヘブの学説が大きく注目を浴びるのは、それが発表されて20年以上も経ってからである。1973年BlissとLomoは電気生理学的手法を用いて、ウサギの有孔質路を単一パルスで刺激した際の海馬でのシナプス伝達応答を観察していた。そして、彼らは有孔質路を高頻度に連続して刺激したときに、その刺激前後で単一パルスに対するシナプス応答が増大し、これが数時間以上さらには数日間にもわたって維持されることを見出した。後に長期増強(long-term potentiation, LTP)と呼ばれるシナプス可塑性の発見である。ヘブが記憶の痕跡であると考えた仮説はまさにこのLTPの機構を説明するものであった。当初、記憶と関わりの深い海馬で観察されたことから、LTPは記憶の基礎現象であると注目されLTPの研究は一気に加速していった。その後、LTPは大脳皮質、小脳、扁桃体などの様々な脳領域で見つかり、ヘブの学説が脳における一般的な学習メカニズムのひとつであると認知されるようになった。 現在では、LTPにはさまざまな分子機構が存在することがわかっており、脳領域や細胞種、生物の年齢によっても大きく異なる。その中でも、とりわけヘブ則と関連深いのはNMDA受容体依存的なLTPであろう。この種のLTPは最も広く研究されているシナプス可塑性であり、Blissらが最初に報告したLTPもこれに当たる。驚くべきことに、LTPがもつ3つの特徴のうち、「共同性(cooperativity)」と「連合性(associativity)」についてはすでにヘブの学説の中で予見されていたことであった(3つ目の特徴は、「入力特異性」である)。これら2つの特性は、McNaughtonら(1978年)およびLevyら(1979年)によってそれぞれ確認されている。 1997年にMarkramらによって発見されたspike timing-dependent plasticity (STDP)という学習法則は、ヘブ則とLTPとの関係をより深く理解するために重要である。というのも、ヘブ則はしばしば簡略化されて、「ニューロンAとニューロンBが同時に発火することによりシナプスが増強される」と解釈される。ところが彼らの研究では、(厳密には同時ではなく)ニューロンAがニューロンBに対して少しだけ先行して発火した場合にのみLTPが誘導されることが明らかとなった。この点についても、本来のヘブの仮説は正確であったと言える。ヘブ則には「ニューロンAがニューロンBを発火させると…」という2細胞間での発火の因果関係が明確に記されているからである。 一方で、ヘブ則に従わない可塑性ルールも多数発見されていることも事実であり、ヘブ則が唯一の学習理論であるわけではない。そうしたヘブ則に従わない一部の学習ルールは反ヘブ則(anti-Hebbian rule)や非ヘブ則(non-Hebbian rule)とも呼ばれ、重要な研究対象となっている。 最後に、ヘブ則が広まったのは実験科学の分野だけではない。1957年アメリカのRosenblattは、ヘブ則を学習関数として組み込んだパーセプトロンというパターン認識アルゴリズムを考案した。その後も、計算機シミュレーションを用いたニューラルネットワークの研究に大きな影響を与えている。