「カプグラ症候群」の版間の差分
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1990年、EllisとYoung [18]は、カプグラ症候群を相貌失認に妄想的加工が加わったものと解釈する「相貌失認の鏡像」仮説を提唱した。この仮説では、視覚皮質から下縦束を通り側頭葉へ至る「腹側経路(意識的な相貌の認知に関与)」、及び視覚皮質から下頭頂小葉を経由して大脳辺縁系へと至る「背側経路([[無意識]]的な相貌の認知に関与)」という、相貌の情報処理に関わる二経路が仮定されている。相貌失認は背側経路が健全な腹側経路のみの障害、カプグラ症候群は腹側経路が健全な背側経路のみの障害として説明される。背側経路の損傷により、既知の相貌に対する無意識の親しみが感知されなくなるが、正常な腹側経路によって相貌そのものは正しく処理される。結果的に「この顔は知人の特徴を備えているが親近感が沸かない」といった葛藤が生じ、これを解決するため「瓜二つだが偽物である」という誤判断が生まれるとされる。HirsteinとRamachandran [24]の症例は、頭部外傷後にカプグラ症候群を呈したが、人物誤認は対象を見た場合にのみ生じ、電話で話した場合には生じなかった。症状が視覚提示によってのみ出現している点は、上記の仮説と矛盾しない。 | 1990年、EllisとYoung [18]は、カプグラ症候群を相貌失認に妄想的加工が加わったものと解釈する「相貌失認の鏡像」仮説を提唱した。この仮説では、視覚皮質から下縦束を通り側頭葉へ至る「腹側経路(意識的な相貌の認知に関与)」、及び視覚皮質から下頭頂小葉を経由して大脳辺縁系へと至る「背側経路([[無意識]]的な相貌の認知に関与)」という、相貌の情報処理に関わる二経路が仮定されている。相貌失認は背側経路が健全な腹側経路のみの障害、カプグラ症候群は腹側経路が健全な背側経路のみの障害として説明される。背側経路の損傷により、既知の相貌に対する無意識の親しみが感知されなくなるが、正常な腹側経路によって相貌そのものは正しく処理される。結果的に「この顔は知人の特徴を備えているが親近感が沸かない」といった葛藤が生じ、これを解決するため「瓜二つだが偽物である」という誤判断が生まれるとされる。HirsteinとRamachandran [24]の症例は、頭部外傷後にカプグラ症候群を呈したが、人物誤認は対象を見た場合にのみ生じ、電話で話した場合には生じなかった。症状が視覚提示によってのみ出現している点は、上記の仮説と矛盾しない。 | ||
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2013年12月11日 (水) 11:47時点における版
福島 貴子、針間 博彦
はりまメンタルクリニック
DOI XXXX/XXXX 原稿受付日:2013年12月10日 原稿完成日:2013年月日
担当編集委員:加藤 忠史(独立行政法人理化学研究所 脳科学総合研究センター)
カプグラ症候群(syndrome de Capgras, Capgras syndrome)とは、近親者などが瓜二つの偽物と入れ替わったと確信する妄想であり、1923年にCapgras. J. とReboul-Lachoux. J. [8]によって報告された。近年では、カプグラ症候群、フレゴリの錯覚、相互変身妄想および自己分身症候群が妄想性人物誤認症候群の亜型としてまとめられている。カプグラ症候群は妄想型統合失調症に多いが、認知症や頭部外傷で見られることもある。成因論的には、1960年代までは対象の妄想的否認や感情的判断などと言った心因を重視する見解が支配的であったが、1970年代以降、器質因を重視する立場が出現し、知覚や相貌認知の障害として解釈しようとする立場が優勢となっている。大脳の右半球や前頭葉の病変との関連が指摘され、カプグラ症候群を認知心理学的に説明する仮説も提唱されている。
概念
カプグラ症候群(syndrome de Capgras, Capgras syndrome)とは、友人や配偶者、両親その他近親者などが、瓜二つの外見の別人に入れ替わってしまったと誤認する妄想である。誤認の対象は人物以外にも場所、物体、時間など様々なものがある。症状は一過性であることもあれば、繰り返し出現することもある。これは「症候群」という独立した臨床単位ではなく、多様な病態を背景にして出現する1症状にすぎないとする立場からは、カプグラ妄想(Capgras delusion)、カプグラ現象、カプグラ症状、ソジーの錯覚などと呼ばれる。1970年代以降、カプグラ症候群に関する報告が急速に増加し、かつて考えられたほど稀な病態ではないと考えられている。当初は女性に多いとされたが、1936年にMurray, J.R. [36]が男性例を報告し、現在では性差について諸説がある。カプグラ症候群の病態や成因についてはいまだ見解が一致しておらず、この現象が妄想なのか認知障害なのか議論がある。
歴史
カプグラ症候群は、1923年にCapgras. J. とReboul-Lachaux. J. [8]によって最初に報告され、「ソジーの錯覚」と呼ばれた。症例は53歳の女性であり、その妄想は「自分が高貴な家の出身である」「悪の結社によって子供やパリ市民が地下に幽閉されている」ことの他に、「乳児期に死んだ彼女の子供、夫、彼女が結社を告発している警察庁の長官、彼女が入院している精神病院の医師や看護婦や患者、及び彼女自身に、それぞれ数人から数千人におよぶ瓜二つの外見をしたの替え玉(sosies) が存在する」と言う訴えが含まれた[43]。
ここでソジー (sosie) とは、古代ローマの劇作家Titus Maccius Plautusの戯曲「Amphitryon」の登場人物である。Amphitryonの妻Alcmeneの篭絡を企むJupiter は、Mercure をAmphitryon 家の召使に変身させて送り込むが、この召使の名前がSosieである。17世紀後半、フランスの劇作家Moliere がこのPlautusの戯曲を題材にして同名の作品を上演して以来、sosie は瓜二つの替え玉を意味する一般名詞になった[43]。
1929年、Lévy-Valensi, J. [33]はソジーの錯覚を「カプグラ症候群」と呼ぶことを提唱し、自己や近親者に関する事物、居住する街などに関わる誤認もカプグラ症候群に含めた [43]。1930年、Vie, J. [45]はCourbon, P. とFail, G. [14]が報告したフレゴリの錯覚をカプグラ症候群と合わせ、人物誤認というカテゴリーに一括した。1986年、Christdoulou, G.N. [12]は、妄想的人物誤認症候群 (delusional misidentification syndromes) を提唱し、カプグラ症候群、フレゴリ症候群、相互変身症候群、自己分身症候群をその4つの亜型とした(下記C)。
妄想性人物誤認症候群の4亜型
[35]
カプグラ症候群
(Capgras et Reboul-Lachaux, 1923)[8]
周囲の他者(通常、親しい関係にある人)が、本来の人物によく似た替え玉に置き換えられているという妄想的確信を持つ病態である。替え玉は本物そっくりだが、時に患者は本物とのわずかな「差異」(雰囲気や身体的特徴)を指摘する。すり替えられた対象は、動物や非生物であることもあり、自分自身を含む場合もある。配偶者、両親など自分が愛着を持つ人物が偽物であることが妄想の主題であり、本物の居場所や偽物の正体は二次的な問題となる[27]。一般的には、被害妄想や誇大妄想と関連して体系的妄想の一部を構成し、入れ替わった対象(偽物)に対して猜疑的、被害的であることが多い[39]。Vié(1930)[45]は、患者が不在の差異を見いだす(既知の人を未知と誤認)ことから、カプグラ症候群を「陰性ソジー」(sosies négatifs)と呼んだ。Christodoulou, G.N.はこれを同定過小(hypo-identification)という視点でとらえた[9][10][11][12]。
フレゴリ症候群
(Courbon, P. et Fail, G. , 1927)[6]
周囲にいる慣れ親しんだ人々を、迫害者が変装した姿であると確信する病態であり、フレゴリの錯覚(illusion de Frégoli)、フレゴリ症状(Flegoli symptom)とも呼ばれる。Courbon とFail [6]が最初に報告した例は、統合失調症の27歳女性であり、いつも劇場で目にしていた2 人の女優が、身近な人々の姿に変装して自分に言い寄り、性愛的な迫害を加えると訴えた。なお、フレゴリとは舞台での素早い変装で有名なイタリアの役者Leopoldo Fregoli (1867 – 1936) にちなんだものである。 無害な外見をとった様々の人物に変装した偽物の正体が主題とされ、仮面の背後に隠れている迫害者が、患者にとって愛着の対象であることがある。Vié(1930) [44]は、患者が不在の類似性を見いだす(未知の人を既知と誤認)ことから、「陽性ソジー」(sosies positifs)と呼んだ。Christodoulouはこれをを同定過多(hyper-identification)と言う視点でとらえた[9][10][11][12]。
相互変身妄想
(Courbon, P. et Tusques, 1932)[15]
周囲の身近な人々が相互に変身してしまうという妄想的確信である。自分の主たる関心を占める対象同士が、同一の人物の外見を保ちながら次々にお互いに入れ替わる。見かけの対象と本物の対象のいずれもが、患者にとって何らかの愛着ないしは迫害の対象であることが多い[27]。
自己分身症候群
(Christodoulou, 1978)[10]
患者は、自分とそっくり同じの分身がいると確信する。これは普通、他の型の人物誤認症候群と共存し、単独で見られることは稀である。自己を対象とした替え玉妄想であることから、Christodoulouはこれを人物誤認症候群の第4の型とした。この場合、自分自身が替え玉であると訴えるカプグラ症候群との異同が問題となる[39]。
カプグラ症候群の成因論
[43]
Capgras らが最初の報告の中で「知覚の錯覚ではなく感情判断の結果である」と述べて以来、カプグラ症候群は対象の妄想的否認や感情的判断の問題とされてきた。木村ら[29]は、カプグラ症候群を妄想主題と規定し、受動的な愛の要求の挫折が自己の来歴の妄想的改変と自己および他者の意味変更を余儀なくすると述べた。西田ら[37]は、乳幼児期の対人知覚様式への退行がカプグラ現象を成立させるとみなした。カプグラ症候群における誤認の対象が重要な人物に限定されるという対象の選択性は、疫学的にも支持され、既婚者の74.6%が配偶者を、未婚者の82.8% が両親を替玉とみなした(Kimura, S.:1986年[30])。
1971年、Weston, M. J. [45]は、頭部外傷後のせん妄状態においてカプグラ症候群が出現した症例を報告した。以降、カプグラ症候群における器質的要因の関与が主張されるようになった。脳器質性障害による人物や事物の同定障害に相貌失認(Bodamer, J.[5])と重複錯誤記憶(Pick, A.[40])があるが、カプグラ現象とこれらの障害との関連や、脳の機能的離断との関連を明らかにすることによって、カプグラ現象の神経学的基盤が研究された。1980年代には、重複記憶錯誤を妄想的人物誤認症候群の含める著者もいた(別記G)。
1988年、Anderson[2]は相貌失認とカプグラ現象という二つの病態において、顔の形態的知覚情報と感情的意味情報の統合不全において生じる葛藤が、二次的な妄想的合理化を生むという仮説を提示した。1990年、Ellis, H.D. とYoung, A.W.[18]はBauer, R.M. [3]の相貌認知に係わる神経機構仮説を援用することによって、Andersonの仮説を説明した(別記H)。国内においても、1980年代以降は器質的要因が注目され、老年期認知症や前頭葉・側頭葉病変などの脳器質性障害を基盤として生じる人物誤認現象が報告されている。
カプグラ症候群がみられる疾患
[39]
カプグラ症候群は妄想型統合失調症において最も頻度が多い[2][9]。また、統合失調感情障害や気分障害の症例も報告されている[20][30]。これら内因性精神病の他、器質性疾患で認めたとする報告が1980年代後半から増加している。カプグラ症候群の報告例全体のうち、約25~40%程度において器質因の合併が認められた [42]。たとえば、アルツハイマー型認知症[7][17]、レヴィー小体型認知症[4]、脳血管性認知症[44]、頭部外傷[38]、てんかん[11]、脳血管障害[21][44]、脳腫瘍[2]、脳炎[41]、AIDS[16]、偽性副甲状腺機能低下症[23]、ビタミンB12欠乏症[47]、糖尿病、偏頭痛発作、ケタミンの使用などである。
また、明確な身体疾患がなくても、器質性を示唆する異常脳波などとの関連や、カプグラ症候群を伴う統合失調症患者は、伴わない群より前頭葉と側頭葉の萎縮が有意に強いことを指摘する報告もある[26]。
カプグラ症候群の関連病変部位
[39]
右半球損傷を指摘する研究[31][32]が多いが、両側性ないし左側に病変が認められた症例[19][25]も報告されている。半球内では、前頭葉[19][34]と側頭葉[19][34]、および扁桃体[24]の関与を指摘する報告が多い。アルツハイマー型痴呆でカプグラ症候群の見られる群では、右半球や右前頭葉の損傷が目立つ症例が多いという報告がある[6]。
だが変性疾患、頭部外傷、多発性脳梗塞などの症例においては、広汎にわたる脳病変が想定されるため、カプグラ症候群が局在損傷に対応していると必ずしも結論することはできない。また、右半球や前頭葉などに限局的な損傷があっても、必ずしもカプグラ症候群が観察されるわけではない。
重複記憶錯誤との関連について
[39]
1979年、Alexander, Stuss & Benson[1]は、カプグラ症候群が重複記憶錯誤(Reduplicative Paramnesia)の一型であり、二つの症状の神経心理学的、脳病理学的基盤が同一であると主張した。重複記憶錯誤は「今いる場所ないし人物は確かに本物であるが、同じ場所ないし人物がもう一つないしそれ以上存在している」という確信で、一般的には器質性疾患において認められ、神経学的背景として右半球損傷、前頭葉損傷が指摘されている。カプグラ症候群を認める症例においても右半球や前頭葉の損傷が関連するとされているが、重複記憶錯誤ほど明確ではない(上記F)。
重複記憶錯誤では、患者は非現実的で矛盾した内容を確信的に語るため、背景に何らかの思考障害や妄想性障害が想定されることがある。濱中 [22]によれば、カプグラ症候群ではしばしば入れ替わった対象に対して猜疑的、被害的である一方、重複記憶錯誤では対象の重複に対しむしろ肯定的な態度を示し、多幸的ないし無関心な傾向がみられる場合が多い。また、カプグラ症候群では入れ替わりの対象は原則として人物であり、場所のみを対象とする報告がない一方で、重複記憶錯誤では人物の重複よりむしろ場所の重複が主であると言う差異がある。
相貌失認との関連について
[39]
1990年、EllisとYoung [18]は、カプグラ症候群を相貌失認に妄想的加工が加わったものと解釈する「相貌失認の鏡像」仮説を提唱した。この仮説では、視覚皮質から下縦束を通り側頭葉へ至る「腹側経路(意識的な相貌の認知に関与)」、及び視覚皮質から下頭頂小葉を経由して大脳辺縁系へと至る「背側経路(無意識的な相貌の認知に関与)」という、相貌の情報処理に関わる二経路が仮定されている。相貌失認は背側経路が健全な腹側経路のみの障害、カプグラ症候群は腹側経路が健全な背側経路のみの障害として説明される。背側経路の損傷により、既知の相貌に対する無意識の親しみが感知されなくなるが、正常な腹側経路によって相貌そのものは正しく処理される。結果的に「この顔は知人の特徴を備えているが親近感が沸かない」といった葛藤が生じ、これを解決するため「瓜二つだが偽物である」という誤判断が生まれるとされる。HirsteinとRamachandran [24]の症例は、頭部外傷後にカプグラ症候群を呈したが、人物誤認は対象を見た場合にのみ生じ、電話で話した場合には生じなかった。症状が視覚提示によってのみ出現している点は、上記の仮説と矛盾しない。