WNT Wntシグナル研究はショウジョウバエの遺伝学的解析から開始された。1973年にインドのShope博士が羽のないショウジョウバエの変異体wingless(wg)を見いだした。このハエでは、複眼や胸部の剛毛、中腸などにも異常が認められ、胚では分節形成の異常が観察された。分節の形成に関わる分節遺伝子の中でdishevelled(dsh), shaggy, armadillo, pangolinがwinglessと遺伝学的に関連することが示された。Dishevelledは哺乳動物のDvlに、ShaggyはプロテインキナーゼGSK-3β(glycogen synthase kinase-3β)に、Pangolinは転写因子Tcf(T-cell factor)に相当することが明らかになり、Wntシグナルは進化的に保存されていると考えられるようになった。 哺乳動物におけるWntシグナル研究は、癌ウイルス研究に端を発した。1982年、後にノーベル賞を受賞することになるVarnus博士とその当時彼の研究室にいたNusse博士による、マウス乳癌の原因遺伝子int-1のクローニングにさかのぼる。ショウジョウバエにおけるint-1遺伝子のホモログがwinglessという形態形成に重要な役割を果たす遺伝子であったことから、この2つの遺伝子名にちなんでint-1はWnt-1(wingless+int-1, 発音は[wint])と呼ばれるようになった。これまで、Wnt遺伝子は哺乳動物において19種類が同定されており、種々の発生段階において固有の空間的・時間的発現があり、それぞれの特異的な機能を発揮すると考えられる。ヒトWnt遺伝子ファミリーは独立した遺伝子座に存在するが、Wnt-3とWnt-9bは17q21、Wnt-a3とWnt-9aは1q42、Wnt-2とWnt-16は7q31の同一染色体上に存在する。さらに、Wnt-1とWnt-10bは12q13、Wnt-6とWnt-10は2q35にそれぞれ隣接して存在し、これらの遺伝子の発現は協調的に調節される可能性がある。Wnt受容体として10種類の7回膜貫通型受容体Frizzled(Fz)、共役受容体として機能する1回膜貫通型受容体LRP5/6(low-density lipoprotein receptor-related protein 5/6)、チロシンキナーゼ活性を有する1回膜貫通型受容体であるRorやRYKがWntの受容体として機能することが報告されており、これらはWntシグナルによる細胞応答の多様性を説明するものである。Wntフィールドをリードしてきたスタンフォード大学のNusse博士の研究室が管理する便利なウェブサイトがあるので参照されたい(http://www.stanford.edu/group/nusselab/cgi-bin/wnt/)。 Wntは分子量約4万の分泌性糖タンパク質で、小胞体内において膜結合型アシル基転移酵素のporcupineによってパルミチル化の脂質修飾を受け、小胞体膜に結合する。小胞体膜にアンカーされたWntはアスパラギン結合型糖鎖修飾を受けた後、小胞体から輸送されて細胞外に分泌される。Wnt(wingless)が細胞膜受容体に結合した後に引き起こされる細胞内でのシグナル伝達に関しては、ショウジョウバエの遺伝学の成果などを中心にその基本骨格が明らかにされてきた。Wntにより制御されるシグナル伝達経路は、β-カテニン経路とPCP(planar cell polarity, 平面内細胞極性)経路、Ca2+経路の少なくとも3種類あると考えられる。β-カテニン経路は古くから知られており、canonical(古典的)経路とも呼ばれ、それ以外のPCP経路とCa2+経路は合わせてnon-canonical(非古典的)経路と呼ばれている。 β-カテニン経路 β-カテニン経路は、転写促進因子として機能するβ-カテニンのタンパク質レベルを調節することにより、シグナル伝達が制御される。Wntの非存在下ではAxinと癌抑制遺伝子産物APC(adenomatous polyposis coil)の複合体中で、β-カテニンはカゼインキナーゼIα(casein kinase Iα; CKIα)とGSK-3βによるリン酸化とユビキチン化による分解が促進され、β-カテニンの細胞内レベルは低く保たれている。WntがFzと共役受容体のLRP5/6に結合するとDvlを介してGSK-3βにシグナルが伝達され、β-カテニンのリン酸化と分解が抑制される。細胞質に蓄積したβ-カテニンは核内に移行した後、転写因子Tcf/Lef(T-cell factor/lymphoid enhancer binding factor)と複合体を形成してcyclin D1やc-mycなどの遺伝子発現を促進することによって、細胞の増殖や分化を制御する。 β-カテニン非依存性経路 PCP経路ではWntがFzと結合し、その情報はDvlに伝達され、RhoやRacの低分子量Gタンパク質が活性化される。ショウジョウバエの羽の細胞には1本ずつの毛が遠位方向に向かって生えているが、Fzの遺伝子変異では毛の向きが変わってしまうことがわかり、Fzがかかわる平面極性制御シグナルをPCPシグナルとよぶようになった。同様な表現型を示すものとして、Fmi (Flamingo), Stbm (Stramismus), Dsh (Dishevelled), Pk (Prickle), Dgo (Diego)が同定され、これらはコアPCPタンパク質とよばれている。脊椎動物においても、Fz6遺伝子ノックアウトマウスでは体表の毛のパターンが乱れ、Stbm, Fmi, Fz, Dshの相同遺伝子の変異は内耳の蝸牛管の感覚受容細胞が生やす線毛の束の方向をばらばらにしてしまう。さらに、アフリカツメガエルやゼブラフィッシュにおいて、コアPCPタンパクの遺伝子機能欠損・変異により原腸形成が阻害され、体長が前後に伸びることができない表現型を示す。また、Ca2+経路はホスホリパーゼC-β(PLC-β)を介して細胞内にCa2+を動員し、カルモデュリン依存性タンパク質リン酸化酵素(CaMK)とタンパク質リン酸化酵素C(PKC)を活性化する。WntシグナルはPCP経路とCa2+経路を介して細胞骨格を調節し、細胞の極性や運動を制御していると考えられる。上記のシグナル伝達に加えて、Ror2がWnt5aと結合し、Cdc42とJNKを介してアフリカツメガエルの原腸形成における細胞運動を制御したり、filamin Aと結合することによりアクチンを再構成し、細胞運動を促進することから、Ror2がWnt5aの受容体として機能して、β-カテニン非依存性経路の活性化に関与する可能性が高い。また、β-カテニン非依存性経路の機能として、β-カテニン経路を抑制することが知られている。その抑制メカニズムとして、Wnt5aがCaMKを介してTGF-β-activated kinase1(TAK1)とNemo-like kinase(NLK)を活性化し、NLKがTcfをリン酸化することによりDNAとの結合を抑制すること、Wnt5aがユビキチンリガーゼSiah2の発現を介してユビキチン化によるβ-カテニンの分解を促進する。さらに、Wnt5aは細胞膜上でWnt3aとFzとの結合において競合することにより、Wnt3aによるβ-カテニン経路の活性化を阻害する。