おばあさん細胞仮説

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伊藤 浩之
京都産業大学 コンピュータ理工学部 インテリジェントシステム学科 京都産業大学 コンピュータ理工学部
DOI:10.14931/bsd.1518 原稿受付日:2012年5月14日 原稿完成日:2012年8月27日
担当編集委員:藤田 一郎(大阪大学 大学院生命機能研究科)

英語名:grandmother cell hypothesis 独:Hypothese vom Großmutterneuron 仏:théorie du neurone grand-mère

同義語:gnostic cell hypothesis

 脳の中には自分のおばあさんを見たときだけに特異的に活動する単一または少数の細胞が存在し、この細胞の活動が自分のおばあさんの対象認識に対応するという仮説。神経細胞活動による情報の符号化の議論において引用される概念である。視覚対象認識において用いられることが多いが、他の感覚種(モダリティ)に拡張し、複数の特徴(異なるモダリティ間も含めて)の特定の組み合わせの対象または記憶の情報に対して一対一の関係で活動する単一の細胞の存在を仮定する脳の符号化モデルとして一般化される。

歴史的経緯およびその概念

 おばあさん細胞という概念の歴史的経緯は、Grossの概説に丁寧にまとめられている[1]。神経科学研究での古典的論文である"What the frog's eye tells the frog's brain"の著者であるJerry Lettvinが60年代後半にMITの講義においてMother cell(grandmother cellではなく)という用語を初めて用いたと言うことである[2]。また、Lettvinに数年先立って、ポーランドの神経生理学者のJerzy Konorskiがその著書において、古代ギリシャ語で霊的認識を意味する言葉であるgnosisを用いて、gnostic cell(認識細胞)という用語で同様の概念を提案している。

 おばあさん細胞仮説は、あくまでも外界の対象の脳内表現レベルの議論であることに留意すべきである。つまり、網膜から入力した視覚画像の部分特徴が並列分散処理により抽出されたとして、これらの特徴の特定の組み合わせのみに反応する単一の細胞がおばあさん細胞である。Barlowはこのような細胞の存在を議論し、対象物が何であるのかの情報(objective certainty)はどの細胞が反応しているのかで表現され、その対象が外界にどの程度の確度で存在するかの情報(subjective certainty)をその細胞の反応の強さ(発火率)で表現するモデルを提案した[3]。しかし、個々の細胞の発火活動で表現された対象物の情報を脳内のいかなる機構が受け取って最終的な対象認識が発現するのかに関しては、何の提言も与えていない。Grossの概説[1]に紹介されているように、William Jamesは最終的な認識を行うための究極的な情報の統合が行われる細胞として、pontifical cell(教皇細胞)という概念を提案している。一方、Sherringtonはpontifical cellの存在に懐疑的であり、細胞集団の活動と認識とを関連付けることを提案している。また、Barlowは視覚認識における複数要素の特徴が単一のpontifical cellに統合されることの困難さから、少数の細胞(cardinal cell、枢機卿細胞)が視覚認識には必要であると議論している。注:教皇は一人であるが、教皇の顧問・補佐にあたる枢機卿は複数人存在する。

支持する実験報告

 Quiroga[4]らはてんかん患者の検査用に埋め込んだ複数電極から海馬の細胞活動を記録し、特定の人物(俳優)に強く関連して活動する細胞の存在を示した。この人物の写真のみならず、似顔絵や名前に対しても反応することから、この人物に関する抽象化された概念を表現すると結論している。

 人工的ニューラルネットワークでも、個々のデータそのものではなく、同じ属性で分類されるデータの共通の特徴構造に反応するユニットを学習することは汎化と呼ばれ、良く知られている。Quirogaらの発見はおばあさん細胞の存在を示唆するように思われるが、特徴情報の特定の組み合わせに対してのみ反応するというおばあさん細胞の狭義の定義とは合致しない。データに共通する特徴情報の抽象概念に反応する細胞が存在した場合でも、抽象化で捨てられた詳細な特徴情報を表現する神経活動の存在は不可欠である。抽象化細胞と詳細な特徴情報を表現する細胞活動との組み合わせで最終的に情報全体が再構成されるのであれば、集団コーディング(population coding)であると考えられる。また、海馬は皮質で保存されている記憶情報を動的に関連付ける役割を行っている(コンピュータでの中央演算子CPUの処理を補助し、メモリー上の情報のインデックスを一時的に保持するキャッシュメモリーのような役割)と考えられるため、皮質細胞とは情報処理における特性が異なっている可能性がある。記憶された個々の情報ではなく、同じカテゴリーに属する記憶を関連付けるインデックスの役割を海馬の細胞が行っているのであれば、写真、似顔絵や名前に対して共通に反応することは理解できる。この場合は、この細胞が記憶された情報そのものを表現しているのではないため、おばあさん細胞とは論理的に異なっていると考えられる。

 おばあさん細胞は一般的には情報符号化の暗喩(メタファー)として用いられる概念であるが、神経生理の文献においてはその名称の為から、顔に特異的に反応する神経細胞に対して同じ用語が使用される場合があるので注意が必要である。サル側頭葉下側頭野(inferotemporal cortex、IT野)では顔に対して特異的な活動を生じる細胞が存在することが知られている[5] [6] [7]。その後の研究により、この領野の細胞はある程度抽象的な特定の形に高い反応選択性を示す事が報告されている[8]。しかし、顔に反応する細胞においても、特定の顔だけに反応する細胞は報告されておらず、複数の異なる顔にも反応する。現在ではIT野の細胞は、形に対して高い反応選択性を示すものの、実際の対象物の情報符号化においては複数の細胞の組み合わせ、いわゆる集団コーディングが行われていると考えられている。

問題点

 おばあさん細胞仮説が内在する最大の困難は、組み合わせ爆発(combinatorial explosion)と呼ばれる計算論的な問題である。これは、「メガネをかけた」「茶髪の」「おばあさん」などと特徴を組み合わせて行った場合に、可能な組み合わせ総数は指数関数的に増大するため、すべての組み合わせに対して異なる細胞が必要であれば、膨大な細胞が必要になってしまう。Von der Malsburg[9]はスパイク発火タイミングの細胞間相関を用いた情報符号化の提案において、おばあさん細胞仮説に対して、「この仮説が解決する事柄以上に多くの矛盾・問題を生み出す」と批判している。組み合わせ爆発の困難を回避するためには、単一細胞への情報の局在化ではなく、集団コーディングや時間相関コーディングにより神経活動の空間的または時間的な自由度を情報符号化に用いる必要がある。

現在での解釈

 おばあさん細胞仮説は細胞活動による情報符号化の議論における究極的な機能局在暗喩(メタファー)として認識されており、特定の情報の組み合わせのみに反応する単一の細胞の存在という狭義の意味での機能をもった細胞が実際に脳内に存在するとは考えられていない。おばあさん細胞仮説が提起した問題は個々の情報の表現が、反応選択性が弱い多数の細胞の活動に広く分散して行われているか(並列分散コーディング、集団コーディング)、または鋭い反応選択性を持つ少数の細胞の活動で行われているか(スパースコーディング)の議論に継続されている。

関連語

参考文献

  1. 1.0 1.1 Gross, C.G. (2002).
    Genealogy of the "grandmother cell". The Neuroscientist : a review journal bringing neurobiology, neurology and psychiatry, 8(5), 512-8. [PubMed:12374433] [WorldCat] [DOI]
  2. Horace Barlow
    The Neuron doctorine in perception.
    In: The Cognitive Neurosciences (1st Ed.) M.S. Gazzaniga, ed., pp. 415-435. MIT Press, 1995
  3. Barlow, H.B. (2009).
    Single units and sensation: a neuron doctrine for perceptual psychology? Perception, 38(6), 795-8. [PubMed:19806956] [WorldCat] [DOI]
  4. Quiroga, R.Q., Reddy, L., Kreiman, G., Koch, C., & Fried, I. (2005).
    Invariant visual representation by single neurons in the human brain. Nature, 435(7045), 1102-7. [PubMed:15973409] [WorldCat] [DOI]
  5. Gross, C.G., Bender, D.B., & Rocha-Miranda, C.E. (1969).
    Visual receptive fields of neurons in inferotemporal cortex of the monkey. Science (New York, N.Y.), 166(3910), 1303-6. [PubMed:4982685] [WorldCat] [DOI]
  6. Perrett, D.I., Rolls, E.T., & Caan, W. (1982).
    Visual neurones responsive to faces in the monkey temporal cortex. Experimental brain research, 47(3), 329-42. [PubMed:7128705] [WorldCat] [DOI]
  7. Yamane, S., Kaji, S., & Kawano, K. (1988).
    What facial features activate face neurons in the inferotemporal cortex of the monkey? Experimental brain research, 73(1), 209-14. [PubMed:3208858] [WorldCat] [DOI]
  8. Fujita, I., Tanaka, K., Ito, M., & Cheng, K. (1992).
    Columns for visual features of objects in monkey inferotemporal cortex. Nature, 360(6402), 343-6. [PubMed:1448150] [WorldCat] [DOI]
  9. Von der Malsburg
    The correlation theory of brain function.(Internal Report 81-2)
    Göttingen: Max-Planc-Institute for Biophysical Chemistry, 1981.