「シナプスタグ仮説」の版間の差分

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 [[海馬]][[CA1野]][[錐体細胞]]と[[Schaffer側枝]]([[CA3]]錐体細胞の軸索分枝)の間のシナプス伝達は、Schaffer側枝が走行するCA1野分子層を高頻度(100Hz、1秒など)で刺激すると長期にわたり増強する。これを[[長期増強]] (long-term potentiation, LTP)と呼び、記憶学習に関わる細胞レベルでの現象と考えられ、多くの研究がなされている。
 [[海馬]][[CA1野]][[錐体細胞]]と[[Schaffer側枝]]([[CA3]]錐体細胞の軸索分枝)の間のシナプス伝達は、Schaffer側枝が走行するCA1野分子層を高頻度(100Hz、1秒など)で刺激すると長期にわたり増強する。これを[[長期増強]] (long-term potentiation, LTP)と呼び、記憶学習に関わる細胞レベルでの現象と考えられ、多くの研究がなされている。


 上述のような刺激条件では、LTP誘導後、急性切片では1-2時間程度以内に反応は減弱し、EPSPの大きさは誘導前のレベルに戻る。しかし、条件を選ぶ事により(たとえば複数回刺激にする、[[ドーパミン]]のアゴニストを加えるなど)、長期のLTPを誘導する事が出来る。この両者の差は一過性の初期長期増強 (early LTP, E-LTP) は既存シナプスタンパク質の翻訳後修飾によって起き、新規タンパク質合成を必要としない一方、後期長期増強現象 (late LTP, L-LTP)は新しいタンパク質の合成を必要とする。
 上述のような刺激条件では、LTP誘導後、急性切片では1-2時間程度以内に反応は減弱し、EPSPの大きさは誘導前のレベルに戻る。しかし、条件を選ぶ事により(たとえば複数回刺激にする、[[ドーパミン]]のアゴニストを加えるなど)、長期のLTPを誘導する事が出来る。この両者の差は一過性の初期長期増強 (early LTP, E-LTP) は既存シナプスタンパク質の翻訳後修飾によって起き、新規タンパク質合成を必要としないのに対し、急性切片でも4時間以上保たれる持続性の[[後期長期増強]] (late LTP, L-LTP)は新しいタンパク質の合成を必要とする。


 新規に合成されたタンパク質はシナプス部で機能し、その結果後期長期増強が発現すると考えられる。ところで、一つのニューロンには多数のシナプスが存在するため、新規合成されたタンパク質が長期増強刺激を起こしたシナプスでのみ機能するためには、入力を受けたシナプス特異的に新規タンパク質が機能する仕組み、つまり後期可塑性の入力特異性機構が必要である。FreyとMorrisはこの仕組みとして主に次の三つの可能性を検討した。<ref name=ref1><pubmed>9020359</pubmed></ref> <ref name=ref2><pubmed>9610879</pubmed></ref>。  
 新規に合成されたタンパク質はシナプス部で機能し、その結果後期長期増強が発現すると考えられる。一つのニューロンには多数のシナプスが存在するので、新規合成されたタンパク質が長期増強刺激を起こしたシナプスでのみ機能するためには、入力を受けたシナプス特異的に新規タンパク質が機能する仕組みが必要である。FreyとMorrisはこの仕組みとして主に次の三つの可能性を検討した。<ref name=ref1><pubmed>9020359</pubmed></ref> <ref name=ref2><pubmed>9610879</pubmed></ref>。  


#局所合成。即ち[[樹状突起]]に局在する[[wikipedia:ja:mRNA|mRNA]]が活動依存的に翻訳される。
#局所合成。即ち[[樹状突起]]に局在する[[wikipedia:ja:mRNA|mRNA]]がシナプス活動依存的に翻訳される。
#メイル仮説。細胞体で合成されたタンパク質には予め目的地がコードされている、もしくは目的地特異的な輸送ルートで活動シナプスに運ばれる。
#メイル仮説。細胞体で合成されたタンパク質には予め目的地がコードされている、もしくは目的地特異的な輸送ルートで活動シナプスに運ばれる。
#シナプスタグ仮説。細胞体で新規合成された後期可塑性関連タンパク質が機能できるシナプスでは、何らかの生化学的活性が活性化しており、この活性によって後期長期増強の発現が可能になる。この仮想活性をシナプスタグと呼ぶ。  
#シナプスタグ仮説。細胞体で新規合成された後期可塑性関連タンパク質が機能できるシナプスでは、何らかの生化学的活性が活性化しており、この活性によって後期長期増強の発現が可能になる。この仮想活性をシナプスタグと呼ぶ。  


 彼らは、次のような実験から、これらの可能性中でもシナプスタグ仮説が結果をうまく説明すると提唱した。[[wikipedia:ja:ラット|ラット]][[海馬]]急性[[脳スライス標本|切片]]で[[CA1]]野[[Schaffer側枝]]を二箇所刺激し、独立した二経路の[[集合シナプス電位]]を一つの記録電極から測定した(図1)。 一方の刺激電極S1に長く持続する[[後期長期増強]]を起こす電気刺激を与えた後、他方の刺激電極S2からは、普通であれば持続の短い初期長期増強のみを起こす刺激を与えた。S1経路では予想通り入力特異的な後期長期増強が見られた。一方S2経路には、初期長期増強のみ起きる刺激を加えたのにに反して後期長期増強が見られた(図2)。S2の変化は[[連合性]]後期長期増強と呼ばれる。  
 彼らは、次のような実験から、これらの可能性の中でもシナプスタグ仮説が結果をうまく説明すると提唱した。[[wikipedia:ja:ラット|ラット]][[海馬]]急性[[脳スライス標本|切片]]でCA1野[[Schaffer側枝]]を二箇所刺激し、独立した二経路の[[集合シナプス電位]]を一つの記録電極から測定した('''図1''')。 一方の刺激電極S1に長く持続する[[後期長期増強]]を起こす電気刺激を与えた後、他方の刺激電極S2からは、普通であれば持続の短い初期長期増強のみを起こす刺激を与えた。S1経路では予想通り入力特異的な後期長期増強が見られた。一方S2経路には、初期長期増強のみ起きる刺激を加えたのにもかかわらず後期長期増強が見られた('''図2''')。S2の変化は[[連合性]]後期長期増強と呼ばれる。  


[[Image:図1二経路実験.jpg|thumb|500px|'''図1 二経路実験の配置'''<br>海馬急性切片に刺激電極S1S2と記録電極Rを置く。]]
[[Image:図1二経路実験.jpg|thumb|500px|'''図1 二経路実験の配置'''<br>海馬急性切片に刺激電極S10S2と記録電極Rを置く。]]
[[Image:図2連合性後期可塑性.jpg|thumb|600px|'''図2 連合性後期可塑性'''<br>太矢印でS1に後期可塑性を起こす刺激、細矢印でS2に初期可塑性を起こす刺激を与えた。S1の集合シナプス後電位の時間変化が実線、S2のものが破線。]]
[[Image:図2連合性後期可塑性.jpg|thumb|600px|'''図2 連合性後期可塑性'''<br>左図はS1に持続的可塑性を起こす刺激(太矢印)、S2に一過性可塑性を起こす刺激(細矢印)を与えた時の集合シナプス後電位の時間変化で、両経路で持続的なLTPが起きている(S1が実線、S2が破線)。右図はS2だけを刺激した時の様子で、一過性のLTPがおきている。]]


 二経路実験で、S1に後期長期増強を起こす刺激を与えた後、タンパク質合成を阻害した状態でS2に初期長期増強を起こす刺激を与えた場合も、両経路に後期長期増強が見られた(図3)。つまり、S2シナプス近傍の局所合成は不要であること、及び、S1刺激で合成されたタンパク質がS2シナプスに運ばれたことを示している。細胞体で合成されたタンパク質は全てのシナプスに使用のチャンスがある状態で輸送されることになるので、メイル仮説は否定される。
 二経路実験で、S1に後期長期増強を起こす刺激を与えた後、タンパク質合成を阻害した状態でS2に初期長期増強を起こす刺激を与えた場合も、両経路に後期長期増強が見られた('''図3''')。つまり、S2シナプス近傍の局所合成は不要であること、及び、S1刺激で合成されたタンパク質がS2シナプスに運ばれたことを示している。細胞体で合成されたタンパク質は全てのシナプスに使用のチャンスがある状態で輸送されることになるので、メイル仮説は否定される。


 一方、シナプスタグ仮説によれば、細胞体で合成されたシナプスタンパク質は輸送途上では目的地を持たず全ての樹状突起を輸送されており、シナプスタグが活性化したシナプスに取り込まれて機能する。この実験結果は、S1とS2の両シナプスではシナプスタグが活性化しているので新規合成タンパク質が機能し後期可塑性が発現したと説明できる。FreyとMorrisらは更にS1とS2の順番を入れ替える実験を行い、S2の弱い刺激の後でタンパク合成を起こしても連合性後期長期増強が起きることも見出した<ref name=ref4><pubmed>9704995</pubmed></ref>。  
 一方、シナプスタグ仮説によれば、細胞体で合成されたシナプスタンパク質は輸送途上では目的地を持たず全ての樹状突起を輸送されており、シナプスタグが活性化したシナプスで機能する。この実験結果は、S1とS2の両シナプスではシナプスタグが活性化しているので新規合成タンパク質が機能し後期可塑性が発現したと説明できる。FreyとMorrisらは更にS1とS2の順番を入れ替える実験を行い、S2の弱い刺激の後でタンパク合成を起こしても連合性後期長期増強が起きることも見出した<ref name=ref4><pubmed>9704995</pubmed></ref>。  


[[Image:図3シナプスタグ仮説.jpg|thumb|600px|'''図3.'''四角の時点でタンパク質合成阻害剤を与えてもS1、S2経路ともに後期可塑性がおきた。この結果はシナプスタグ仮説を支持する。]]
[[Image:図3シナプスタグ仮説.jpg|thumb|600px|'''図3.'''四角の時点でタンパク質合成阻害剤を与えてもS1、S2経路ともに後期可塑性がおきことを示すた。右図はS2に一過性可塑性を起こす刺激をタンパク質合成阻害下で与えても一過性可塑性が起き、持続性の可塑性は起きないことを示す。]]


 以上から、後期可塑性の入力特異性機構としてシナプスタグ仮説が有力視され、シナプスタグは以下の性質を持つと思われた<ref name=ref2><pubmed>9610879</pubmed></ref>。  
 以上から、後期可塑性の入力特異性機構としてシナプスタグ仮説が有力視され、様々な実験から、シナプスタグは以下の性質を持つと思われた<ref name=ref2><pubmed>9610879</pubmed></ref>。  


#シナプスタグは初期可塑性が起きたシナプスで[[NMDA型グルタミン酸受容体]]依存的かつ入力特異的に活性化される。  
#シナプスタグは初期可塑性が起きたシナプスで[[NMDA型グルタミン酸受容体]]依存的かつ入力特異的に活性化される。  
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#シナプスタグは一度活性化されるとしばらく活性を保つ。   
#シナプスタグは一度活性化されるとしばらく活性を保つ。   


 一般に後期可塑性は、少なくとも、先行する初期可塑性、新規タンパク質合成、シナプスタグ機構、シナプス部での新規タンパク質の機能発現等の複数の内部過程により起きると考えられている。二経路実験ではこれら複数の過程を経た最終結果である連合性可塑性の有無を測定するので、ある分子が連合性後期可塑性に必要だとしても、それがシナプスタグの仕組みに関与するかどうかを二経路実験から決定することはできない。この問題はシナプスタグの定義や後期可塑性の表現機構に直結しており、現時点ではこの区別は難しい。
 (((((細胞体で合成され樹状突起を非特異的に輸送されるタンパク質は、シナプス部での機能に先立ってシナプスに取り込まれる (capture)。この二つの過程を分けてsynaptic tagging and capture という語が用いられることがある。<ref name=ref3><pubmed>19443779</pubmed></ref>の結果は、Capture が入力特異的に起きるということなので、capture がtaggingの機能を持つとも言える。一方、captureされたタンパク質が機能して可塑性を起こすために、シナプス部、特に[[シナプス後膜肥厚]] (postsynaptic density, PSD)の分子集合体の修飾が必要ならば、この修飾もシナプスタグである。Frey とMorrisの初期の実験で考えられたsensitization仮説はこの方向の考え方であった<ref name=ref4><pubmed>9704995</pubmed></ref>。)))))消去!
 
'''ココカラ'''
 細胞体で合成され樹状突起を非特異的に輸送されるタンパク質は、シナプス部での機能に先立ってシナプスに取り込まれる (capture)。この二つの過程を分けてsynaptic tagging and capture という語が用いられることがある。<ref name=ref3><pubmed>19443779</pubmed></ref>の結果は、Capture が入力特異的に起きるということなので、capture がtaggingの機能を持つとも言える。一方、captureされたタンパク質が機能して可塑性を起こすために、シナプス部、特に[[シナプス後膜肥厚]] (postsynaptic density, PSD)の分子集合体の修飾が必要ならば、この修飾もシナプスタグである。Frey とMorrisの初期の実験で考えられたsensitization仮説はこの方向の考え方であった<ref name=ref4><pubmed>9704995</pubmed></ref>
 
==シナプスタグ仮説の実証==
==シナプスタグ仮説の実証==
 シナプスタグ仮説の実証のために、岡田らはラット海馬[[初代培養|培養神経細胞]]において仮説が示唆するようにcaptureされるタンパク質があるかどうか調べた<ref name=ref3><pubmed>19443779</pubmed></ref>。[[Vesl-1S]]は後期長期増強時に細胞体で発現誘導されるタンパク質で、シナプスのlong-form Veslタンパク質が作るネットワークを壊すことでシナプス可塑性を起こすきっかけを作るとされる[[最初期遺伝子産物]]である<ref name=ref5><pubmed>18006237</pubmed></ref><ref name=ref12867517><pubmed>12867517</pubmed></ref><ref name=ref19345194 ><pubmed> 19345194 </pubmed></ref>。そのため、彼らはすると、[[細胞体]]で合成された[[Vesl-1S]] ([[Homer1a]]) タンパク質は全ての樹状突起を輸送される。ところが、運ばれたVesl-1Sは[[NMDA型グルタミン酸受容体]]刺激があったシナプスにだけ集積し、それ以外のシナプスには集積しないことが観察された。Vesl-1Sタンパク質の樹状突起からスパイン内への移動がシナプス入力により制御されていることはシナプスタグの上記性質を全て満たしており、シナプスタグという仕組みが存在する事が実証された。
 シナプスタグ仮説の実証のために、岡田らはラット海馬[[初代培養|培養神経細胞]]において仮説が示唆するようにcaptureされるタンパク質があるかどうか調べた<ref name=ref3><pubmed>19443779</pubmed></ref>。[[Vesl-1S]]は後期長期増強時に細胞体で発現誘導されるタンパク質で、シナプスのlong-form Veslタンパク質が作るネットワークを壊すことでシナプス可塑性を起こすきっかけを作るとされる[[最初期遺伝子産物]]である<ref name=ref5><pubmed>18006237</pubmed></ref><ref name=ref12867517><pubmed>12867517</pubmed></ref><ref name=ref19345194 ><pubmed> 19345194 </pubmed></ref>。そのため、彼らはすると、[[細胞体]]で合成された[[Vesl-1S]] ([[Homer1a]]) タンパク質は全ての樹状突起を輸送される。ところが、運ばれたVesl-1Sは[[NMDA型グルタミン酸受容体]]刺激があったシナプスにだけ集積し、それ以外のシナプスには集積しないことが観察された。Vesl-1Sタンパク質の樹状突起からスパイン内への移動がシナプス入力により制御されていることはシナプスタグの上記性質を全て満たしており、シナプスタグという仕組みが存在する事が実証された。