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 視覚意識と脳の関連性を考える上で特に重要なのは「盲視(blindsight)」、各種の「視覚失認(visual agnosia)」「半側無視(hemi-spatial neglect)」だ。また、「分離脳(split brain)」の研究は視覚意識だけでなく、意識全般を語る上でも重要である。
 視覚意識と脳の関連性を考える上で特に重要なのは「盲視(blindsight)」、各種の「視覚失認(visual agnosia)」「半側無視(hemi-spatial neglect)」だ。また、「分離脳(split brain)」の研究は視覚意識だけでなく、意識全般を語る上でも重要である。


 盲視とは、第一次視覚野に障害を受けた患者が、回復後に視覚意識を失い、何も見えていないと報告するにも関わらず、強制的に視覚課題を行わされると、ランダムに答えた時よりも圧倒的に高い正答率で答えることができる、という症例である<ref name=ref68><pubmed></pubmed></ref>。眼球の網膜から始まる視覚入力は、少なくとも10以上の経路を経て脳に到着することがわかっている<ref name=ref44><pubmed></pubmed></ref>。意識に関係すると考えられる経路は、網膜から視床(ししょう)を通って第一次視覚野に投射する経路であり、盲視はこの経路が損傷することによって起こると考えられている。
 盲視とは、第一次視覚野に障害を受けた患者が、回復後に視覚意識を失い、何も見えていないと報告するにも関わらず、強制的に視覚課題を行わされると、ランダムに答えた時よりも圧倒的に高い正答率で答えることができる、という症例である<ref name=ref68><pubmed>8725963</pubmed></ref>。眼球の網膜から始まる視覚入力は、少なくとも10以上の経路を経て脳に到着することがわかっている<ref name=ref44>'''Milner, D. A., & Goodale, M. A.'''<br>The visual brain in action.<br>''Oxford: Oxford University Press.'' 1995</ref>。意識に関係すると考えられる経路は、網膜から視床(ししょう)を通って第一次視覚野に投射する経路であり、盲視はこの経路が損傷することによって起こると考えられている。


 失認とは、意識内容の一部が脳損傷によって失われる症状のことである。意識研究において特に重要な失認の症例は、損傷部位と失われた意識内容の両方が非常に限定的な場合である。色覚、運動視、顔知覚の意識内容などは、限定的な損傷で特異的に失われることがわかっている<ref name=ref35 /> <ref name=ref54 />。
 失認とは、意識内容の一部が脳損傷によって失われる症状のことである。意識研究において特に重要な失認の症例は、損傷部位と失われた意識内容の両方が非常に限定的な場合である。色覚、運動視、顔知覚の意識内容などは、限定的な損傷で特異的に失われることがわかっている<ref name=ref35 /> <ref name=ref54 />。


 半側無視(はんそくむし)は、右脳半球の損傷によって引き起こされる症状であり、左側の空間が意識にのぼらなくなる。半側無視の患者は、食事の時にテーブルの右側にあるものだけを食べたり、化粧を顔の右半分だけ行ったりする。半側無視は、頭頂葉損傷によるものが顕著だが、側頭葉や前頭葉の損傷により引き起こされる場合もある。眼球や眼球から脳への経路が損傷されることによって生じる左視野の喪失とは異なり、半側無視では、左視野の意識経験が永久に失われるわけではなく、左右両方の視野で競合する視覚入力があった時に、左視野にある物体が意識にのぼらなくなる。右頭頂葉が空間注意を制御している部位であることなどから、半側無視は注意と意識の関係性を理解する上で鍵となる症例だと考えられている<ref name=ref20><pubmed></pubmed></ref> <ref name=ref28><pubmed></pubmed></ref>。
 半側無視(はんそくむし)は、右脳半球の損傷によって引き起こされる症状であり、左側の空間が意識にのぼらなくなる。半側無視の患者は、食事の時にテーブルの右側にあるものだけを食べたり、化粧を顔の右半分だけ行ったりする。半側無視は、頭頂葉損傷によるものが顕著だが、側頭葉や前頭葉の損傷により引き起こされる場合もある。眼球や眼球から脳への経路が損傷されることによって生じる左視野の喪失とは異なり、半側無視では、左視野の意識経験が永久に失われるわけではなく、左右両方の視野で競合する視覚入力があった時に、左視野にある物体が意識にのぼらなくなる。右頭頂葉が空間注意を制御している部位であることなどから、半側無視は注意と意識の関係性を理解する上で鍵となる症例だと考えられている<ref name=ref20><pubmed>21692662</pubmed></ref> <ref name=ref28><pubmed>10195103</pubmed></ref>。


 分離脳(ぶんりのう)は、左右の脳半球をつなぐ脳梁(のうりょう)を切断する手術を受けた患者の脳のことを指す。脳内には他にも左右の脳半球をつなぐ経路があるため、すべての脳内処理が左右の脳で独立になるわけではない。分離脳手術後は、左脳が言語的には優位になるため、左脳で処理される右視野の入力や右手の感覚や行動計画などが、患者から言語によって報告される。しかし、言語以外をつかった報告(ボタン押しや絵を描くなど)による、様々な心理学的テストなどの結果を総合すると、右脳半球も左脳と同程度、タスクによってはそれ以上の処理能力を持っていることもわかっている。そのため、右脳半球は、言語は持たないが左脳の意識とは独立の意識を経験を生み出している状態にある、と考えられる<ref name=ref29><pubmed></pubmed></ref>。
 分離脳(ぶんりのう)は、左右の脳半球をつなぐ脳梁(のうりょう)を切断する手術を受けた患者の脳のことを指す。脳内には他にも左右の脳半球をつなぐ経路があるため、すべての脳内処理が左右の脳で独立になるわけではない。分離脳手術後は、左脳が言語的には優位になるため、左脳で処理される右視野の入力や右手の感覚や行動計画などが、患者から言語によって報告される。しかし、言語以外をつかった報告(ボタン押しや絵を描くなど)による、様々な心理学的テストなどの結果を総合すると、右脳半球も左脳と同程度、タスクによってはそれ以上の処理能力を持っていることもわかっている。そのため、右脳半球は、言語は持たないが左脳の意識とは独立の意識を経験を生み出している状態にある、と考えられる<ref name=ref29><pubmed>16062172</pubmed></ref>。


===意識の神経相関===
===意識の神経相関===
[[image:意識1.png|thumb|350px|'''図1.NCC 研究に使われる多義図形の例'''<br>a.ネッカーの立方体<br>b.ルビンの壷<br>c.両眼視野闘争(<ref name=ref9><pubmed></pubmed></ref>より改変)]]
[[image:意識1.png|thumb|350px|'''図1.NCC 研究に使われる多義図形の例'''<br>a.ネッカーの立方体<br>b.ルビンの壷<br>c.両眼視野闘争(<ref name=ref9><pubmed>11823801</pubmed></ref>より改変)]]


[[image:意識2.png|thumb|350px|'''図2.Logothetis らによるサルでの両眼視野闘争実験'''<br>a)効果的な訓練を受けることでサルは両眼視野闘争中の経験をレバー押しによって報告できるようになる。<ref name=ref9 />。<br>b)両眼視野闘争中のサルの脳から記録したニューロン活動が、初期視覚野(V1/V2)ではほとんど意識内容の報告と相関しないのに対し、V4/MT(V5)、さらにTPO/TEm/TEaなどの高次視覚野では意識報告との相関が高まる<ref name=ref42><pubmed></pubmed></ref>。]]
[[image:意識2.png|thumb|350px|'''図2.Logothetis らによるサルでの両眼視野闘争実験'''<br>a)効果的な訓練を受けることでサルは両眼視野闘争中の経験をレバー押しによって報告できるようになる。<ref name=ref9 />。<br>b)両眼視野闘争中のサルの脳から記録したニューロン活動が、初期視覚野(V1/V2)ではほとんど意識内容の報告と相関しないのに対し、V4/MT(V5)、さらにTPO/TEm/TEaなどの高次視覚野では意識報告との相関が高まる<ref name=ref42><pubmed>9854253</pubmed></ref>。]]


 本項では、1990年以降に盛んになってきた「意識の神経相関(the neural correlates of consciousness; NCC)」について短く触れる。詳細は<ref name=ref24><pubmed></pubmed></ref> <ref name=ref35><pubmed></pubmed></ref> <ref name=ref37><pubmed></pubmed></ref>を参照。
 本項では、1990年以降に盛んになってきた「意識の神経相関(the neural correlates of consciousness; NCC)」について短く触れる。詳細は<ref name=ref24>'''Dehaene, S.'''<br>Consciousness and the brain<br>2015<br>(高橋洋、意識と脳――思考はいかにコード化されるか、紀伊國屋書店)</ref> <ref name=ref35 /> <ref name=ref37 />を参照。


 NCCは、クリックとコッホによって1990年代以降広められた概念で、ある特定の意識内容を経験するのに十分な最小限の(minimally sufficient)神経細胞集団の活動、と定義される<ref name=ref35 />。この定義によると、十分に高い意識レベルを維持するためのメカニズムは入らない。それらのメカニズムは、意識の「生成条件(enabling factor)」として区別される<ref name=ref35 />。NCCが、人工的な電気刺激等の方法により直接に変更されると、ある特定の意識内容が失われたり、逆に、特定の意識内容が生みだされたりする。たとえば、視覚野を電気刺激すると、何もない場所に光の点が見えたり、見ている顔が変化するなどの意識知覚が生じたりする<ref name=ref51><pubmed></pubmed></ref> <ref name=ref55><pubmed></pubmed></ref>。
 NCCは、クリックとコッホによって1990年代以降広められた概念で、ある特定の意識内容を経験するのに十分な最小限の(minimally sufficient)神経細胞集団の活動、と定義される<ref name=ref35 />。この定義によると、十分に高い意識レベルを維持するためのメカニズムは入らない。それらのメカニズムは、意識の「生成条件(enabling factor)」として区別される<ref name=ref35 />。NCCが、人工的な電気刺激等の方法により直接に変更されると、ある特定の意識内容が失われたり、逆に、特定の意識内容が生みだされたりする。たとえば、視覚野を電気刺激すると、何もない場所に光の点が見えたり、見ている顔が変化するなどの意識知覚が生じたりする<ref name=ref51><pubmed>23100414</pubmed></ref> <ref name=ref55><pubmed>20577584</pubmed></ref>。


 NCC研究の目的は、経験する意識の内容と相関して変化するような神経活動を特定することである。外部からの感覚入力が一定であるにも関わらず、主観的な意識経験の内容が明らかに変化するような場合(視覚イリュージョン、想起、夢、幻覚など)では、経験される意識の内容と相関して変化する神経活動はNCCだけのはずである。
 NCC研究の目的は、経験する意識の内容と相関して変化するような神経活動を特定することである。外部からの感覚入力が一定であるにも関わらず、主観的な意識経験の内容が明らかに変化するような場合(視覚イリュージョン、想起、夢、幻覚など)では、経験される意識の内容と相関して変化する神経活動はNCCだけのはずである。


 ルビンの壷などの多義図形や、両眼視野闘争などを使うと(図1)<ref name=ref33><pubmed></pubmed></ref>は、視覚入力が一定であるにも関わらず、意識にのぼってくる視覚経験が連続的に変化させることが可能になる。そのような状況で、被験者に意識内容を報告してもらい、その被験者の報告と相関するような神経活動を特定するのが、最も一般的なNCC研究である。
 ルビンの壷などの多義図形や、両眼視野闘争などを使うと(図1)<ref name=ref33><pubmed>16006172</pubmed></ref>は、視覚入力が一定であるにも関わらず、意識にのぼってくる視覚経験が連続的に変化させることが可能になる。そのような状況で、被験者に意識内容を報告してもらい、その被験者の報告と相関するような神経活動を特定するのが、最も一般的なNCC研究である。


 このような手法は、人間を対象に様々な脳イメージング技術をつかって行うのが最も一般的であるが<ref name=ref60><pubmed></pubmed></ref>、サルなどのモデル動物でも実験を行うことができる。ドイツのLogothetisらは1980年代以降、両眼視野闘争や関連する視覚イリュージョン中に、サルに彼らの経験を報告させる訓練に成功し、そのような視覚経験中の神経活動記録に成功している(図2)。
 このような手法は、人間を対象に様々な脳イメージング技術をつかって行うのが最も一般的であるが<ref name=ref60><pubmed>16997612</pubmed></ref>、サルなどのモデル動物でも実験を行うことができる。ドイツのLogothetisらは1980年代以降、両眼視野闘争や関連する視覚イリュージョン中に、サルに彼らの経験を報告させる訓練に成功し、そのような視覚経験中の神経活動記録に成功している(図2)。


===意識と無意識===
===意識と無意識===
 意識研究は無意識研究と対になって発展してきた。無意識研究で扱われるのは、脳内の処理の中には意識にのぼらない処理があるのはなぜなのか、という問題である。
 意識研究は無意識研究と対になって発展してきた。無意識研究で扱われるのは、脳内の処理の中には意識にのぼらない処理があるのはなぜなのか、という問題である。


 意識にのぼらない神経活動の最たるものは、小脳の脳活動だ。小脳には、約800億個ものニューロンがある。これは、大脳−視床システムの約200億個に比べて4倍もの数である。しかし、小脳は、たとえば癌などの症状によって、全摘出手術を受けたとしても、患者の意識レベル・意識の内容にほとんど影響を与えない。他にも、大脳基底核による複雑な運動制御、網膜などの感覚入力、運動野や脊髄による筋肉のコントロール、なども意識にのぼらない<ref name=ref43><pubmed></pubmed></ref>。
 意識にのぼらない神経活動の最たるものは、小脳の脳活動だ。小脳には、約800億個ものニューロンがある。これは、大脳−視床システムの約200億個に比べて4倍もの数である。しかし、小脳は、たとえば癌などの症状によって、全摘出手術を受けたとしても、患者の意識レベル・意識の内容にほとんど影響を与えない。他にも、大脳基底核による複雑な運動制御、網膜などの感覚入力、運動野や脊髄による筋肉のコントロール、なども意識にのぼらない<ref name=ref43 />。


 大脳-視床システムの活動においても、意識にのぼらないものが詳しく研究されてきている。そのような研究では、バックワード・マスキング<ref name=ref14><pubmed></pubmed></ref>や連続フラッシュ抑制<ref name=ref65><pubmed></pubmed></ref>などの手法をつかって、感覚入力刺激が網膜に呈示されているにも関わらず、それが意識にのぼらない、という状況をつくりだし、その時に生じている脳活動の特徴が、脳イメージングや神経活動記録によって調べられている。また、心理学的な研究により、無意識に処理される脳活動が、実際に行動に影響を与えることができるか、与えるとすればどのような影響なのかなどが研究されている。
 大脳-視床システムの活動においても、意識にのぼらないものが詳しく研究されてきている。そのような研究では、バックワード・マスキング<ref name=ref14>'''Breitmeyer, B. G., & Ogmen, H.'''<br> Visual Masking Scholarpedia<br>Vol. 2, pp. 3330, 2007</ref>や連続フラッシュ抑制<ref name=ref65><pubmed>15995700</pubmed></ref>などの手法をつかって、感覚入力刺激が網膜に呈示されているにも関わらず、それが意識にのぼらない、という状況をつくりだし、その時に生じている脳活動の特徴が、脳イメージングや神経活動記録によって調べられている。また、心理学的な研究により、無意識に処理される脳活動が、実際に行動に影響を与えることができるか、与えるとすればどのような影響なのかなどが研究されている。


 このような無意識研究は、意識にのぼる活動だけがサポートできる機能とはなにか、という問いに答えるための実証的な方法を提供する。過去には、複雑なプロセスは、一般に無意識処理ではできないとされてきた。しかし、近年、短期的でフレキシブルな記憶<ref name=ref59 />や学習<ref name=ref53><pubmed></pubmed></ref>、注意を向ける・惹きつける<ref name=ref38 />、高度に抽象的な言語・計算処理等<ref name=ref58><pubmed></pubmed></ref>も、無意識の処理で可能だということが示されている<ref name=ref39><pubmed></pubmed></ref> <ref name=ref47><pubmed></pubmed></ref>。ただし、ほとんどの場合、無意識処理が行動に与える影響は、意識処理に比べて効果が弱く、時間的にも持続しない。
 このような無意識研究は、意識にのぼる活動だけがサポートできる機能とはなにか、という問いに答えるための実証的な方法を提供する。過去には、複雑なプロセスは、一般に無意識処理ではできないとされてきた。しかし、近年、短期的でフレキシブルな記憶<ref name=ref59 />や学習<ref name=ref53><pubmed>22720676</pubmed></ref>、注意を向ける・惹きつける<ref name=ref38 />、高度に抽象的な言語・計算処理等<ref name=ref58><pubmed>23150541</pubmed></ref>も、無意識の処理で可能だということが示されている<ref name=ref39><pubmed>17403642</pubmed></ref> <ref name=ref47><pubmed>21555524</pubmed></ref>。ただし、ほとんどの場合、無意識処理が行動に与える影響は、意識処理に比べて効果が弱く、時間的にも持続しない。


===意識と関連する認知機能===
===意識と関連する認知機能===
 NCC研究が盛んになるにつれ、意識の内容についての概念の整理や定義の洗練化がすすんだ。特に近年、意識と関連する認知機能と意識そのものとの関係性がより深く議論されるようになり、操作的な定義をもとにさまざまな実証実験が行われるようになっている。
 NCC研究が盛んになるにつれ、意識の内容についての概念の整理や定義の洗練化がすすんだ。特に近年、意識と関連する認知機能と意識そのものとの関係性がより深く議論されるようになり、操作的な定義をもとにさまざまな実証実験が行われるようになっている。


 意識に関係する概念を整理するのに重要なのは、哲学者Ned Block が提唱した「アクセス意識(access consciousness)」と「現象的意識(phenomenal consciousness)」という区別である<ref name=ref11><pubmed></pubmed></ref>。アクセス意識は、報告できる意識内容のことであり、その内容は短期的に記憶に保持され、意図的な行動の計画に使われる。現象的意識は、「クオリア」のことであり、意識内容を報告できるかどうかは関係がない。たとえば、読者がこのページを読んでいる現在、直接に読んでいる注視点の付近の単語は意識にのぼっており、アクセス可能であるが、注視点周辺では、文字らしきものが意識にはのぼっているが、それがどのような文字であるかを報告することはできない。そのような文字は現象的には意識にのぼっているが、アクセスができない状態にあると考えることもできる。
 意識に関係する概念を整理するのに重要なのは、哲学者Ned Block が提唱した「アクセス意識(access consciousness)」と「現象的意識(phenomenal consciousness)」という区別である<ref name=ref11><pubmed>15668096</pubmed></ref>。アクセス意識は、報告できる意識内容のことであり、その内容は短期的に記憶に保持され、意図的な行動の計画に使われる。現象的意識は、「クオリア」のことであり、意識内容を報告できるかどうかは関係がない。たとえば、読者がこのページを読んでいる現在、直接に読んでいる注視点の付近の単語は意識にのぼっており、アクセス可能であるが、注視点周辺では、文字らしきものが意識にはのぼっているが、それがどのような文字であるかを報告することはできない。そのような文字は現象的には意識にのぼっているが、アクセスができない状態にあると考えることもできる。


 現在の意識研究者の間でも、脳科学はアクセス意識に集中して研究すべきだと考える研究者<ref name=ref19><pubmed></pubmed></ref> <ref name=ref24><pubmed></pubmed></ref>と、脳科学が真に研究すべきは現象的意識の方であると考える研究者<ref name=ref67><pubmed></pubmed></ref>に分かれている。注意と意識の関係性については<ref name=ref18 /> <ref name=ref66><pubmed></pubmed></ref>を参照。作業記憶と意識については<ref name=ref59 />を参照。報告と意識については<ref name=ref1><pubmed></pubmed></ref> <ref name=ref67 />を参照。
 現在の意識研究者の間でも、脳科学はアクセス意識に集中して研究すべきだと考える研究者<ref name=ref19><pubmed>21807333</pubmed></ref> <ref name=ref24 />と、脳科学が真に研究すべきは現象的意識の方であると考える研究者<ref name=ref67><pubmed>26585549</pubmed></ref>に分かれている。注意と意識の関係性については<ref name=ref18 /> <ref name=ref66>'''Tsuchiya, N., & Koch, C.'''<br>The relationship between consciousness and top-down attention. <br>In S. Laureys, G. Tononi, & O. Gosseries (Eds.), <br>The Neurology of Consciousness (2nd ed., pp. 69-89): ''Academic Press.'' 2015</ref>を参照。作業記憶と意識については<ref name=ref59 />を参照。報告と意識については<ref name=ref1><pubmed>22192881</pubmed></ref> <ref name=ref67 />を参照。


==脳科学的な意識の理論==
==脳科学的な意識の理論==
 1990年代に始まった意識の実験的脳科学研究によって集まった膨大なデータをもとに、2000年以降、これらの実証的なデータを説明するような意識の理論的研究が始まった。なかでも、「グローバル・ニューロナル・ワークスペース理論」<ref name=ref24 /> <ref name=ref26><pubmed></pubmed></ref> <ref name=ref27><pubmed></pubmed></ref>と「統合情報理論」<ref name=ref43 /> <ref name=ref61 /> <ref name=ref62><pubmed></pubmed></ref>は、多くの脳科学的意識研究の知見を整理するのに役立ち、かつ、今後脳科学研究によって検証されることが期待される。
 1990年代に始まった意識の実験的脳科学研究によって集まった膨大なデータをもとに、2000年以降、これらの実証的なデータを説明するような意識の理論的研究が始まった。なかでも、「グローバル・ニューロナル・ワークスペース理論」<ref name=ref24 /> <ref name=ref26><pubmed>16603406</pubmed></ref> <ref name=ref27><pubmed>11164022</pubmed></ref>と「統合情報理論」<ref name=ref43 /> <ref name=ref61 /> <ref name=ref62>'''Tononi, G.'''<br>Integrated information theory. <br>''Scholarpedia'', 10(1), 4164, 2015</ref>は、多くの脳科学的意識研究の知見を整理するのに役立ち、かつ、今後脳科学研究によって検証されることが期待される。


===グローバル・ニューロナル・ワークスペース理論===
===グローバル・ニューロナル・ワークスペース理論===
 グローバル・ニューロナル・ワークスペース理論(Global Neuronal Workspace, GNW)は、 Bernard Baars が提唱した「グローバル・ワークスペース理論(Global Workspace Theory, GWT)」<ref name=ref3><pubmed></pubmed></ref>を脳科学的に検証できるように発展させた理論である。
 グローバル・ニューロナル・ワークスペース理論(Global Neuronal Workspace, GNW)は、 Bernard Baars が提唱した「グローバル・ワークスペース理論(Global Workspace Theory, GWT)」<ref name=ref3>'''Baars, B. J.'''<br>A Cognitive Theory of Consciousness<br>''Cambridge University Press'', 1988</ref>を脳科学的に検証できるように発展させた理論である。


 グローバル・ワークスペースとは、さまざまな無意識処理からのぼってくる情報をフレキシブルに保持・処理する神経機構である。無意識処理とは感覚入力、または運動出力を担う周辺的な並列的処理に対応し、それらの一部は大脳皮質内にまで及ぶこともある。そこから上がってくる情報の一部は、注意によって選択および増幅されると、グローバル・ワークスペースに入り、他のシステムから自由なアクセス可能な状態になる。グローバル・ワークスペース内の情報は、長期記憶・運動計画・抽象的な思考などさまざまな認知機能に利用可能であるため、意識にのぼっている情報処理は無意識の情報処理に比べて圧倒的に有用なのだと考えられる。
 グローバル・ワークスペースとは、さまざまな無意識処理からのぼってくる情報をフレキシブルに保持・処理する神経機構である。無意識処理とは感覚入力、または運動出力を担う周辺的な並列的処理に対応し、それらの一部は大脳皮質内にまで及ぶこともある。そこから上がってくる情報の一部は、注意によって選択および増幅されると、グローバル・ワークスペースに入り、他のシステムから自由なアクセス可能な状態になる。グローバル・ワークスペース内の情報は、長期記憶・運動計画・抽象的な思考などさまざまな認知機能に利用可能であるため、意識にのぼっている情報処理は無意識の情報処理に比べて圧倒的に有用なのだと考えられる。


 GNWは、GWTで提唱された計算構造がどのように脳内で実装されているのかを詳しく検討し、過去に得られた膨大な意識研究の知見を総合的に捉えて理解する道筋を与える<ref name=ref23><pubmed></pubmed></ref>。GNWによると、意識にのぼっている情報とは、前頭前野を中心とした脳内に広く分布したニューロン集団からなるグローバル・ワークスペース内の情報にほかならない。
 GNWは、GWTで提唱された計算構造がどのように脳内で実装されているのかを詳しく検討し、過去に得られた膨大な意識研究の知見を総合的に捉えて理解する道筋を与える<ref name=ref23>'''Dehaene, S.''' <br>Consciousness and the brain: Deciphering how the brain codes our thoughts<br>''Penguin'', 2014</ref>。GNWによると、意識にのぼっている情報とは、前頭前野を中心とした脳内に広く分布したニューロン集団からなるグローバル・ワークスペース内の情報にほかならない。


 GNWでは、意識にアクセスできる情報とそうでないものが脳内に存在するのはなぜか、また、意識研究で検証される脳活動の特徴や意識・無意識処理が行動に与える影響などを包括的に説明できる。しかし、現象的意識や、人間の脳と特に異なる構造を持った脳にどのような意識が宿る可能性があるのか、などについては実験による検証が不可能であるとし、重視しない傾向がある。
 GNWでは、意識にアクセスできる情報とそうでないものが脳内に存在するのはなぜか、また、意識研究で検証される脳活動の特徴や意識・無意識処理が行動に与える影響などを包括的に説明できる。しかし、現象的意識や、人間の脳と特に異なる構造を持った脳にどのような意識が宿る可能性があるのか、などについては実験による検証が不可能であるとし、重視しない傾向がある。
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 統合情報理論は、現在までにわかっている脳科学的知見に整合的な説明を与える。統合情報理論によると、昏睡・植物状態・深い睡眠や全身麻酔状態で、脳活動は失われず、かつ外部からの感覚入力にも反応できる脳に意識が宿らないのは、情報の統合が失われるからである([[意識#意識の神経相関|意識レベルの変化]]参照)。分離脳では、分離された脳それぞれが、独立に同程度の情報の統合を行っているため、左右の脳で独立に意識が存在すると考える([[意識#意識の神経相関|臨床研究からの知見]]参照)。また、小脳の活動が意識を生み出さないのは、小脳の回路は統合が弱いからだと説明される([[意識#意識の神経相関|意識と無意識]]参照)。
 統合情報理論は、現在までにわかっている脳科学的知見に整合的な説明を与える。統合情報理論によると、昏睡・植物状態・深い睡眠や全身麻酔状態で、脳活動は失われず、かつ外部からの感覚入力にも反応できる脳に意識が宿らないのは、情報の統合が失われるからである([[意識#意識の神経相関|意識レベルの変化]]参照)。分離脳では、分離された脳それぞれが、独立に同程度の情報の統合を行っているため、左右の脳で独立に意識が存在すると考える([[意識#意識の神経相関|臨床研究からの知見]]参照)。また、小脳の活動が意識を生み出さないのは、小脳の回路は統合が弱いからだと説明される([[意識#意識の神経相関|意識と無意識]]参照)。


 統合情報理論を直接に検証するのは難しい。しかし、理論をもとにした意識レベルの指標の提唱<ref name=ref15><pubmed></pubmed></ref>や、神経活動をもとにした統合情報の計測の仕方などが提案されている<ref name=ref5><pubmed></pubmed></ref> <ref name=ref49><pubmed></pubmed></ref>。今後は意識の内容についての統合情報理論の予測を検証するような研究が期待されている。
 統合情報理論を直接に検証するのは難しい。しかし、理論をもとにした意識レベルの指標の提唱<ref name=ref15><pubmed>23946194</pubmed></ref>や、神経活動をもとにした統合情報の計測の仕方などが提案されている<ref name=ref5><pubmed>21283779</pubmed></ref> <ref name=ref49><pubmed>26796119</pubmed></ref>。今後は意識の内容についての統合情報理論の予測を検証するような研究が期待されている。


<sup>*7</sup> その他に、意識が存在すること(existence)、意識内容は様々な側面から成り立っていること(composition)、意識はある一定の空間・時間スケールでのみ経験されること(exclusion)等がある。詳細は<ref name=ref48 /> <ref name=ref62 />を参照。
<sup>*7</sup> その他に、意識が存在すること(existence)、意識内容は様々な側面から成り立っていること(composition)、意識はある一定の空間・時間スケールでのみ経験されること(exclusion)等がある。詳細は<ref name=ref48 /> <ref name=ref62 />を参照。


<sup>*8</sup> 情報理論の文脈では<ref name=ref56><pubmed></pubmed></ref>、「情報量」とは、不確定性の減少と定義される。その意味で、意識内容のレパートリーは非常に多く(我々が経験する可能性のある全て)、かつ一瞬の意識内容により、それ以外の意識内容を経験している可能性(不確定性)が無くなる、と言う意味で、意識の情報量は膨大であると考える。
<sup>*8</sup> 情報理論の文脈では<ref name=ref56>'''Shannon, C. E., & Weaver, W.'''<br>The mathematical theory of communication.<br>Urbana, IL, USA: ''University of Illinois press'', 1949</ref>、「情報量」とは、不確定性の減少と定義される。その意味で、意識内容のレパートリーは非常に多く(我々が経験する可能性のある全て)、かつ一瞬の意識内容により、それ以外の意識内容を経験している可能性(不確定性)が無くなる、と言う意味で、意識の情報量は膨大であると考える。


==まとめと展望==
==まとめと展望==
 意識がどのように脳(物質)から生じるかという、mind-body problemは、宇宙・物質の起源、生命の起源とともにこの世界における大きな謎として古来より多くの哲学者によって論じられてきた。脳科学による意識研究の歴史は比較的浅く、本格的な研究は1990年代に始まったにすぎない。しかし、この25年間で積み上げられた知見は膨大である。(日本語で翻訳されている最近の脳科学からの意識研究については<ref name=ref24><pubmed></pubmed></ref> <ref name=ref35 /> <ref name=ref36 /> <ref name=ref43 />を参照。)
 意識がどのように脳(物質)から生じるかという、mind-body problemは、宇宙・物質の起源、生命の起源とともにこの世界における大きな謎として古来より多くの哲学者によって論じられてきた。脳科学による意識研究の歴史は比較的浅く、本格的な研究は1990年代に始まったにすぎない。しかし、この25年間で積み上げられた知見は膨大である。(日本語で翻訳されている最近の脳科学からの意識研究については<ref name=ref24 /> <ref name=ref35 /> <ref name=ref36 /> <ref name=ref43 />を参照。)


 近年の意識の脳科学研究は、積み上げられた知見を総括的に説明するような理論を推し進め、具体的にそれらの予測を検証する段階までたどり着きつつある。そのような理論研究は、人間以外の動物・植物・人工知能やロボットに意識が宿る可能性、またインターネットや社会が意識を持つ可能性などについて予測を行う。それらの予測の中には検証可能な脳科学の研究対象となりうるものもある。
 近年の意識の脳科学研究は、積み上げられた知見を総括的に説明するような理論を推し進め、具体的にそれらの予測を検証する段階までたどり着きつつある。そのような理論研究は、人間以外の動物・植物・人工知能やロボットに意識が宿る可能性、またインターネットや社会が意識を持つ可能性などについて予測を行う。それらの予測の中には検証可能な脳科学の研究対象となりうるものもある。