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羅、英:hippocampus
羅、英:hippocampus


 海馬は[[大脳]][[側頭葉]]の内側部で[[側脳室]]下角底部に位置し、[[エピソード記憶]]等の[[顕在性記憶]]の形成に不可欠な[[皮質]]部位である(図1)。[[記憶]]形成に関与する側頭葉皮質部位には、[[嗅内野]]、[[傍海馬台]]、[[前海馬台]]、[[海馬台]]、[[海馬]]([[アンモン角]])、[[歯状回]]がある。また、海馬台、海馬、歯状回に、[[中隔]]側へ連続する[[脳梁]]上部の[[脳梁]]灰白層を加えて集合的に[[海馬体]] (hippocampal formation) と呼ぶ。
 海馬は[[大脳]][[側頭葉]]の内側部で[[側脳室]]下角底部に位置し、[[エピソード記憶]]等の[[顕在性記憶]]の形成に不可欠な[[皮質]]部位である(図1)。[[記憶]]形成に関与する側頭葉皮質部位には、[[嗅内野]]、[[傍海馬台]]、[[前海馬台]]、[[海馬台]]、[[海馬]]([[アンモン角]])、[[歯状回]]がある。また、海馬台、海馬、歯状回に、[[脳梁]]上部に位置し、[[中隔]]方向に連続する構造物である脳梁灰白層を加えて集合的に[[海馬体]] (hippocampal formation) と呼ぶ。


== 名称 ==
== 名称 ==


 側脳室下角底部に隆起する[[大脳皮質]]を両側合わせて肉眼的に見ると、[[wikipedia:ja:ギリシャ神話|ギリシャ神話]]に登場する海神[[wikipedia:ja:ポセイドン|ポセイドン]]がまたがる海馬の前肢の形に似ていることから[[wikipedia:ja:イタリア|イタリア]]・[[wikipedia:ja:ボロ−ニャ|ボロ−ニャ]]の解剖学者 [[wikipedia:Julius Caesar Aranzi|Giulio Cesare Arantio]] (1587) は''Hippocampus''(海馬)と命名した。側脳室下角前方へ膨らんだ部分を[[海馬足]](''pes hippocampi'')とよぶ。魚類の[[wikipedia:ja:タツノオトシゴ|タツノオトシゴ]]も''hippocampus'' と呼ばれるが、脳部位の海馬とは独立して神話の海馬から連想して命名されたという。海馬の別称として、Ram's Horn(羊の角、Winslow, 1732)、''Cornu Ammonis'' ([[wikipedia:ja:エジプト|エジプト]]の太陽神[[wikipedia:ja:アモン|アモン]]神の角、de Garengeot, 1742)などがある。Arantio 自身、''hippocampus''とは別に''vermis bombycinus''(蚕)とも呼んだ。和名の海馬は、Zeepaard(蘭)、Seepferd(独)、sea-horse (英)からの訳である。
 側脳室下角底部に隆起する[[大脳皮質]]を両側合わせて肉眼的に見ると、[[wikipedia:ja:ギリシャ神話|ギリシャ神話]]に登場する海神[[wikipedia:ja:ポセイドン|ポセイドン]]がまたがる海馬の前肢の形に似ていることから[[wikipedia:ja:イタリア|イタリア]]・[[wikipedia:ja:ボロ−ニャ|ボロ−ニャ]]の解剖学者 [[wikipedia:Julius Caesar Aranzi|Giulio Cesare Arantio]] (1587) は''Hippocampus''(海馬)と命名した。側脳室下角前方へ膨らんだ部分を[[海馬足]](''pes hippocampi'')とよぶ。魚類の[[wikipedia:ja:タツノオトシゴ|タツノオトシゴ]]も''hippocampus'' と呼ばれるが、脳部位の海馬とは独立して神話の海馬から連想して命名されたという<ref>'''小川鼎三'''<br>医学用語の起こり<br>東京書籍 1983, p100</ref>。海馬の別称として、Ram's Horn(羊の角、Winslow, 1732)、''Cornu Ammonis'' ([[wikipedia:ja:エジプト|エジプト]]の太陽神[[wikipedia:ja:アモン|アモン]]神の角、de Garengeot, 1742)などがある。Arantio 自身、''hippocampus''とは別に''vermis bombycinus''(蚕)とも呼んだ。和名の海馬は、Zeepaard(蘭)、Seepferd(独)、sea-horse (英)からの訳である。


 アンモン角の内側面は、まるで小児の歯のような隆起が一列に並んでおり、歯状回と呼ばれる。この構造を初めて図示・記載したのは[[wikipedia:Pierre Tarin|Tarin]] (1750)という。歯状回はもともとは海馬の付属物とされていたようで、[[wikipedia:Félix Vicq-d'Azyr|Vicq d'Azyr]] は「襞彫り様の、あるいは鋸歯状に凹みを成す内縁」と記述した。これを[[wikipedia:Ignaz Döllinger|Döllinger]] (1814) がgezähnte Leiste(歯状縁) と呼び、[[wikipedia:Johann Friedrich Meckel|Meckel]] (1817)が''fascia dentata''とラテン名に訳して使用した。歯状回は、古くは鋸歯状体、海馬歯状膜などとも呼ばれた。
 アンモン角の内側面は、まるで小児の歯のような隆起が一列に並んでおり、歯状回と呼ばれる。この構造を初めて図示・記載したのは[[wikipedia:Pierre Tarin|Tarin]] (1750)という。歯状回はもともとは海馬の付属物とされていたようで、[[wikipedia:Félix Vicq-d'Azyr|Vicq d'Azyr]] は「襞彫り様の、あるいは鋸歯状に凹みを成す内縁」と記述した。これを[[wikipedia:Ignaz Döllinger|Döllinger]] (1814) がgezähnte Leiste(歯状縁) と呼び、[[wikipedia:Johann Friedrich Meckel|Meckel]] (1817)が''fascia dentata''とラテン名に訳して使用した。歯状回は、古くは鋸歯状体、海馬歯状膜などとも呼ばれた。
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 大脳皮質は神経細胞の細胞構築により、前頭領域、後頭領域など11の領域 (Area) に大別され、[[嗅脳溝]]より内側部分は海馬領域と呼ばれる<ref>'''Korbinian Brodmann'''<br> Vergleichende Lokalisationslehre der Grosshirnrinde in ihren Prinzipien dargestellt auf Grund des Zellenbaues<br>''Johann Ambrosius Barth Verlag'', Leipzig, 1909</ref>。海馬領域中、海馬に連続する領域で[[海馬溝]]から嗅脳溝(後方では[[側副溝]])との間は[[海馬傍回]](gyrus parahippocampalis)と呼ばれ、[[海馬台前野]]、[[嗅内野]] (area entorhinalis)、[[嗅脳溝周囲野]]の三領野に区分される。ちなみに、この脳回は、以前は海馬回(gyrus hippocampalis)と呼ばれた。
 大脳皮質は神経細胞の細胞構築により、前頭領域、後頭領域など11の領域 (Area) に大別され、[[嗅脳溝]]より内側部分は海馬領域と呼ばれる<ref>'''Korbinian Brodmann'''<br> Vergleichende Lokalisationslehre der Grosshirnrinde in ihren Prinzipien dargestellt auf Grund des Zellenbaues<br>''Johann Ambrosius Barth Verlag'', Leipzig, 1909</ref>。海馬領域中、海馬に連続する領域で[[海馬溝]]から嗅脳溝(後方では[[側副溝]])との間は[[海馬傍回]](gyrus parahippocampalis)と呼ばれ、[[海馬台前野]]、[[嗅内野]] (area entorhinalis)、[[嗅脳溝周囲野]]の三領野に区分される。ちなみに、この脳回は、以前は海馬回(gyrus hippocampalis)と呼ばれた。
 
 
== 記憶機能 ==


== 機能 ==
[[image:海馬1.png|thumb|300px|'''図2.記憶回路の神経結合を示す概念図'''<br>青は大脳皮質領域、ピンクは皮質下領域の出力先、橙色は皮質下領域からの入力路]]
(編集 林 コメント:この節と次の節に若干の重複が見られます。統合して、かつ電気生理などの最新の知見を入れてはどうでしょうか。)
 海馬は[[大辺縁葉]](le grand lobe linbique, [[wikipedia:ja:ピエール・ポール・ブローカ|Broca]])<ref>'''Paul Broca'''<br>Localisations des fonctions cérébrales. Siège de la faculté du langage articulé.<br>''Bulletin de la Société d"Anthropologie'' 4: 200–208, 1863.</ref>の一部を構成し、[[嗅脳]]に隣接するからか、20世紀中頃まで[[嗅覚]]機能に関与すると考えられていた。しかしBrodal(1942)(文献情報ございましたらご指示ください)は、これまでの神経結合の所見を検討して、海馬嗅覚皮質説に疑問を示した。[[嗅球]]から海馬への一ないし二シナプス性入力は、現在の解剖・生理実験でも否定的所見が多い。近年、嗅覚一次中枢は、[[前頭葉]]下面後部に推定されているようである。


 [[wikipedia:James Papez|Papez]] (1937) は、[[情動]]発現を司る部位として[[視床下部]]を、[[情動]]経験の部位として大脳半球内側皮質([[帯状回]]、海馬)と視床を推定した<ref name= Papez><pubmed> 7711480 </pubmed></ref>。そして解剖的に知られていた、海馬—[[脳弓]][[乳頭体]]—[[乳頭体視床束]] ([[Vicq d'Azyr束]]) —[[視床前核]]—帯状回—海馬と続く回路は情動に関与すると考えた。のちに[[パペッツの回路]]と呼ばれるが、実はこれが記憶に密接に関与する回路であることがわかってきた。
 海馬は[[大辺縁葉]](le grand lobe linbique, [[wikipedia:ja:ピエール・ポール・ブローカ|Broca]])<ref>'''Paul Broca'''<br>Localisations des fonctions cérébrales. Siège de la faculté du langage articulé.<br>''Bulletin de la Société d"Anthropologie'' 4: 200–208, 1863.</ref>の一部を構成し、[[嗅脳]]に隣接するからか、20世紀中頃まで[[嗅覚]]機能に関与すると考えられていた。しかしBrodal<ref><pubmed>20261820</pubmed></ref>は、これまでの神経結合の所見を検討して、海馬嗅覚皮質説に疑問を示した。[[嗅球]]から海馬への一ないし二シナプス性入力は、現在の解剖・生理実験でも否定的所見が多い。近年、嗅覚の一次中枢としては、[[前頭葉]]下面後部にある梨状葉皮質(pyriform cortex)、嗅結節、扁桃体周囲皮質などが同定されている。


 海馬が知的機能や記憶に関与するとの示唆は、Brown とSchäfer (1888)の実験に見られる。海馬を含む側頭葉内側部を両側性に傷害した[[wikipedia:ja:アカゲザル|アカゲザル]]では、凶暴だった性格がおとなしくなった。[[視覚|視]]・[[聴覚|聴]]・[[触覚|触]]・[[味覚|味]]・嗅覚の感覚それ自体には異常を認めないが、音や見える物の意味が理解できない。見慣れた物を与えても、はじめて接する物のごとく口にいれたり、嗅いだりして確かめ、しばらくして同じ物を与えてもやはり同様の行動を何回もくりかえした。Klüver とBucy (1939)はアカゲザルの海馬・[[鈎]]の両側切除術によって、[[思考脱線]]、[[精神盲]]([[視覚失認]])、[[易馴応性]]、[[性欲]]亢進などの症状が起こることを観察し<ref name= Klüver><pubmed> 9447506 </pubmed></ref>、Brown らの所見を追認した。
 海馬が知的機能や記憶に関与するとの示唆は、Brown とSchäfer (1888)の実験に見られる。海馬を含む側頭葉内側部を両側性に傷害した[[wikipedia:ja:アカゲザル|アカゲザル]]では、凶暴だった性格がおとなしくなった。[[視覚|視]]・[[聴覚|聴]]・[[触覚|触]]・[[味覚|味]]・嗅覚の感覚それ自体には異常を認めないが、音や見える物の意味が理解できない。見慣れた物を与えても、はじめて接する物のごとく口にいれたり、嗅いだりして確かめ、しばらくして同じ物を与えてもやはり同様の行動を何回もくりかえした。Klüver とBucy (1939)はアカゲザルの海馬・[[鈎]]の両側切除術によって、[[思考脱線]]、[[精神盲]]([[視覚失認]])、[[易馴応性]]、[[性欲]]亢進などの症状が起こることを観察し<ref name= Klüver><pubmed> 9447506 </pubmed></ref>、Brown らの所見を追認した。


 [[wikipedia:ja:ヒト|ヒト]]では、Bechterew (1899)、Grünthal (1947)<ref>'''Grünthal, E.'''<br>Über das klinische Bild nach umschriebenen beiderseitigem Ausfall der Ammonshornrinde.<br>''Monatsschr. Psychiat. Neurol.'', 113, 1-16, 1947</ref>、GleesとGriffith (1952)ら<ref name= Glees><pubmed>14947832</pubmed></ref>が、近時記憶に著しい障害のあった患者の脳を死後剖検し、両側の海馬や海馬傍回に器質性病変のあることを報告した。そして、ScovilleとMilner (1957)が難治性[[てんかん]]患者の治療目的で、両側[[側頭葉]]内側部([[扁桃体]]、海馬傍回、海馬前方2/3 )の切除術を行ったところ、強度の順行性記憶障害を惹起したことを報告した<ref name= Scoville><pubmed> 13406589 </pubmed></ref>。患者らは知能指数にはまったく問題がみられないが、術後の事象の記憶が全然できない。人の顔や名前は全く記憶することができず、受けた指示の内容だけでなく指示されたことも覚えていない。また術前3年までぐらいの[[逆行性健忘]]も見られた。一方、数年より以前の事象は思い出すことが可能で、以来、海馬が[[近時記憶]]と[[長期記憶]]の形成([[記銘]])の部位として注目されるようになった。海馬の構造と機能についての詳細は文献<ref name=ref1>'''Amaral DG, Insausti R.'''<br>Hippocampal formation. In: Paxinos G, editor. The Human Nervous System. <br>San Diego: Academic Press. pp. 711-755. 1990.</ref> <ref name=ref2>'''Amaral DG, Witter MP.'''<br>Hippocampal formation. Paxinos G, ed. "The Rat Nervous System". <br>San Diego: Academic Press. pp. 443-493. 1995.</ref> <ref name=ref3><pubmed>8915675</pubmed></ref> <ref name=ref4>'''Gloor P'''<br>The Temporal Lobe and Limbic System. <br>Oxford University Press, New York, 1997 </ref>(英文)、文献<ref name=ref5>'''石塚典生'''<br>海馬の細胞構築と神経結合<br>神経進歩 38:5-22 (1994)</ref> <ref name=ref6>'''石塚典生'''<br>海馬の構造と線維連絡<br>脳と神経 50:881-892 (1998)</ref> <ref name=ref7>'''石塚典生'''<br>記憶のしくみ 解剖学的面から<br>CLINICAL NEUROSCIENCE 16:130-134 (1998)</ref> <ref name=ref8>'''石塚典生'''<br>大脳辺縁系の神経結合と細胞構築<br>神経進歩 50:7-17 (2006)</ref> <ref name=ref9>'''石塚典生'''<br>海馬領域における縦走性線維投射<br>BRAIN and NERVE 60:737-745 (2008)</ref>(和文)、池谷による[http://gaya.jp/research/index.htm Website]を参照。
 [[wikipedia:ja:ヒト|ヒト]]では、Bechterew (1899)、Grünthal (1947)<ref>'''Grünthal, E.'''<br>Über das klinische Bild nach umschriebenen beiderseitigem Ausfall der Ammonshornrinde.<br>''Monatsschr. Psychiat. Neurol.'', 113, 1-16, 1947</ref>、GleesとGriffith (1952)ら<ref name= Glees><pubmed>14947832</pubmed></ref>が、近時記憶に著しい障害のあった患者の脳を死後剖検し、両側の海馬や海馬傍回に器質性病変のあることを報告した。そして、ScovilleとMilner (1957)が難治性[[てんかん]]患者の治療目的で、両側[[側頭葉]]内側部([[扁桃体]]、海馬傍回、海馬前方2/3 )の切除術を行ったところ、強度の順行性記憶障害を惹起したことを報告した<ref name= Scoville><pubmed> 13406589 </pubmed></ref>。患者らは知能指数にはまったく問題がみられないが、術後の事象の記憶が全然できない。人の顔や名前は全く記憶することができず、受けた指示の内容だけでなく指示されたことも覚えていない。また術前3年までぐらいの[[逆行性健忘]]も見られた。一方、数年より以前の事象は思い出すことが可能で、以来、海馬が[[近時記憶]]と[[長期記憶]]の形成([[記銘]])の部位として注目されるようになった。
 
== 海馬と記憶 ==


[[image:海馬1.png|thumb|300px|'''図2.記憶回路の神経結合を示す概念図'''<br>青は大脳皮質領域、ピンクは皮質下領域の出力先、橙色は皮質下領域からの入力路]]
 記憶機能には記銘(つくる)、[[貯蔵]](しまう)、[[想起]](とりだす)の過程があり、それぞれの記憶過程には、これを司る特異的脳部位があると考えられる。大脳皮質連合野で分析された種々の情報は、嗅周皮質と嗅内野で混合され、嗅内野から貫通線維束として海馬体に入る(図1)。海馬の中に入ってきた信号は、すでに視覚、聴覚といった感覚種(modality)が曖昧な超感覚種の信号という(Jones and Powell, 1970)。これらの情報は海馬体の内部回路により信号処理され、脳弓によって皮質下構造(視床前核、視床下部、乳頭体、中隔側坐核)へ出力されるとともに、複数の投射経路によって嗅内野へ帰還する。そして、嗅内野から大脳皮質へ信号が運ばれ、記憶として貯蔵されると考えられる。海馬の中では感覚種は識別されなくなっているようですが、特定の場所に来たときに特別に反応する細胞(場所細胞: Place cells)が見つかっています。海馬の外ですが、前海馬台には頭部の方向選択制にかかわる細胞(head-direction cells)や空間上の規則正しいスポットに来たときに特別に反応する細胞(グリッド細胞:Glid cells)などが見つかっています。


 大脳皮質側頭葉の内側部に位置する[[嗅周皮質]]、嗅内野、海馬体(海馬台、アンモン角、歯状回)、海馬の後方皮質([[前海馬台]][[傍海馬台]])および[[脳梁膨大後皮質]]は記憶の形成に関与する。大脳皮質[[連合野]]で分析された種々の情報は、嗅周皮質と嗅内野で混合され、嗅内野から[[貫通線維]]束として海馬体に入る(図2)。これらの情報は海馬体の内部回路により信号処理され、脳弓によって皮質下構造([[視床前核]][[視床下部]]、乳頭体、中隔[[側坐核]])へ出力されるとともに、複数の投射経路によって嗅内野へ帰還する。そして、嗅内野から大脳皮質へ信号が運ばれ、記憶として貯蔵されると考えられる。海馬の中に入ってきた信号は、すでに視覚、聴覚といった感覚種(modality)が曖昧な超感覚種の信号という。
 前述の難治性てんかんの治療で両側海馬体を除去した症例([[患者HM]]など)や一時的心停止後にCA1細胞が特異的に脱落した症例([[患者RB]])では、遠い過去の記憶の想起は可能だが、顕著な順行性健忘([[記銘障害]])が見られた。[[アルツハイマー病]]では早期に記銘障害が出現することが特徴で、まず嗅内野、海馬台、CA1に変性が見られる。他方、乳頭体変性をきたす[[コルサコフ症候群]][[間脳]]性の傷害では、[[順行性健忘]]に加えて逆行性健忘(想起障害)も見られる。さらに、大脳皮質の広範囲に変性が見られる[[老人性痴呆]]では、全般的な記憶の破壊が見られる。また、エピソード形成(記憶事象の順序立て)や想起には海馬—脳弓—乳頭体—乳頭体視床束 (Vicq d'Azyr束) —視床前核—帯状回—海馬と続くPapez 回路や前頭葉の関与が考えられている(Squier, 1987)。Papez (1937) は、もともとは情動発現を司る部位として視床下部を、情動経験の部位として大脳半球内側皮質(帯状回、海馬)と視床を推定し、この回路は情動に関与すると考えたが、実はこれが記憶に密接に関与する回路であることがわかってきた。


 記憶機能には記銘(つくる)、[[貯蔵]](しまう)、[[想起]](とりだす)の過程がある。難治性てんかんの治療で両側海馬体を除去した症例([[患者HM]]など)や一時的心停止後にCA1細胞が特異的に脱落した症例([[患者RB]])では、遠い過去の記憶の想起は可能だが、顕著な順行性健忘([[記銘障害]])が見られた。[[アルツハイマー病]]では早期に記銘障害が出現することが特徴で、まず嗅内野、海馬台、CA1に変性が見られる。他方、乳頭体変性をきたす[[コルサコフ症候群]]や[[間脳]]性の傷害では、[[順行性健忘]]に加えて逆行性健忘(想起障害)も見られる。さらに、大脳皮質の広範囲に変性が見られる[[老人性痴呆]]では、全般的な記憶の破壊が見られる。したがって、それぞれの記憶過程には、これを司る特異的脳部位があると考えられる。このうち海馬体を中心とする側頭葉内側部は、記憶の形成([[暗号化]]:[[コーディング]])に不可欠な部位とされる。また、エピソード形成(記憶事象の順序立て)や想起にはPapez 回路(海馬体、乳頭体、視床前核、帯状回)や前頭葉の関与が考えられている。
 記憶の形成には神経回路の機能的強化であるシナプスの長期増強(LTP:long term potenciation) の現象が起こり、後に構造変化が起こるとされています。
 
 
 海馬の構造と機能についての詳細は文献1〜4(英文)、文献5〜9(和文)、Website は文献14を参照。
== 海馬体の神経結合 ==
== 海馬体の神経結合 ==


=== 海馬体の入力線維 ===
=== 海馬体の入力線維 ===


[[image:海馬2.png|thumb|300px|'''図3.内側嗅内野からの貫通線維束の終止部位(焦茶色)''']]
[[image:海馬2.png|thumb|300px|'''図3.内側嗅内野に順行性トレーサーのPHA-Lを注入したときに見られる貫通線維束の軸索終止の分布'''<br>焦茶色に見えるのが、標識された軸索の終末]]


 海馬体への入力路としては、1)嗅内野からの貫通線維束(図3)、2)[[内側中隔核]]、[[乳頭体上核]]、[[青斑核]]、[[縫線核]]から上行してくる脳弓、および3)反対側CA3と歯状回門からの[[交連線維]]が通る[[腹側海馬交連]]がある。貫通線維束は大脳皮質から記憶の源情報を運び、交連線維は海馬内情報処理回路の一部を担い、上行性入力は海馬体内部回路の活動を修飾する。皮質性の貫通線維束とCA3線維は[[グルタミン酸]]、内側中隔核線維は[[アセチルコリン]]と [[GABA]]、乳頭体上核線維は[[ドーパミン]]、青斑核線維は[[アドレナリン]]、縫線核線維は[[セロトニン]]、そして、反対側の歯状回[[多形細胞]]からの線維はGABAを伝達物質としている。
 海馬体への入力路としては、1)嗅内野からの貫通線維束(図3)、2)[[内側中隔核]]、[[乳頭体上核]]、[[青斑核]]、[[縫線核]]から上行してくる脳弓、および3)反対側CA3と歯状回門からの[[交連線維]]が通る[[腹側海馬交連]]がある。貫通線維束は大脳皮質から記憶の元となる情報を運び、交連線維は海馬内情報処理回路の一部を担い、上行性入力は海馬体内部回路の活動を修飾する。皮質性の貫通線維束とCA3線維は[[グルタミン酸]]、内側中隔核線維は[[アセチルコリン]]と [[GABA]]、乳頭体上核線維は[[ドーパミン]]、青斑核線維は[[アドレナリン]]、縫線核線維は[[セロトニン]]、そして、反対側の歯状回[[多形細胞]]からの線維はGABAを伝達物質としている。


 貫通線維束は海馬台[[錐体細胞]]層を貫いて分子層へ出て、海馬台(SUB)、アンモン角、歯状回(DG)の分子層に同時に投射する。内側嗅内野(MEA)へ白インゲン豆レクチンを注入し、取り込んだ細胞から海馬体各領域への[[軸索]]投射および終末分布を可視化した像を図3に示す。嗅内野II層からは歯状回とCA3 へ投射し、外側嗅内野(LEA)からの線維が分子層の表層部分に、内側嗅内野(MEA)からの線維がより深い部分に分布する。III 層からはCA1 と海馬台の分子層および海馬台の最深層に両側性に投射があり、MEAからの投射線維はCA1の近位部(CA3に近い側)と海馬台の遠位部(前海馬台Preに近い側)に終止し、LEAからの投射線維はCA1の遠位部と海馬台の近位部に終止する。したがって、歯状回顆粒細胞とCA3錐体細胞は一様にMEA、LEA両領域からの情報を受けるのに対し、CA1と海馬台錐体細胞は、近位部・遠位部によってMEAのみ、あるいはLEAのみの情報を受ける。他の皮質入力としては、[[wikipedia:ja:サル|サル]]では嗅周皮質や前頭葉からCA1への入力の報告もあるが、[[wikipedia:ja:ラット|ラット]]ではあまり見られない。
 貫通線維束は海馬台[[錐体細胞]]層を貫いて分子層へ出て、海馬台(SUB)、アンモン角、歯状回(DG)の分子層に同時に投射する。内側嗅内野(MEA)へ白インゲン豆レクチンを注入し、取り込んだ細胞から海馬体各領域への[[軸索]]投射および終末分布を可視化した像を図3に示す。嗅内野II層からは歯状回とCA3 へ投射し、外側嗅内野(LEA)からの線維が分子層の表層部分に、内側嗅内野(MEA)からの線維がより深い部分に分布する。III 層からはCA1 と海馬台の分子層および海馬台の最深層に両側性に投射があり、MEAからの投射線維はCA1の近位部(CA3に近い側)と海馬台の遠位部(前海馬台Preに近い側)に終止し、LEAからの投射線維はCA1の遠位部と海馬台の近位部に終止する。したがって、歯状回顆粒細胞とCA3錐体細胞は一様にMEA、LEA両領域からの情報を受けるのに対し、CA1と海馬台錐体細胞は、近位部・遠位部によってMEAのみ、あるいはLEAのみの情報を受ける。他の皮質入力としては、[[wikipedia:ja:サル|サル]]では嗅周皮質や前頭葉からCA1への入力の報告もあるが、[[wikipedia:ja:ラット|ラット]]ではあまり見られない。
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 CA3への入力は、分子層に貫通線維、透明層に苔状線維、上昇層に内側中隔核からの線維、放線層と上昇層にCA3の連合線維と交連線維が終止する。乳頭体上核からの線維はCA2、CA3a の上昇層に多く終止する。樹状突起の総長と各層へ分布する部分突起長は細胞体の位置によって連続的に異なる(図5、細胞A-F)。総長は約7.5mm(CA3c:歯状回側細胞F)から18.0mm(CA3a:CA1側細胞B)である。CA2錐体細胞は分子層への樹状突起分布量が多く、嗅内野入力を最大に受容しているが、透明層を欠くから顆粒細胞からの情報を受けない(図5、細胞A)。これの対極にあるCA3cでは嗅内野入力の受容が最小で、分子層に全く突起を分布しないCA3c細胞(図5、細胞F)もある。そして、歯状回顆粒細胞からの入力はCA3cが最大に受ける。基底樹状突起長は、海馬采付着部 の細胞で最大で、CA1と歯状回の双方向へ向け漸減する。上昇層へは内側中隔核入力と同時に同側・対側のCA3錐体細胞からの投射があり、基底樹状突起長と入力の関係が一意には定まらない。放線層では、樹状突起部分長に各亜区分間の顕著な差は見られない。これらの終止の濃淡を様相を模式的に図6に示す。
 CA3への入力は、分子層に貫通線維、透明層に苔状線維、上昇層に内側中隔核からの線維、放線層と上昇層にCA3の連合線維と交連線維が終止する。乳頭体上核からの線維はCA2、CA3a の上昇層に多く終止する。樹状突起の総長と各層へ分布する部分突起長は細胞体の位置によって連続的に異なる(図5、細胞A-F)。総長は約7.5mm(CA3c:歯状回側細胞F)から18.0mm(CA3a:CA1側細胞B)である。CA2錐体細胞は分子層への樹状突起分布量が多く、嗅内野入力を最大に受容しているが、透明層を欠くから顆粒細胞からの情報を受けない(図5、細胞A)。これの対極にあるCA3cでは嗅内野入力の受容が最小で、分子層に全く突起を分布しないCA3c細胞(図5、細胞F)もある。そして、歯状回顆粒細胞からの入力はCA3cが最大に受ける。基底樹状突起長は、海馬采付着部 の細胞で最大で、CA1と歯状回の双方向へ向け漸減する。上昇層へは内側中隔核入力と同時に同側・対側のCA3錐体細胞からの投射があり、基底樹状突起長と入力の関係が一意には定まらない。放線層では、樹状突起部分長に各亜区分間の顕著な差は見られない。これらの終止の濃淡を様相を模式的に図6に示す。


 CA3 錐体細胞の出力は両側性で、[[Schaffer側枝]]によってCA1 放線層と上昇層へ投射するとともに、CA3 領域へも連合性側枝を分布する<ref name=ref10><pubmed>2358523</pubmed></ref>。 CA3cからは歯状回門へも少量の分布がある。さらに、両側性に外側中隔核に投射するが、海馬台や嗅内野には投射しない。Schaffer側枝は海馬長軸方向に5mm以上にわたり投射し(海馬の全長は約8mm)、CA3錐体細胞の細胞体の位置や投射レベルによってCA1 への終止部位が連続的・段階的に変化する(図7)。第一に、CA3cからは中隔方向へ投射が多く、軸索は主に放線層に分布して頂上樹状突起に終止する。反対に、CA3aからは側頭葉方向へ投射が多く、軸索は主に上昇層に分布し、基底樹状突起に終止する割合が多い。第二に、投射レベルが中隔側に行くほど終止部位がCA1近位部(CA3側)かつ海馬白板側に移行し、樹状突起の下方に終止するのに対し、投射レベルが側頭葉側ほどCA1遠位部(海馬台側)かつ放線層浅層へ終止する。CA3内の連合性軸索側枝は、CA3c錐体細胞ではCA3c域に限局して終止するのに対し、CA3a錐体細胞の軸索は横断面上でもCA3領域内に広く分布している。長軸方向の分布では、終止部位の頂上・基底方向への変移もCA1への投射様式と同様に見られる。
 CA3 錐体細胞の出力は両側性で、[[Schaffer側枝]]によってCA1放線層と上昇層へ投射するとともに、CA3領域へも連合性側枝を分布する<ref name=ref10><pubmed>2358523</pubmed></ref>。 CA3cからは歯状回門へも少量の分布がある。さらに、両側性に外側中隔核に投射するが、海馬台や嗅内野には投射しない。Schaffer側枝は海馬長軸方向に5mm以上にわたり投射し(海馬の全長は約8mm)、CA3錐体細胞の細胞体の位置や投射レベルによってCA1への終止部位が連続的・段階的に変化する(図7)。第一に、CA3cからは中隔方向へ投射が多く、軸索は主に放線層に分布して頂上樹状突起に終止する。反対に、CA3aからは側頭葉方向へ投射が多く、軸索は主に上昇層に分布し、基底樹状突起に終止する割合が多い。第二に、投射レベルが中隔側に行くほど終止部位がCA1近位部(CA3側)かつ海馬白板側に移行し、樹状突起の下方に終止するのに対し、投射レベルが側頭葉側ほどCA1遠位部(海馬台側)かつ放線層浅層へ終止する。CA3内の連合性軸索側枝は、CA3c錐体細胞ではCA3c域に限局して終止するのに対し、CA3a錐体細胞の軸索は横断面上でもCA3領域内に広く分布している。長軸方向の分布では、終止部位の頂上・基底方向への変移もCA1への投射様式と同様に見られる。


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