「海馬」の版間の差分

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 [[wikipedia:ja:ヒト|ヒト]]では、Bechterew (1899)、Grünthal (1947)<ref>'''Grünthal, E.'''<br>Über das klinische Bild nach umschriebenen beiderseitigem Ausfall der Ammonshornrinde.<br>''Monatsschr. Psychiat. Neurol.'', 113, 1-16, 1947</ref>、GleesとGriffith (1952)ら<ref name= Glees><pubmed>14947832</pubmed></ref>が、近時記憶に著しい障害のあった患者の脳を死後剖検し、両側の海馬や海馬傍回に器質性病変のあることを報告した。そして、ScovilleとMilner (1957)が難治性[[てんかん]]患者の治療目的で、両側[[側頭葉]]内側部([[扁桃体]]、海馬傍回、海馬前方2/3 )の切除術を行ったところ、強度の順行性記憶障害を惹起したことを報告した<ref name= Scoville><pubmed> 13406589 </pubmed></ref>。患者らは知能指数にはまったく問題がみられないが、術後の事象の記憶が全然できない。人の顔や名前は全く記憶することができず、受けた指示の内容だけでなく指示されたことも覚えていない。また術前3年までぐらいの[[逆行性健忘]]も見られた。一方、数年より以前の事象は思い出すことが可能で、以来、海馬が[[近時記憶]]と[[長期記憶]]の形成([[記銘]])の部位として注目されるようになった。
 [[wikipedia:ja:ヒト|ヒト]]では、Bechterew (1899)、Grünthal (1947)<ref>'''Grünthal, E.'''<br>Über das klinische Bild nach umschriebenen beiderseitigem Ausfall der Ammonshornrinde.<br>''Monatsschr. Psychiat. Neurol.'', 113, 1-16, 1947</ref>、GleesとGriffith (1952)ら<ref name= Glees><pubmed>14947832</pubmed></ref>が、近時記憶に著しい障害のあった患者の脳を死後剖検し、両側の海馬や海馬傍回に器質性病変のあることを報告した。そして、ScovilleとMilner (1957)が難治性[[てんかん]]患者の治療目的で、両側[[側頭葉]]内側部([[扁桃体]]、海馬傍回、海馬前方2/3 )の切除術を行ったところ、強度の順行性記憶障害を惹起したことを報告した<ref name= Scoville><pubmed> 13406589 </pubmed></ref>。患者らは知能指数にはまったく問題がみられないが、術後の事象の記憶が全然できない。人の顔や名前は全く記憶することができず、受けた指示の内容だけでなく指示されたことも覚えていない。また術前3年までぐらいの[[逆行性健忘]]も見られた。一方、数年より以前の事象は思い出すことが可能で、以来、海馬が[[近時記憶]]と[[長期記憶]]の形成([[記銘]])の部位として注目されるようになった。


 記憶機能には記銘(つくる)、[[貯蔵]](しまう)、[[想起]](とりだす)の過程があり、それぞれの記憶過程には、これを司る特異的脳部位があると考えられる。大脳皮質連合野で分析された種々の情報は、嗅周皮質と嗅内野で混合され、嗅内野から貫通線維束として海馬体に入る(図2)。海馬の中に入ってきた信号は、すでに視覚、聴覚といった感覚種(modality)が曖昧な超感覚種の信号という(Jones and Powell, 1970)。これらの情報は海馬体の内部回路により信号処理され、脳弓によって皮質下構造(視床前核、視床下部、乳頭体、中隔側坐核)へ出力されるとともに、複数の投射経路によって嗅内野へ帰還する。そして、嗅内野から大脳皮質へ信号が運ばれ、記憶として貯蔵されると考えられる。海馬の中では感覚種は識別されなくなっているようですが、特定の場所に来たときに特別に反応する細胞(場所細胞: Place cells)が見つかっている。海馬の外ですが、前海馬台には頭部の方向選択制にかかわる細胞(head-direction cells)や空間上の規則正しいスポットに来たときに特別に反応する細胞(グリッド細胞:Glid cells)などが見つかっている。
 記憶機能には記銘(つくる)、[[貯蔵]](しまう)、[[想起]](とりだす)の過程があり、それぞれの記憶過程には、これを司る特異的脳部位があると考えられる。大脳皮質連合野で分析された種々の情報は、嗅周皮質と嗅内野で混合され、嗅内野から貫通線維束として海馬体に入る(図2)。海馬の中に入ってきた信号は、すでに視覚、聴覚といった感覚種(modality)が曖昧な超感覚種の信号という(Jones and Powell, 1970)。これらの情報は海馬体の内部回路により信号処理され、脳弓によって皮質下構造(視床前核、視床下部、乳頭体、中隔側坐核)へ出力されるとともに、複数の投射経路によって嗅内野へ帰還する。そして、嗅内野から大脳皮質へ信号が運ばれ、記憶として貯蔵されると考えられる。海馬の中では感覚種は識別されなくなっているといわれるが、特定の場所に来たときに特別に反応する細胞(場所細胞: Place cells)が見つかっている。海馬の外では、前海馬台には頭部の方向選択制にかかわる細胞(head-direction cells)や空間上の規則正しいスポットに来たときに特別に反応する細胞(グリッド細胞:Glid cells)などが見つかっている。


 前述の難治性てんかんの治療で両側海馬体を除去した症例([[患者HM]]など)や一時的心停止後にCA1細胞が特異的に脱落した症例([[患者RB]])では、遠い過去の記憶の想起は可能だが、顕著な順行性健忘([[記銘障害]])が見られた。[[アルツハイマー病]]では早期に記銘障害が出現することが特徴で、まず嗅内野、海馬台、CA1に変性が見られる。他方、乳頭体変性をきたす[[コルサコフ症候群]]や[[間脳]]性の傷害では、[[順行性健忘]]に加えて逆行性健忘(想起障害)も見られる。さらに、大脳皮質の広範囲に変性が見られる[[老人性痴呆]]では、全般的な記憶の破壊が見られる。また、エピソード形成(記憶事象の順序立て)や想起には海馬—脳弓—乳頭体—乳頭体視床束 (Vicq d'Azyr束) —視床前核—帯状回—海馬と続くPapez 回路や前頭葉の関与が考えられている(Squier, 1987)。Papez (1937) は、もともとは情動発現を司る部位として視床下部を、情動経験の部位として大脳半球内側皮質(帯状回、海馬)と視床を推定し、この回路は情動に関与すると考えたが、実はこれが記憶に密接に関与する回路であることがわかってきた。
 前述の難治性てんかんの治療で両側海馬体を除去した症例([[患者HM]]など)や一時的心停止後にCA1細胞が特異的に脱落した症例([[患者RB]])では、遠い過去の記憶の想起は可能だが、顕著な順行性健忘([[記銘障害]])が見られた。[[アルツハイマー病]]では早期に記銘障害が出現することが特徴で、まず嗅内野、海馬台、CA1に変性が見られる。他方、乳頭体変性をきたす[[コルサコフ症候群]]や[[間脳]]性の傷害では、[[順行性健忘]]に加えて逆行性健忘(想起障害)も見られる。さらに、大脳皮質の広範囲に変性が見られる[[老人性痴呆]]では、全般的な記憶の破壊が見られる。また、エピソード形成(記憶事象の順序立て)や想起には海馬—脳弓—乳頭体—乳頭体視床束 (Vicq d'Azyr束) —視床前核—帯状回—海馬と続くPapez 回路や前頭葉の関与が考えられている(Squier, 1987)。Papez (1937) は、もともとは情動発現を司る部位として視床下部を、情動経験の部位として大脳半球内側皮質(帯状回、海馬)と視床を推定し、この回路は情動に関与すると考えたが、実はこれが記憶に密接に関与する回路であることがわかってきた。


 記憶の形成には神経回路の機能的強化であるシナプスの長期増強(LTP:long term potenciation) の現象が起こり、後に構造変化が起こるとされている。
 記憶の形成には神経回路の機能的強化であるシナプスの長期増強(LTP:long term potentiation) の現象が起こり、後に構造変化が起こるとされている。
 
 海馬の構造と機能についての詳細は文献<ref name=ref1>'''Amaral DG, Insausti R.'''<br>Hippocampal formation. In: Paxinos G, editor. The Human Nervous System. <br>San Diego: Academic Press. pp. 711-755. 1990.</ref> <ref name=ref2>'''Amaral DG, Witter MP.'''<br>Hippocampal formation. Paxinos G, ed. "The Rat Nervous System". <br>San Diego: Academic Press. pp. 443-493. 1995.</ref> <ref name=ref3><pubmed>8915675</pubmed></ref> <ref name=ref4>'''Gloor P'''<br>The Temporal Lobe and Limbic System. <br>Oxford University Press, New York, 1997 </ref>(英文)、文献<ref name=ref5>'''石塚典生'''<br>海馬の細胞構築と神経結合<br>神経進歩 38:5-22 (1994)</ref> <ref name=ref6>'''石塚典生'''<br>海馬の構造と線維連絡<br>脳と神経 50:881-892 (1998)</ref> <ref name=ref7>'''石塚典生'''<br>記憶のしくみ 解剖学的面から<br>CLINICAL NEUROSCIENCE 16:130-134 (1998)</ref> <ref name=ref8>'''石塚典生'''<br>大脳辺縁系の神経結合と細胞構築<br>神経進歩 50:7-17 (2006)</ref> <ref name=ref9>'''石塚典生'''<br>海馬領域における縦走性線維投射<br>BRAIN and NERVE 60:737-745 (2008)</ref>(和文)、池谷による[http://gaya.jp/research/index.htm Website]を参照。


 海馬の構造と機能についての詳細は文献<ref name=ref1>'''Amaral DG, Insausti R.'''<br>Hippocampal formation. In: Paxinos G, editor. The Human Nervous System. <br>San Diego: Academic Press. pp. 711-755. 1990.</ref> <ref name=ref2>'''Amaral DG, Witter MP.'''<br>Hippocampal formation. Paxinos G, ed. "The Rat Nervous System". <br>San Diego: Academic Press. pp. 443-493. 1995.</ref> <ref name=ref3><pubmed>8915675</pubmed></ref> <ref name=ref4>'''Gloor P'''<br>The Temporal Lobe and Limbic System. <br>Oxford University Press, New York, 1997 </ref>(英文)、文献<ref name=ref5>'''石塚典生'''<br>海馬の細胞構築と神経結合<br>神経進歩 38:5-22 (1994)</ref> <ref name=ref6>'''石塚典生'''<br>海馬の構造と線維連絡<br>脳と神経 50:881-892 (1998)</ref> <ref name=ref7>'''石塚典生'''<br>記憶のしくみ 解剖学的面から<br>CLINICAL NEUROSCIENCE 16:130-134 (1998)</ref> <ref name=ref8>'''石塚典生'''<br>大脳辺縁系の神経結合と細胞構築<br>神経進歩 50:7-17 (2006)</ref> <ref name=ref9>'''石塚典生'''<br>海馬領域における縦走性線維投射<br>BRAIN and NERVE 60:737-745 (2008)</ref>(和文)、池谷によるwebsite [http://gaya.jp/research/index.htm “海馬”を究める]、東京都神経科学総合研究所website [http://tmin.igakuken.or.jp/medical/08/memory1.html 東京都神経科学総合研究所]を参照。


== 海馬体の神経結合 ==
== 海馬体の神経結合 ==
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 海馬体への入力路としては、1)嗅内野からの貫通線維束(図3)、2)[[内側中隔核]]、[[乳頭体上核]]、[[青斑核]]、[[縫線核]]から上行してくる脳弓、および3)反対側CA3と歯状回門からの[[交連線維]]が通る[[腹側海馬交連]]がある。貫通線維束は大脳皮質から記憶の元となる情報を運び、交連線維は海馬内情報処理回路の一部を担い、上行性入力は海馬体内部回路の活動を修飾する。皮質性の貫通線維束とCA3線維は[[グルタミン酸]]、内側中隔核線維は[[アセチルコリン]]と [[GABA]]、乳頭体上核線維は[[ドーパミン]]、青斑核線維は[[アドレナリン]]、縫線核線維は[[セロトニン]]、そして、反対側の歯状回[[多形細胞]]からの線維はGABAを伝達物質としている。
 海馬体への入力路としては、1)嗅内野からの貫通線維束(図3)、2)[[内側中隔核]]、[[乳頭体上核]]、[[青斑核]]、[[縫線核]]から上行してくる脳弓、および3)反対側CA3と歯状回門からの[[交連線維]]が通る[[腹側海馬交連]]がある。貫通線維束は大脳皮質から記憶の元となる情報を運び、交連線維は海馬内情報処理回路の一部を担い、上行性入力は海馬体内部回路の活動を修飾する。皮質性の貫通線維束とCA3線維は[[グルタミン酸]]、内側中隔核線維は[[アセチルコリン]]と [[GABA]]、乳頭体上核線維は[[ドーパミン]]、青斑核線維は[[アドレナリン]]、縫線核線維は[[セロトニン]]、そして、反対側の歯状回[[多形細胞]]からの線維はGABAを伝達物質としている。


 貫通線維束は海馬台[[錐体細胞]]層を貫いて分子層へ出て、海馬台(SUB)、アンモン角、歯状回(DG)の分子層に同時に投射する。内側嗅内野(MEA)へ白インゲン豆レクチンを注入し、取り込んだ細胞から海馬体各領域への[[軸索]]投射および終末分布を可視化した像を図3に示す。嗅内野II層からは歯状回とCA3 へ投射し、外側嗅内野(LEA)からの線維が分子層の表層部分に、内側嗅内野(MEA)からの線維がより深い部分に分布する。III 層からはCA1 と海馬台の分子層および海馬台の最深層に両側性に投射があり、MEAからの投射線維はCA1の近位部(CA3に近い側)と海馬台の遠位部(前海馬台Preに近い側)に終止し、LEAからの投射線維はCA1の遠位部と海馬台の近位部に終止する。したがって、歯状回顆粒細胞とCA3錐体細胞は一様にMEA、LEA両領域からの情報を受けるのに対し、CA1と海馬台錐体細胞は、近位部・遠位部によってMEAのみ、あるいはLEAのみの情報を受ける。他の皮質入力としては、[[wikipedia:ja:サル|サル]]では嗅周皮質や前頭葉からCA1への入力の報告もあるが、[[wikipedia:ja:ラット|ラット]]ではあまり見られない。
 貫通線維束は海馬台[[錐体細胞]]層を貫いて分子層へ出て、海馬台(SUB)、アンモン角、歯状回(DG)の分子層に同時に投射する。内側嗅内野(MEA)へ白インゲン豆レクチン(PHA-L)を注入し、取り込んだ細胞から海馬体各領域への[[軸索]]投射および終末分布を可視化した像を図3に示す。嗅内野II層からは歯状回とCA3 へ投射し、外側嗅内野(LEA)からの線維が分子層の表層部分に、内側嗅内野(MEA)からの線維がより深い部分に分布する。III 層からはCA1 と海馬台の分子層および海馬台の最深層に両側性に投射があり、MEAからの投射線維はCA1の近位部(CA3に近い側)と海馬台の遠位部(前海馬台Preに近い側)に終止し、LEAからの投射線維はCA1の遠位部と海馬台の近位部に終止する。したがって、歯状回顆粒細胞とCA3錐体細胞は一様にMEA、LEA両領域からの情報を受けるのに対し、CA1と海馬台錐体細胞は、近位部・遠位部によってMEAのみ、あるいはLEAのみの情報を受ける。他の皮質入力としては、[[wikipedia:ja:サル|サル]]では嗅周皮質や前頭葉からCA1への入力の報告もあるが、[[wikipedia:ja:ラット|ラット]]ではあまり見られない。


=== 海馬体の内部回路===  
=== 海馬体の内部回路===  
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==外部リンク==
==外部リンク==
*池谷による[http://gaya.jp/research/index.htm 海馬を究める]
*池谷による [http://gaya.jp/research/index.htm 海馬を究める]
*東京都神経科学総合研究所 [http://tmin.igakuken.or.jp/medical/08/memory1.html 東京都神経科学総合研究所]


== 参考文献 ==
== 参考文献 ==