「記憶固定化」の版間の差分

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<font size="+1">[http://researchmap.jp/ohkawa_noriaki 大川 宜昭]、[http://researchmap.jp/nomoto/ 野本 真順]、[http://researchmap.jp/kaoruinokuchi 井ノ口 馨]</font><br>
<font size="+1">[http://researchmap.jp/ohkawa_noriaki 大川 宜昭]、[http://researchmap.jp/nomoto/ 野本 真順]、[http://researchmap.jp/kaoruinokuchi 井ノ口 馨]</font><br>
''富山大学大学院医学薬学研究部(医学)生化学講座''<br>
''富山大学大学院医学薬学研究部(医学)生化学講座''<br>
DOI:<selfdoi /> 原稿受付日:2017年4月13日 原稿完成日:2017年月日<br>
DOI:<selfdoi /> 原稿受付日:2017年4月13日 原稿完成日:2017年5月3日<br>
担当編集委員:[http://researchmap.jp/read0048432 定藤 規弘](自然科学研究機構生理学研究所 [[大脳皮質]]機能研究系)<br>
担当編集委員:[http://researchmap.jp/read0048432 定藤 規弘](自然科学研究機構生理学研究所 [[大脳皮質]]機能研究系)<br>
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== 短期記憶から長期記憶へ ==
== 短期記憶から長期記憶へ ==
[[ファイル:Ohkawa Fig1.png|350px|サムネイル|'''図1:長期記憶の形成過程'''<br>記憶は、学習時に一部の細胞が活性化し、細胞内の分子機構のスイッチがオンになることで遺伝子発現やタンパク質合成を誘導することで短期記憶から長期記憶へと質を変える(固定化)。長期記憶は、想起にともない不安定化と再固定化を経ることで強化されると考えられている。また、長期間のCS暴露は、恐怖記憶の減弱化を誘導する(消去学習)。]]
[[ファイル:Ohkawa Fig2.png|250px|サムネイル|'''図2:記憶の固定化'''<br>文脈性恐怖条件付けでは、電線グリッドのある箱に入れられた状況や箱という空間を含む情報(文脈)がCS、電気ショックがUSとして使用され、これらが連合し恐怖記憶を形成する[46]。条件付けされたマウスやラットは、条件付け後に再度CSに曝されると再度電気ショックが来ることを恐れ身動きしなくなる“フリージング反応(すくみ行動)”を示す。このフリージングの割合を定量化したものが記憶の評価の指標として使用されている。トレーニング時のタンパク質合成阻害剤の投与は、動物のトレーニング1時間後までの短期記憶には影響を与えないが、24時間後の長期記憶形成を阻害する。これは、記憶の固定化にタンパク質合成が必要であることを示している(<ref name=ref4 />抜粋改変)。]]
 [[記憶]]は、その保持される時間によって2つの形態に分けることができる。学習成立後から数時間ほど続く[[短期記憶]]と、1日から場合によっては生涯保持される[[長期記憶]]である。
 [[記憶]]は、その保持される時間によって2つの形態に分けることができる。学習成立後から数時間ほど続く[[短期記憶]]と、1日から場合によっては生涯保持される[[長期記憶]]である。


 1900年、[[wj:ゲオルク・エリアス・ミュラー|Müller]]とPilzeckerは、安定した記憶の形成が最初の学習直後の新しい経験によって阻害されると報告した<ref name=ref1>'''Müller GE, Pilzecker A'''<br>Experimentelle Beiträge zur Lehre vom Gedächtnis [Experimental contributions to the science of memory]<br>''Z. Psychol. Physiol. Sinnesorg.'' 1900, Ergänzungsband 1:1-300.</ref>。これは、短期記憶は他の情報入力によって維持が妨害されてしまう不安定な状態にあることを意味している。長期記憶は不安定な状態から移相した安定化したものであると考えられることから、短期記憶から長期記憶への位相過程を、“記憶の固定化”と呼ぶ(図1)。
 1900年、[[wj:ゲオルク・エリアス・ミュラー|Müller]]とPilzeckerは、安定した記憶の形成が最初の学習直後の新しい経験によって阻害されると報告した<ref name=ref1>'''Müller GE, Pilzecker A'''<br>Experimentelle Beiträge zur Lehre vom Gedächtnis [Experimental contributions to the science of memory]<br>''Z. Psychol. Physiol. Sinnesorg.'' 1900, Ergänzungsband 1:1-300.</ref>。これは、短期記憶は他の情報入力によって維持が妨害されてしまう不安定な状態にあることを意味している。長期記憶は不安定な状態から移相した安定化したものであると考えられることから、短期記憶から長期記憶への位相過程を、“記憶の固定化”と呼ぶ('''図1''')。


 短期記憶の形成には、脳の神経細胞内の既存のタンパク質、特に神経伝達に関与する神経伝達物質の[[イオンチャネル型受容体型]]や[[情報伝達]]に関わる酵素群の修飾とそれにともなう“一過的な”活性の変化が重要であることが示されている<ref name=ref2><pubmed>22036561</pubmed></ref> 。一方、短期から長期記憶への固定化には、学習後に脳内で誘導される新規の遺伝子発現とそれに引き続き起こるタンパク質合成が必要となる<ref name=ref3><pubmed>10634773</pubmed></ref> 。
 短期記憶の形成には、脳の神経細胞内の既存のタンパク質、特に神経伝達に関与する神経伝達物質の[[イオンチャネル型受容体型]]や[[情報伝達]]に関わる酵素群の修飾とそれにともなう“一過的な”活性の変化が重要であることが示されている<ref name=ref2><pubmed>22036561</pubmed></ref> 。一方、短期から長期記憶への固定化には、学習後に脳内で誘導される新規の遺伝子発現とそれに引き続き起こるタンパク質合成が必要となる<ref name=ref3><pubmed>10634773</pubmed></ref> 。
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=== 長期増強(LTP)の誘導 ===
=== 長期増強(LTP)の誘導 ===
[[ファイル:Ohkawa Fig3.png|350px|サムネイル|'''図3: シナプスタグ現象の説明'''<br>急性海馬スライスを用いた2経路実験の概要とシナプスタグの説明。CA1の独立した2つのシェーファー側枝(経路1および経路2)を刺激した場合、両者の入力は「異なる神経細胞の異なるシナプス」を刺激する場合もあれば、「同一の神経細胞の異なるシナプス」を刺激する場合もある。同一神経細胞の異なるシナプスに短い時間間隔でE-LTPとL-LTPがそれぞれ誘導された場合、E-LTPがL-LTPへと変換(固定化)される。]]
 神経細胞間の伝達を行う[[シナプス]]の構造や機能が変化することで特定神経回路で長期増強が誘導され、長期記憶の回路ができると考えられる('''図3''')。
 神経細胞間の伝達を行う[[シナプス]]の構造や機能が変化することで特定神経回路で長期増強が誘導され、長期記憶の回路ができると考えられる('''図3''')。


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== 記憶の固定化・再固定化・強化 ==
== 記憶の固定化・再固定化・強化 ==
[[ファイル:Ohkawa Fig1.png|サムネイル|'''図1:長期記憶の形成過程'''<br>記憶は、学習時に一部の細胞が活性化し、細胞内の分子機構のスイッチがオンになることで遺伝子発現やタンパク質合成を誘導することで短期記憶から長期記憶へと質を変える(固定化)。長期記憶は、想起にともない不安定化と再固定化を経ることで強化されると考えられている。また、長期間のCS暴露は、恐怖記憶の減弱化を誘導する(消去学習)。]]
 2000年にNaderらによって、固定化された記憶を想起した際に、脳にタンパク質合成阻害剤を注入すると記憶が壊れて消えることが報告され<ref name=ref25><pubmed>10963596</pubmed></ref> 、固定化された記憶は思い出すと(想起すると)、一旦不安定になり、その後再びタンパク質合成依存的な「[[再固定化]]」という過程を通して再度安定的に脳内に定着するという概念が提唱された('''図1''')。
 2000年にNaderらによって、固定化された記憶を想起した際に、脳にタンパク質合成阻害剤を注入すると記憶が壊れて消えることが報告され<ref name=ref25><pubmed>10963596</pubmed></ref> 、固定化された記憶は思い出すと(想起すると)、一旦不安定になり、その後再びタンパク質合成依存的な「[[再固定化]]」という過程を通して再度安定的に脳内に定着するという概念が提唱された('''図1''')。


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 一つは、一旦不安定になることで、既存の記憶が新たに獲得した経験と相互作用できるようになり記憶が“修飾(アップデート)”される可能性である。
 一つは、一旦不安定になることで、既存の記憶が新たに獲得した経験と相互作用できるようになり記憶が“修飾(アップデート)”される可能性である。


 もう一つは、想起によって記憶が“強化”される可能性で、実際に、'''受動的回避学習'''の実験で、想起された記憶が強化されると報告されている<ref name=ref26><pubmed>24963141</pubmed></ref> 。
 もう一つは、想起によって記憶が“強化”される可能性で、実際に、[[受動的回避学習]]の実験で、想起された記憶が強化されると報告されている<ref name=ref26><pubmed>24963141</pubmed></ref> 。


 記憶の固定化と再固定化は、ともにタンパク質の合成を必要とする点で共通の分子機構が想像される。しかし、恐怖条件付けの場合、BDNFは固定化に必要で再固定化に必要ではない。一方、転写因子[[zif268]]は、再固定化に必要で固定化に必要ではないというように、実際には同じ分子機構ではないことが示唆されている('''図1''')<ref name=ref27><pubmed>23197404</pubmed></ref> 。
 記憶の固定化と再固定化は、ともにタンパク質の合成を必要とする点で共通の分子機構が想像される。しかし、恐怖条件付けの場合、BDNFは固定化に必要で再固定化に必要ではない。一方、転写因子[[zif268]]は、再固定化に必要で固定化に必要ではないというように、実際には同じ分子機構ではないことが示唆されている('''図1''')<ref name=ref27><pubmed>23197404</pubmed></ref> 。
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 些細な出来事と鮮烈な出来事が短い間隔で生じた場合、本来忘却される些細な経験(短期記憶)が長期記憶へと固定化されることがある<ref name=ref36><pubmed>23840541</pubmed></ref><ref name=ref37><pubmed>9020352</pubmed></ref><ref name=ref38><pubmed>25607357</pubmed></ref> 。これは「[[行動タグ]]」と呼ばれ、動物に備わる記憶固定化の変法である。行動タグは「[[シナプスタグ]]」機構を行動レベルで模倣する現象として発見された。
 些細な出来事と鮮烈な出来事が短い間隔で生じた場合、本来忘却される些細な経験(短期記憶)が長期記憶へと固定化されることがある<ref name=ref36><pubmed>23840541</pubmed></ref><ref name=ref37><pubmed>9020352</pubmed></ref><ref name=ref38><pubmed>25607357</pubmed></ref> 。これは「[[行動タグ]]」と呼ばれ、動物に備わる記憶固定化の変法である。行動タグは「[[シナプスタグ]]」機構を行動レベルで模倣する現象として発見された。
=== シナプスタグ ===
=== シナプスタグ ===
[[ファイル:Ohkawa Fig3.png|サムネイル|'''図3: シナプスタグ現象の説明'''<br>急性海馬スライスを用いた2経路実験の概要とシナプスタグの説明。CA1の独立した2つのシェーファー側枝(経路1および経路2)を刺激した場合、両者の入力は「異なる神経細胞の異なるシナプス」を刺激する場合もあれば、「同一の神経細胞の異なるシナプス」を刺激する場合もある。同一神経細胞の異なるシナプスに短い時間間隔でE-LTPとL-LTPがそれぞれ誘導された場合、E-LTPがL-LTPへと変換(固定化)される。]]
 
 1997年、Freyと[[w:Richard G. Morris|Morris]]は[[急性海馬スライス]]を用いて、[[CA1]]の独立した2つの[[Schaffer側枝]]を刺激する[[2経路実験]](two-pathway protocol)によって、独立した2つの入力が同じ神経細胞の異なるシナプスに収束した場合の各経路に誘導されたLTPに対する効果を検討した <ref name=ref37 /><ref name=ref39><pubmed> 9020359 </pubmed></ref> 。
 1997年、Freyと[[w:Richard G. Morris|Morris]]は[[急性海馬スライス]]を用いて、[[CA1]]の独立した2つの[[Schaffer側枝]]を刺激する[[2経路実験]](two-pathway protocol)によって、独立した2つの入力が同じ神経細胞の異なるシナプスに収束した場合の各経路に誘導されたLTPに対する効果を検討した <ref name=ref37 /><ref name=ref39><pubmed> 9020359 </pubmed></ref> 。


 彼らは、弱いテタヌス刺激によって誘導され数時間で減退する[[early-phase LTP]] ([[E-LTP]])は、異なる経路から同じ神経細胞集団に短い時間間隔(1時間以内)で[[late-phase LTP]] ([[L-LTP]])を誘導する強い入力が入ることで、新規タンパク質合成依存的に数時間から一日以上持続するL-LTPに固定化されることを示した。この結果から、弱いテタヌス刺激によって、タグがセッティングされたシナプスは、時間限定的かつ新規タンパク質合成依存的な神経可塑性関連遺伝子群(plasticity-related proteins; PRPs)のリクルート(ハイジャック)を経て安定化するという「シナプスタグ仮説」が提唱された('''図3''')。シナプスタグ機構は、L-LTPの入力特異性を保証すると共に、記憶を正確に脳内に保存する仕組みであると考えられる<ref name=ref40><pubmed>19443779</pubmed></ref> <ref name=ref41><pubmed>'''Okada D, Inokuchi K'''<br>Activity-Dependent Protein Transport as a Synaptic Tag.<br>In ''Synaptic Tagging and Capture From Synapses to Behavior''
 彼らは、弱いテタヌス刺激によって誘導され数時間で減退する[[early-phase LTP]] ([[E-LTP]])は、異なる経路から同じ神経細胞集団に短い時間間隔(1時間以内)で[[late-phase LTP]] ([[L-LTP]])を誘導する強い入力が入ることで、新規タンパク質合成依存的に数時間から一日以上持続するL-LTPに固定化されることを示した。この結果から、弱いテタヌス刺激によって、タグがセッティングされたシナプスは、時間限定的かつ新規タンパク質合成依存的な神経可塑性関連遺伝子群(plasticity-related proteins; PRPs)のリクルート(ハイジャック)を経て安定化するという「シナプスタグ仮説」が提唱された('''図3''')。シナプスタグ機構は、L-LTPの入力特異性を保証すると共に、記憶を正確に脳内に保存する仕組みであると考えられる<ref name=ref40><pubmed>19443779</pubmed></ref> <ref name=ref41>'''Okada D, Inokuchi K'''<br>Activity-Dependent Protein Transport as a Synaptic Tag.<br>In ''Synaptic Tagging and Capture From Synapses to Behavior''
Edited by Sajikumar, Sreedharan: Springer; 2015:79-98.</pubmed></ref>。
Edited by Sajikumar, Sreedharan: Springer; 2015:79-98.</ref>。


=== 行動タグ ===
=== 行動タグ ===
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==参考文献==
==参考文献==
<references />
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[[ファイル:Ohkawa Fig2.png|サムネイル|'''図2:記憶の固定化'''<br>文脈性恐怖条件付けでは、電線グリッドのある箱に入れられた状況や箱という空間を含む情報(文脈)がCS、電気ショックがUSとして使用され、これらが連合し恐怖記憶を形成する[46]。条件付けされたマウスやラットは、条件付け後に再度CSに曝されると再度電気ショックが来ることを恐れ身動きしなくなる“フリージング反応(すくみ行動)”を示す。このフリージングの割合を定量化したものが記憶の評価の指標として使用されている。トレーニング時のタンパク質合成阻害剤の投与は、動物のトレーニング1時間後までの短期記憶には影響を与えないが、24時間後の長期記憶形成を阻害する。これは、記憶の固定化にタンパク質合成が必要であることを示している(Cell 88: 615-626, 1997より抜粋改変)[4]。]]

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