「記憶痕跡」の版間の差分

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<font size="+1">鈴木章円、[http://researchmap.jp/ohkawa_noriaki 大川 宜昭]、[http://researchmap.jp/kaoruinokuchi 井ノ口 馨]</font><br>
<font size="+1">鈴木章円、[http://researchmap.jp/ohkawa_noriaki 大川 宜昭]、[http://researchmap.jp/nomoto 野本 真順]、[http://researchmap.jp/kaoruinokuchi 井ノ口 馨]</font><br>
''富山大学 大学院医学薬学研究部''<br>
''富山大学 大学院医学薬学研究部''<br>
DOI XXXX/XXXX 原稿受付日:2013年4月24日 原稿完成日:2013年月日<br>
DOI XXXX/XXXX 原稿受付日:2013年4月24日 原稿完成日:2014年月日<br>
担当編集委員:[http://researchmap.jp/haruokasai 河西 春郎](東京大学 大学院医学系研究科)<br>
担当編集委員:[http://researchmap.jp/haruokasai 河西 春郎](東京大学 大学院医学系研究科)<br>
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[[image:記憶痕跡1.jpg|thumb|350px|'''図1.セルアセンブリ仮説に基づく記憶痕跡の概要'''<br>A、長期増強(LTP)。経験に応じてニューロン間の伝達効率が変化すること(シナプス間のLTP等の現象)が細胞レベルでの学習・記憶の基礎過程であると考えられている。<br>B、記憶がセルアセンブリとして符号化されて脳内に蓄えられる様子を表す。学習時に活動したニューロン(オレンジ)の間のシナプスではLTPが起こり、ニューロン活動が収まった通常時でも伝達効率が増強されている。そのため、なんらかのきっかけでこれらのニューロンの一部が活動すると、強いシナプス伝達で連絡されたニューロンセット(オレンジ)が同時に活動する。これが、記憶の想起である。]]
[[image:記憶痕跡1.jpg|thumb|350px|'''図1.セルアセンブリ仮説に基づく記憶痕跡の概要'''<br>記憶がセルアセンブリとして符号化されて脳内に蓄えられる様子を表す。学習時に活動したニューロン(オレンジ)の間のシナプスではLTPが起こり、ニューロン活動が収まった通常時でも伝達効率が増強されている。そのため、なんらかのきっかけでこれらのニューロンの一部が活動すると、強いシナプス伝達で連絡されたニューロンセット(オレンジ)が同時に活動する。これが、記憶の想起である。]]


[[image:記憶痕跡2.jpg|thumb|350px|'''図2.Lashleyにより示された大脳皮質を除去した割合と迷路達成率の相関図'''<br>大脳皮質を除去した割合が高いほど迷路を抜け出す困難さが増加する。文献2より引用・改変。]]
[[image:記憶痕跡2.jpg|thumb|350px|'''図2.Lashleyにより示された大脳皮質を除去した割合と迷路達成率の相関図'''<br>大脳皮質を除去した割合が高いほど迷路を抜け出す困難さが増加する。文献2より引用・改変。]]


[[image:記憶痕跡3.jpg|thumb|350px|'''図3.記憶痕跡の実体を探るための実験系'''<br>A、TetTagマウスはc-fosプロモーター制御下でtTA(テトラサイクリン制御性トランス活性化因子)を発現するトランスジーンとTetO(テトラサイクリン依存性オペレーター)制御下で、tTA*(ドキシサイクリン非感受性tTA)とレポーター遺伝子であるTau-LacZを発現するトランスジーンを持つダブルトランスジェニックマウスである。
[[image:記憶痕跡3.jpg|thumb|350px|'''図3.記憶痕跡の実体を探るための実験系'''<br>A、TetTagマウスはc-fosプロモーター制御下でtTA(テトラサイクリン制御性トランス活性化因子)を発現するトランスジーンとTetO(テトラサイクリン依存性オペレーター)制御下で、tTA*(ドキシサイクリン非感受性tTA)とレポーター遺伝子であるTau-LacZを発現するトランスジーンを持つダブルトランスジェニックマウスである。tTAはドキシサイクリン存在下ではTetO(テトラサイクリン応答配列)に結合することができない。しかし、ドキシサイクリン非存在下ではtTAはTetOに結合し、tTA*とtau-LacZの発現誘導が可能となる。また、tTA*はドキシサイクリン非感受性であるため、一度発現されればtTA*とtau-LacZを恒常的に発現させることができ、刺激に応答して活性化されたニューロンをtau-LacZの発現を指標に可視化することが可能である。<br>
tTAはドキシサイクリン存在下ではTetO(テトラサイクリン応答配列)に結合することができない。しかし、ドキシサイクリン非存在下ではtTAはTetOに結合し、tTA*とtau-LacZの発現誘導が可能となる。また、tTA*はドキシサイクリン非感受性であるため、一度発現されればtTA*とtau-LacZを恒常的に発現させることができ、刺激に応答して活性化されたニューロンをtau-LacZの発現を指標に可視化することが可能である。<br>
B、Cre recombinase活性依存的にDTR(ジフテリア毒素受容体)を発現するiDTRマウスはHSVによりCREB-cre vectorを注入するとloxPで挟まれたSTOP配列が抜き出されCREBを過剰発現したニューロンでDTRを発現する。そしてDT(ジフテリア毒素)を投与することで細胞死が誘導され、CREBを過剰発現したニューロン群の選択的除去が可能となる。<br>  
B、Cre recombinase活性依存的にDTR(ジフテリア毒素受容体)を発現するiDTRマウスはHSVによりCREB-cre vectorを注入するとloxPで挟まれたSTOP配列が抜き出されCREBを過剰発現したニューロンでDTRを発現する。そしてDT(ジフテリア毒素)を投与することで細胞死が誘導され、CREBを過剰発現したニューロン群の選択的除去が可能となる。<br>  
C、HSVによりCREBとAlstR(アラトスタチン受容体)を扁桃体に注入し、両者をニューロンに発現させる。その後、AL(アラトスタチン)投与により、CREB過剰発現ニューロン群を特異的に不活性化させることが可能となる。CMV, CMVプロモーター;IE4/5, CIE4/5プロモーター。
C、HSVによりCREBとAlstR(アラトスタチン受容体)を扁桃体に注入し、両者をニューロンに発現させる。その後、AL(アラトスタチン)投与により、CREB過剰発現ニューロン群を特異的に不活性化させることが可能となる。CMV, CMVプロモーター;IE4/5, CIE4/5プロモーター。]]
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[[image:記憶痕跡4.jpg|thumb|350px|'''図4.記憶痕跡の物理的存在を示した実験法'''<br>c-fosプロモーター活性依存的にチャネルロドプシンを発現するトランスジェニックマウス(cFos-pro-tTA x TRE ChR2-YFPマウス)にtrainingとして電気ショック(稲妻印)を与え、恐怖記憶を形成させた。学習時に活性化されたニューロンでチャネルロドプシンを発現する。その後、マウスをまったく別の環境に暴露し、海馬歯状回(DG)への光照射(最上段右の図)により学習時に活性化されたニューロン群を再活性化状態にすると、マウスが恐怖を感じた時に示すフリージングを引き起こさせることに成功した(Test)。下段の図は、training, test時におけるDGニューロンの状態を表す。用いたマウスのトランスジーンの構造を最下段に示した。黄色はチャネルロドプシンを発現するニューロン、青色は光刺激により活性化されたニューロンを示す。
[[image:記憶痕跡4.jpg|thumb|350px|'''図4.記憶痕跡の物理的存在を示した実験法'''<br>c-fosプロモーター活性依存的にチャネルロドプシンを発現するトランスジェニックマウス(cFos-pro-tTA x TRE ChR2-YFPマウス)にtrainingとして電気ショック(稲妻印)を与え、恐怖記憶を形成させた。学習時に活性化されたニューロンでチャネルロドプシンを発現する。その後、マウスをまったく別の環境に暴露し、海馬歯状回(DG)への光照射(最上段右の図)により学習時に活性化されたニューロン群を再活性化状態にすると、マウスが恐怖を感じた時に示すフリージングを引き起こさせることに成功した(Test)。下段の図は、training, test時におけるDGニューロンの状態を表す。用いたマウスのトランスジーンの構造を最下段に示した。黄色はチャネルロドプシンを発現するニューロン、青色は光刺激により活性化されたニューロンを示す。]]
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[[image:記憶痕跡5.jpg|thumb|350px|'''図5.長期増強(LTP)'''<br>経験に応じてニューロン間の伝達効率が変化すること(シナプス間のLTP等の現象)が細胞レベルでの学習・記憶の基礎過程であると考えられている。]]


英語名:memory engram 独:Gedächtnis Engramm 仏:mémoire Engramme
英語名:memory engram 独:Gedächtnis Engramm 仏:mémoire Engramme
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同義語:エングラム (engram)
同義語:エングラム (engram)


(抄録をお願いいたします)
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 記憶痕跡とは、学習時に活動した特定のニューロン集団([[セルアンサンブル]])という形で脳内に残った物理的な痕跡のことである。学習時に同期活動をしたニューロン同士は強いシナプス結合で結ばれるため(シナプス可塑性)、何らかのきっかけで一部のニューロンが活動すると、このニューロン集団全体が活動し、その結果として記憶が想起される。シナプス可塑性は、シナプスレベルの記憶痕跡と言うこともできる。
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==記憶痕跡とは==
==記憶痕跡とは==
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==シナプス可塑性と記憶痕跡==
==シナプス可塑性と記憶痕跡==
 外界から情報(刺激)を得たときに、脳内ではさまざまな組み合わせのニューロンの間で回路(circuit)が形成される。このような情報獲得時の機能的な回路形成は、外界からの情報を得た際に活動したニューロン間の[[シナプス伝達]]効率の上昇により起こると考えられている。ニューロン間の信号の受け渡しの場のシナプスにおいて観察される経験依存的な伝達効率の上昇現象である[[長期増強]]([[long-term potentiation]], [[LTP]],図1A)は、[[シナプス可塑性]]の代表例であるが、その誘導と保持の過程の機構が記憶の形成と保持の機構と類似する。また、LTPに異常を示す変異マウスにおいて、記憶の獲得や保持に異常が認められ、さらに、記憶形成時に実際にLTPが観察されたことから、LTPは記憶のシナプスレベルでの素過程であると考えられている。このようにしてシナプス伝達が増強したニューロンセットが活動することにより記憶の想起が行われる(図1B)。すなわち、外界から得られた情報が、場所や経験などから想起することができる「記憶の痕跡」として脳に残されていることを意味している。
 外界から情報(刺激)を得たときに、脳内ではさまざまな組み合わせのニューロンの間で回路(circuit)が形成される。このような情報獲得時の機能的な回路形成は、外界からの情報を得た際に活動したニューロン間の[[シナプス伝達]]効率の上昇により起こると考えられている。ニューロン間の信号の受け渡しの場のシナプスにおいて観察される経験依存的な伝達効率の上昇現象である[[長期増強]]([[long-term potentiation]], [[LTP]],図1A)は、[[シナプス可塑性]]の代表例であるが、その誘導と保持の過程の機構が記憶の形成と保持の機構と類似する。また、LTPに異常を示す変異マウスにおいて、記憶の獲得や保持に異常が認められ、さらに、記憶形成時に実際にLTPが観察されたことから、LTPは記憶のシナプスレベルでの素過程であると考えられている。このようにしてシナプス伝達が増強したニューロンセットが活動することにより記憶の想起が行われる(図1B)。すなわち、外界から得られた情報が、場所や経験などから想起することができる「記憶の痕跡」として脳に残されていることを意味している。


==記憶痕跡を巡る議論==
==記憶痕跡を巡る議論==