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 1960年以降、[[認知心理学]](cognitive psychology)の登場により、脳をある種の情報処理装置としてモデル化し、外からは直接観測できないような注意・感情・記憶などの精神現象をも研究対象とし、どのような内部プロセスがこれらを支えられているかが研究されるようになった。しかし、その後も数十年の間、意識を科学的に研究する動きは出てこなかった。
 1960年以降、[[認知心理学]](cognitive psychology)の登場により、脳をある種の情報処理装置としてモデル化し、外からは直接観測できないような注意・感情・記憶などの精神現象をも研究対象とし、どのような内部プロセスがこれらを支えられているかが研究されるようになった。しかし、その後も数十年の間、意識を科学的に研究する動きは出てこなかった。


 1980年代後半の脳イメージング技術の発達が契機となって、1990年序盤には、著名な脳科学者が意識研究に積極的に参加するようになった。現在でも続く二つの大きな国際意識研究学会、[http://www.consciousness.arizona.edu/ Toward a Science of Consciousness(2016年以降はThe science of Consciousness)]および[http://www.theassc.org/ Association for Scientific Study of Consciousness (ASSC)]は、この頃に創設された 。意識研究の代表的な専門誌[http://www.imprint.co.uk/product/journal-of-consciousness-studies/ Journal of Consciousness Studies]と[http://www.journals.elsevier.com/consciousness-and-cognition/ Consciousness and Cognition]が創刊したのも同時期である<ref group="注"> 近年、新たに[http://nc.oxfordjournals.org/ Neuroscience of Consciousness]が創始された。</ref>。
 1980年代後半の脳イメージング技術の発達が契機となって、1990年序盤には、著名な脳科学者が意識研究に積極的に参加するようになった。現在でも続く二つの大きな国際意識研究学会、[http://www.consciousness.arizona.edu/ Toward a Science of Consciousness(2016年以降はThe science of Consciousness)]および[http://www.theassc.org/ Association for Scientific Study of Consciousness (ASSC)]は、この頃に創設された 。意識研究の代表的な専門誌[http://www.imprint.co.uk/product/journal-of-consciousness-studies/ Journal of Consciousness Studies]と[http://www.journals.elsevier.com/consciousness-and-cognition/ Consciousness and Cognition]が創刊したのも同時期である{{refn|近年、新たに[http://nc.oxfordjournals.org/ Neuroscience of Consciousness]が創始された。|group="註"}}


 脳科学による意識研究の成立にインパクトが大きかったのは、1990年代に[[wj:フランシス・クリック|クリック]]と[[wj:クリストフ・コッホ|コッホ]]によって提唱された意識研究の枠組みである<ref name=ref35>'''Koch, C.'''<br>The Quest for Consciousness: A Neurobiological Approach 2004<br>(土谷尚嗣 & 金井良太、意識の探求(上/下)岩波書店)<br>CO: ''Roberts and Publishers''.</ref>。この枠組みでは、特に[[ヒト]]と[[サル]]の[[視覚]]系に注目して、特定の[[視覚意識]]を生み出すのに十分な最小限の[[神経細胞]]集団、いわゆる「意識の神経相関(the neural correlates of consciousness; NCC)」を同定することが大きな目的とされた。この目的のもとに、数多くの実証的脳科学意識研究が生み出された(NCC研究については[[意識#意識の神経相関|意識の神経相関]]を参照)。これらの研究は、多くの脳科学者に意識が具体的な研究対象となることを確信させ、現在の意識研究の基礎となっている。
 脳科学による意識研究の成立にインパクトが大きかったのは、1990年代に[[wj:フランシス・クリック|クリック]]と[[wj:クリストフ・コッホ|コッホ]]によって提唱された意識研究の枠組みである<ref name=ref35>'''Koch, C.'''<br>The Quest for Consciousness: A Neurobiological Approach 2004<br>(土谷尚嗣 & 金井良太、意識の探求(上/下)岩波書店)<br>CO: ''Roberts and Publishers''.</ref>。この枠組みでは、特に[[ヒト]]と[[サル]]の[[視覚]]系に注目して、特定の[[視覚意識]]を生み出すのに十分な最小限の[[神経細胞]]集団、いわゆる「意識の神経相関(the neural correlates of consciousness; NCC)」を同定することが大きな目的とされた。この目的のもとに、数多くの実証的脳科学意識研究が生み出された(NCC研究については[[意識#意識の神経相関|意識の神経相関]]を参照)。これらの研究は、多くの脳科学者に意識が具体的な研究対象となることを確信させ、現在の意識研究の基礎となっている。
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 二つ目の意味は、心理学などが扱ってきた「[[クオリア]]」や「[[意識内容]]」という時の意識である<ref name=ref32><pubmed>22625852</pubmed></ref>。ある程度以上の意識レベルがある時には、ある瞬間に我々が経験する意識の内容は、視覚・[[聴覚]]・[[触覚]]などの鮮烈な感覚からなる。意識の内容には、[[思考]]や[[感情]]など、感覚ではないものも含まれるのか、意識の内容は注意によって規定されるのか、などについては、哲学・心理学・脳科学の観点からの研究・議論が続いている<ref name=ref7>'''Bayne, T., & Montague, M.'''<br>Cognitive phenomenology<br>''Oxford University Press on Demand.'' 2011</ref> <ref name=ref18><pubmed>22795561</pubmed></ref> <ref name=ref31>J'''ackendoff, R'''<br>How Language Helps Us Think. <br>Pragmatics and Cognition, 4, 1-34. 1996</ref> <ref name=ref64><pubmed>17324608</pubmed></ref>。
 二つ目の意味は、心理学などが扱ってきた「[[クオリア]]」や「[[意識内容]]」という時の意識である<ref name=ref32><pubmed>22625852</pubmed></ref>。ある程度以上の意識レベルがある時には、ある瞬間に我々が経験する意識の内容は、視覚・[[聴覚]]・[[触覚]]などの鮮烈な感覚からなる。意識の内容には、[[思考]]や[[感情]]など、感覚ではないものも含まれるのか、意識の内容は注意によって規定されるのか、などについては、哲学・心理学・脳科学の観点からの研究・議論が続いている<ref name=ref7>'''Bayne, T., & Montague, M.'''<br>Cognitive phenomenology<br>''Oxford University Press on Demand.'' 2011</ref> <ref name=ref18><pubmed>22795561</pubmed></ref> <ref name=ref31>J'''ackendoff, R'''<br>How Language Helps Us Think. <br>Pragmatics and Cognition, 4, 1-34. 1996</ref> <ref name=ref64><pubmed>17324608</pubmed></ref>。


 意識レベルと意識内容は、概念として区別したほうが、「意識」という言葉を脳研究で使う際に、混乱がなくなる。ただし、意識レベルの高さと意識内容の豊富さが解離することがありうるのか、そもそも、意識レベルという概念自体に正当性があるのか<ref name=ref6><pubmed>27101880</pubmed></ref>、については諸説ある<ref name=ref12><pubmed>    24198791</pubmed></ref>  
 意識レベルと意識内容は、概念として区別したほうが、「意識」という言葉を脳研究で使う際に、混乱がなくなる。ただし、意識レベルの高さと意識内容の豊富さが解離することがありうるのか、そもそも、意識レベルという概念自体に正当性があるのか<ref name=ref6><pubmed>27101880</pubmed></ref>、については諸説ある<ref name=ref12><pubmed>    24198791</pubmed></ref> {{refn|統合情報理論<ref name=ref48><pubmed>24811198</pubmed></ref> <ref name=ref61><pubmed>15522121</pubmed></ref> <ref name=ref63><pubmed>25823865</pubmed></ref>では、意識内容の豊富さがそのまま意識レベルに対応していると考える。|group="註"}}
 
<ref group="注"> 統合情報理論<ref name=ref48><pubmed>24811198</pubmed></ref> <ref name=ref61><pubmed>15522121</pubmed></ref> <ref name=ref63><pubmed>25823865</pubmed></ref>では、意識内容の豊富さがそのまま意識レベルに対応していると考える。</ref>。</ref>


 一般に「意識」という日本語は、「[[注意]]」「[[自意識]]」、「[[こころ]](心)」「[[魂]]」という概念を意味することもある。
 一般に「意識」という日本語は、「[[注意]]」「[[自意識]]」、「[[こころ]](心)」「[[魂]]」という概念を意味することもある。
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 たとえば、「背筋を『意識』してトレーニングを行う」などといった場合は、「背筋に『注意を向けて』」という意味で意識という語が使われている。「注意」と「意識」の関係性については[[意識#意識の神経相関|意識と関連する認知機能]]を参照。
 たとえば、「背筋を『意識』してトレーニングを行う」などといった場合は、「背筋に『注意を向けて』」という意味で意識という語が使われている。「注意」と「意識」の関係性については[[意識#意識の神経相関|意識と関連する認知機能]]を参照。


 「[[自己意識]](self-consciousness/self-awareness)」 は脳科学の文脈では意識内容の一種として捉えられる<ref name=ref35 />。その一方で、自分の知覚や思考や感情を意識することができるという[[自己再帰]]性や、自分の経験が自分の経験であるとわかること、すべての意識経験は何らかの主体による経験であること、などが意識の本質であると考える研究者もいる<ref name=ref21>'''Damasio, A. R.'''<br>The Feeling of What Happens: Body and Emotion in the Making of Consciousness. <br>''New York: Harcourt Brace.'' 1999</ref> <ref group="注"> ただし、どこまで自己意識が意識を理解するのに本質的なのかについては様々な議論がある。たとえば、自分は死んでいると主張する「[[コタール症候群]](Cotard's Syndrome)」<ref name=ref17><pubmed>23664000</pubmed></ref> <ref name=ref22>'''Debruyne, H., Portzky, M., Peremans, K., & Audenaert, K.'''<br>Cotard's syndrome. <br>''Mind and Brain'', 2, 67-72. 2011</ref>、自分が動かしているにも関わらず自分の手が誰かに動かされていると感じる「[[エイリアン・ハンド・シンドローム]]」<ref name=ref8><pubmed>14967782</pubmed></ref>、そして、経験している意識が自分のものではないと主張する患者<ref name=ref70><pubmed>18815452</pubmed></ref>、などの症例報告もある。これらの報告は、自分の意識経験に関する自己意識が意識経験をえるための必須条件ではないことを示唆する。</ref>。
 「[[自己意識]](self-consciousness/self-awareness)」 は脳科学の文脈では意識内容の一種として捉えられる<ref name=ref35 />。その一方で、自分の知覚や思考や感情を意識することができるという[[自己再帰]]性や、自分の経験が自分の経験であるとわかること、すべての意識経験は何らかの主体による経験であること、などが意識の本質であると考える研究者もいる<ref name=ref21>'''Damasio, A. R.'''<br>The Feeling of What Happens: Body and Emotion in the Making of Consciousness. <br>''New York: Harcourt Brace.'' 1999</ref> {{refn|ただし、どこまで自己意識が意識を理解するのに本質的なのかについては様々な議論がある。たとえば、自分は死んでいると主張する「[[コタール症候群]](Cotard's Syndrome)」<ref name=ref17><pubmed>23664000</pubmed></ref> <ref name=ref22>'''Debruyne, H., Portzky, M., Peremans, K., & Audenaert, K.'''<br>Cotard's syndrome. <br>''Mind and Brain'', 2, 67-72. 2011</ref>、自分が動かしているにも関わらず自分の手が誰かに動かされていると感じる「[[エイリアン・ハンド・シンドローム]]」<ref name=ref8><pubmed>14967782</pubmed></ref>、そして、経験している意識が自分のものではないと主張する患者<ref name=ref70><pubmed>18815452</pubmed></ref>、などの症例報告もある。これらの報告は、自分の意識経験に関する自己意識が意識経験をえるための必須条件ではないことを示唆する。|group="註"}}


 「こころ」は、日本語特有の概念であり、英語で「こころ」にうまく対応するような言葉はない。上で述べた「意識の内容」という意味で使われつつも、特に「感情」、「気持ち」、「おもいやり」を意味することが多い<ref group="注"> mind という単語は、一般に「こころ・心」と訳されるが、どちらかと言えば「あたま」「頭脳」「精神」を意味する。その意味では、むしろ「理性」に近く、「感情・気持ち」emotion・feelings の意味が強い「こころ」とは対になるような概念である。たとえば、「use your mind」とは「アタマを使え」という意味なのに対して、「あいつにはこころが無い」と言えば「おもいやりが無い」の意味である。「意識と脳の関係性の問題」のことを英語では Mind-body problemと呼ぶ。日本ではこの用語を「[[心身問題]]」「[[心脳問題]]」と伝統的に訳すことが多いが、これは、「感情」と「身体の反応性」もしくは「脳の活動」の関係をめぐる問題だ、と勘違されることがある。そのため、本エントリーでは一貫してこの訳語は使わない。 </ref>。
 「こころ」は、日本語特有の概念であり、英語で「こころ」にうまく対応するような言葉はない。上で述べた「意識の内容」という意味で使われつつも、特に「感情」、「気持ち」、「おもいやり」を意味することが多い{{refn|Mind という単語は、一般に「こころ・心」と訳されるが、どちらかと言えば「あたま」「頭脳」「精神」を意味する。その意味では、むしろ「理性」に近く、「感情・気持ち」emotion・feelings の意味が強い「こころ」とは対になるような概念である。たとえば、「use your mind」とは「アタマを使え」という意味なのに対して、「あいつにはこころが無い」と言えば「おもいやりが無い」の意味である。「意識と脳の関係性の問題」のことを英語では Mind-body problemと呼ぶ。日本ではこの用語を「[[心身問題]]」「[[心脳問題]]」と伝統的に訳すことが多いが、これは、「感情」と「身体の反応性」もしくは「脳の活動」の関係をめぐる問題だ、と勘違されることがある。そのため、本エントリーでは一貫してこの訳語は使わない。|group="註"}}


 「魂(soul) 」は、脳が活動を停止しても存在し続ける意識という概念である。脳科学では、活動を停止した脳には意識が無くなるとされる以上、魂の存在は認められない。近年では、魂のようなものの存在を示唆するような現象(幽体離脱、臨死体験等)の神経基盤について多くの事がわかってきている<ref name=ref10><pubmed>14662516</pubmed></ref> <ref name=ref13><pubmed>23940340</pubmed></ref>。
 「魂(soul) 」は、脳が活動を停止しても存在し続ける意識という概念である。脳科学では、活動を停止した脳には意識が無くなるとされる以上、魂の存在は認められない。近年では、魂のようなものの存在を示唆するような現象(幽体離脱、臨死体験等)の神経基盤について多くの事がわかってきている<ref name=ref10><pubmed>14662516</pubmed></ref> <ref name=ref13><pubmed>23940340</pubmed></ref>。
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 一方で、意識・無意識の境界線の問題は、ほぼ全ての脳科学研究でなんらかの形で共有されている。たとえば、感覚入力、[[感覚統合]]、[[意志決定]]、[[運動計画]]、[[運動出力]]、[[感情]]、[[記憶]]、[[言語]]などの脳機能は、意識経験を伴う場合もあれば、伴わない場合もある。したがって、意識・無意識の違いを生み出す神経基盤を明らかにすることは、それぞれの機能を研究している神経科学者にとっても重要な問題だといえる。
 一方で、意識・無意識の境界線の問題は、ほぼ全ての脳科学研究でなんらかの形で共有されている。たとえば、感覚入力、[[感覚統合]]、[[意志決定]]、[[運動計画]]、[[運動出力]]、[[感情]]、[[記憶]]、[[言語]]などの脳機能は、意識経験を伴う場合もあれば、伴わない場合もある。したがって、意識・無意識の違いを生み出す神経基盤を明らかにすることは、それぞれの機能を研究している神経科学者にとっても重要な問題だといえる。


 また、意識・無意識の問題は、人以外の[[モデル動物]]を用いた研究においても重要な意味をもつ。現在、サル・[[ネズミ]]・[[ハエ]]などのモデル動物に対して侵襲的な手法(神経細胞の記録、遺伝子操作など)を用いた実験研究が盛んに行われているが、もしネズミやハエには意識的な痛みの感覚がなかったとしたら、こうした研究の意味は違ったものになってくるだろう<ref group="注"> 現在の技術では、脳を実験的に培養して発生のメカニズムを研究することすらできる<ref name=ref40><pubmed>23995685</pubmed></ref></ref>。こうした技術が進歩すれば、人間以外の動物の意識だけでなく、このように身体から完全に切り離された脳の意識についても倫理的な問題が出てくるかもしれない。完全に身体から切り離された脳に意識が宿る可能性はあるのだろうか。あるとすれば、どのような意識が宿るのだろうか。痛みは感じるのだろうか。。
 また、意識・無意識の問題は、人以外の[[モデル動物]]を用いた研究においても重要な意味をもつ。現在、サル・[[ネズミ]]・[[ハエ]]などのモデル動物に対して侵襲的な手法(神経細胞の記録、遺伝子操作など)を用いた実験研究が盛んに行われているが、もしネズミやハエには意識的な痛みの感覚がなかったとしたら、こうした研究の意味は違ったものになってくるだろう{{refn|現在の技術では、脳を実験的に培養して発生のメカニズムを研究することすらできる<ref name=ref40><pubmed>23995685</pubmed></ref>|group="註"}}。こうした技術が進歩すれば、人間以外の動物の意識だけでなく、このように身体から完全に切り離された脳の意識についても倫理的な問題が出てくるかもしれない。完全に身体から切り離された脳に意識が宿る可能性はあるのだろうか。あるとすれば、どのような意識が宿るのだろうか。痛みは感じるのだろうか。


 他方で、意識研究には他の脳機能研究と決定的に異なる側面もある。その一つは、意識研究に機能主義の考え方を適用することの難しさである。機能主義的な脳研究は、脳機能を実現するメカニズムを解明し、それをコンピューターやロボットなどにおいて再現することを目的とし、外部から観察することのできない、意識の主観的な側面(意識の内容、クオリア)を研究対象に含まない<ref group="注">意識の機能主義的な研究は、人工知能やロボットによる意識研究と相性が良い。人間だけが行うことのできると考えられてきたような、高度な知性が必要とされる課題をこなせるAIには、人間と同じような意識があるとみなしても良い、という考え方である。近年の人工知能研究により<ref name=ref45 /> <ref name=ref57 />、様々な認知「機能」がコンピューターで実現される可能性が、現実のものとなっている。</ref>。
 他方で、意識研究には他の脳機能研究と決定的に異なる側面もある。その一つは、意識研究に機能主義の考え方を適用することの難しさである。機能主義的な脳研究は、脳機能を実現するメカニズムを解明し、それをコンピューターやロボットなどにおいて再現することを目的とし、外部から観察することのできない、意識の主観的な側面(意識の内容、クオリア)を研究対象に含まない{{refn|意識の機能主義的な研究は、人工知能やロボットによる意識研究と相性が良い。人間だけが行うことのできると考えられてきたような、高度な知性が必要とされる課題をこなせるAIには、人間と同じような意識があるとみなしても良い、という考え方である。近年の人工知能研究により<ref name=ref45 /> <ref name=ref57 />、様々な認知「機能」がコンピューターで実現される可能性が、現実のものとなっている。|group="註"}}


 しかし、そうだとすると、機能主義的な脳科学は、わたしたちの脳とわたしたちと完全に同じように振舞うが意識経験の全くない「哲学的ゾンビ」を区別できないことになる<ref name=ref16>'''Chalmers, D. J.'''<br>The conscious mind<br>(林一、意識する心―脳と精神の根本理論を求めて、白楊社)<br>''New York: Oxford University Press''. 1996</ref>。このように、どのように研究するのかという点で重大な哲学的な問題が残るところが、意識研究と他の脳機能研究との大きな違いだろう。
 しかし、そうだとすると、機能主義的な脳科学は、わたしたちの脳とわたしたちと完全に同じように振舞うが意識経験の全くない「哲学的ゾンビ」を区別できないことになる<ref name=ref16>'''Chalmers, D. J.'''<br>The conscious mind<br>(林一、意識する心―脳と精神の根本理論を求めて、白楊社)<br>''New York: Oxford University Press''. 1996</ref>。このように、どのように研究するのかという点で重大な哲学的な問題が残るところが、意識研究と他の脳機能研究との大きな違いだろう。
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 [[wj:ジュリオ・トノーニ|ジュリオ・トノーニ]]によって提唱された「統合情報理論(Integrated Information Theory; IIT)」は、主観的に各人が体験する意識の特徴を抽出するところから始まり、そのような特徴を支えることができるような物理的なメカニズムとは一体どのようなシステムでありうるかについて仮説を立てる、という体裁をとる。
 [[wj:ジュリオ・トノーニ|ジュリオ・トノーニ]]によって提唱された「統合情報理論(Integrated Information Theory; IIT)」は、主観的に各人が体験する意識の特徴を抽出するところから始まり、そのような特徴を支えることができるような物理的なメカニズムとは一体どのようなシステムでありうるかについて仮説を立てる、という体裁をとる。


 統合情報理論が特に注目する意識現象の特徴は、意識経験の持つ膨大な[[情報量]]と、意識経験が常に統合されている、というものである 。情報量については、ある一瞬の意識経験があるだけで(たとえば、現在この脳科学辞典の意識のエントリーを読んでいるという経験)、それを経験している人にとってあらゆる全ての他の経験の可能性を排除する(たとえば、読者は今、このエントリー以外のものを見ていない、今聞いている音楽以外の音を聞いていない、等)、という意味で、意識経験の情報量は膨大である<ref group="注"> 情報理論の文脈では<ref name=ref56>'''Shannon, C. E., & Weaver, W.'''<br>The mathematical theory of communication.<br>Urbana, IL, USA: ''University of Illinois press'', 1949</ref>、「情報量」とは、不確定性の減少と定義される。その意味で、意識内容のレパートリーは非常に多く(我々が経験する可能性のある全て)、かつ一瞬の意識内容により、それ以外の意識内容を経験している可能性(不確定性)が無くなる、と言う意味で、意識の情報量は膨大であると考える。</ref>とする。膨大な情報量は高いレベルの意識が生じるのに必要ではあるが、十分ではない。たとえば、光を感知すると電流が流れる、という[[wj:フォトダイオード|フォトダイオード]]をもとにした電気回路システムは、光の有る無しの二つの可能性のどちらかを選択できるが、その情報量は、人の意識を支える大脳−視床システムとは比べ物にならない。一方で、単純なフォトダイオードをたくさんつなげて、[[wj:デジタルカメラ|デジタルカメラ]]を作っても、デジタルカメラに意識は宿らない。それは、それぞれのフォトダイオードの間の相互作用が無く、意識を支えるのに必要な情報の統合がなされていないからである、と統合情報理論は説明する。
 統合情報理論が特に注目する意識現象の特徴は、意識経験の持つ膨大な[[情報量]]と、意識経験が常に統合されている、というものである 。情報量については、ある一瞬の意識経験があるだけで(たとえば、現在この脳科学辞典の意識のエントリーを読んでいるという経験)、それを経験している人にとってあらゆる全ての他の経験の可能性を排除する(たとえば、読者は今、このエントリー以外のものを見ていない、今聞いている音楽以外の音を聞いていない、等)、という意味で、意識経験の情報量は膨大である.{{refn|情報理論の文脈では<ref name=ref56>'''Shannon, C. E., & Weaver, W.'''<br>The mathematical theory of communication.<br>Urbana, IL, USA: ''University of Illinois press'', 1949</ref>、「情報量」とは、不確定性の減少と定義される。その意味で、意識内容のレパートリーは非常に多く(我々が経験する可能性のある全て)、かつ一瞬の意識内容により、それ以外の意識内容を経験している可能性(不確定性)が無くなる、と言う意味で、意識の情報量は膨大であると考える。|group="註"}}とする。膨大な情報量は高いレベルの意識が生じるのに必要ではあるが、十分ではない。たとえば、光を感知すると電流が流れる、という[[wj:フォトダイオード|フォトダイオード]]をもとにした電気回路システムは、光の有る無しの二つの可能性のどちらかを選択できるが、その情報量は、人の意識を支える大脳−視床システムとは比べ物にならない。一方で、単純なフォトダイオードをたくさんつなげて、[[wj:デジタルカメラ|デジタルカメラ]]を作っても、デジタルカメラに意識は宿らない。それは、それぞれのフォトダイオードの間の相互作用が無く、意識を支えるのに必要な情報の統合がなされていないからである、と統合情報理論は説明する。


 統合情報理論は、現在までにわかっている脳科学的知見に整合的な説明を与える。統合情報理論によると、昏睡・植物状態・深い睡眠や全身麻酔状態で、脳活動は失われず、かつ外部からの感覚入力にも反応できる脳に意識が宿らないのは、情報の統合が失われるからである([[意識#意識の神経相関|意識レベルの変化]]参照)。分離脳では、分離された脳それぞれが、独立に同程度の情報の統合を行っているため、左右の脳で独立に意識が存在すると考える([[意識#意識の神経相関|臨床研究からの知見]]参照)。また、小脳の活動が意識を生み出さないのは、小脳の回路は統合が弱いからだと説明される([[意識#意識の神経相関|意識と無意識]]参照)。
 統合情報理論は、現在までにわかっている脳科学的知見に整合的な説明を与える。統合情報理論によると、昏睡・植物状態・深い睡眠や全身麻酔状態で、脳活動は失われず、かつ外部からの感覚入力にも反応できる脳に意識が宿らないのは、情報の統合が失われるからである([[意識#意識の神経相関|意識レベルの変化]]参照)。分離脳では、分離された脳それぞれが、独立に同程度の情報の統合を行っているため、左右の脳で独立に意識が存在すると考える([[意識#意識の神経相関|臨床研究からの知見]]参照)。また、小脳の活動が意識を生み出さないのは、小脳の回路は統合が弱いからだと説明される([[意識#意識の神経相関|意識と無意識]]参照)。
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== 注釈 ==
== 注釈 ==
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==関連項目==
==関連項目==

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