「境界性パーソナリティ障害」の版間の差分
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英語名:borderline personality disorder 英略語:BPD 独:Borderline-Persönlichkeitsstörung 仏:trouble de la personnalité borderline | 英語名:borderline personality disorder 英略語:BPD 独:Borderline-Persönlichkeitsstörung 仏:trouble de la personnalité borderline | ||
{{box|text= 境界性パーソナリティ障害は、パーソナリティ障害の1タイプである。その特徴は20世紀の初めに端を発する境界例の症状論的概念を引き継ぐものであり、そこから豊かな精神療法理論が発展したという点にある。現在では、そのパーソナリティ心理学との結びつきが明らかにされるなどの多くの臨床的研究が蓄積され、生物学的研究が活発に続けられている。わが国の精神科臨床では、それらの発展を日常の診療の中でどのように活かすかが重要な課題となっている。}} | {{box|text= | ||
境界性パーソナリティ障害は、パーソナリティ障害の1タイプである。その特徴は20世紀の初めに端を発する境界例の症状論的概念を引き継ぐものであり、そこから豊かな精神療法理論が発展したという点にある。現在では、そのパーソナリティ心理学との結びつきが明らかにされるなどの多くの臨床的研究が蓄積され、生物学的研究が活発に続けられている。わが国の精神科臨床では、それらの発展を日常の診療の中でどのように活かすかが重要な課題となっている。 | |||
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==はじめに== | ==はじめに== | ||
境界性パーソナリティ障害は、現在の精神科臨床において一般的な精神障害であり、特に思春期・青年期患者の診療や、物質使用障害や自殺未遂・自傷行為が問題になる精神科救急で扱われることの多い精神疾患である。 | |||
その診断に該当するのは、次のようなケースである。ここには、境界性パーソナリティ障害に特徴的な感情・対人関係の不安定さ、衝動性が顕れている。 | |||
症例 Aさん 27歳,女性 | |||
Aさんは、「怒ると止まらなくなる。自分でもそれが怖い」ということを主訴として母親と共に受診した。彼女の激しい怒りは、主に母と夫に向けられる。怒りは2-3時間で収束することが多いが、著しい興奮が持続すると、家具を壊したり、自らの四肢を包丁で刺したり、自分から110番をしてパトカーを呼んだりという行動に至る。その後,2児の母である彼女は、「自分のせいで子どもがちゃんと育たない」といった後悔や自己嫌悪に苛まれる。このような著しい気分の変動のせいで、「苦痛を忘れるため」に鎮痛剤の過量服薬を行うことがある。生活は不規則になりがちであるが、時折母親の支援を必要とするものの、家事をこなすことはできている。 | |||
境界性パーソナリティ障害については、現在多くの臨床的実践が蓄積されつつあり、また、精神療法的研究などの臨床的研究、生物学的研究が活発に行われている<ref>'''Gunderson JG, Weinberg I, Choi-Kain L.'''<br>Borderline Personality Disorder. <br>''FOCUS''. 2013;11(2):129-145.</ref>。 | 境界性パーソナリティ障害については、現在多くの臨床的実践が蓄積されつつあり、また、精神療法的研究などの臨床的研究、生物学的研究が活発に行われている<ref>'''Gunderson JG, Weinberg I, Choi-Kain L.'''<br>Borderline Personality Disorder. <br>''FOCUS''. 2013;11(2):129-145.</ref>。 | ||
==歴史的概観== | ==歴史的概観== | ||
(<u>編集部コメント:初学者が境界性パーソナリティ障害とは何かを理解できるように、冒頭に例をあげつつ、ご解説いただければ幸いです</u>) | |||
境界性パーソナリティ障害概念の歴史には、[[精神科疾病論]]と[[精神療法]] | 境界性パーソナリティ障害は、現在の精神科臨床において一般的な[[精神障害]]であり、特に[[wikipedia:ja:思春期|思春期]]・[[wikipedia:ja:青年期|青年期]]患者の診療や、[[物質使用障害]]や[[自殺未遂]]・[[自傷行為]]が問題になる精神科救急で扱われることの多いものである。しかしその疾病概念は、繰り返し大きな変革が行われてきたという歴史がある。それは、現在でもまだ十分定まっておらず、それを理解するためには、歴史的背景を知る必要がある。 | ||
境界性パーソナリティ障害概念の歴史には、[[精神科疾病論]]と[[精神療法]]の議論の二つの流れが認められる。その概念の起源は、疾病論的な概念である境界例(borderline case)であり、それは、[[wikipedia:ja:エミール・クレペリン|Kraepelin E]]の提唱した[[早発性痴呆]]([[統合失調症]]の前身)の概念によって精神科疾病論が刷新された1900年代において、統合失調症と近縁だが、そうとまで確定できない患者を指すものであった。 | |||
同時にこの境界例は、早くから精神療法における問題となっていた。彼らは、強い苦悩・苦悩を訴えて治療を求めるので、精神療法の好適な対象のように見えるけれども、実は治療上の問題をしばしば起こすという特徴があった。このような患者に対する精神療法が重ねられた結果、1970年代より米国を中心として境界例を[[パーソナリティ障害]]として位置づける理解が一般化し、さらにそれは、1980年の[[wikipedia:ja:米国精神医学会|米国精神医学会]]の[[診断と統計のためのマニュアル第三版]]([[DSM-III]])において、パーソナリティ障害として位置づけられることに結実した。ただしそこでは、境界例が統合失調症と症状論的に近縁と位置付けられる患者が[[統合失調型パーソナリティ障害]]に、そして対人関係・感情の不安定さを主徴とする患者が境界性パーソナリティ障害とに二分されることとされた。 | 同時にこの境界例は、早くから精神療法における問題となっていた。彼らは、強い苦悩・苦悩を訴えて治療を求めるので、精神療法の好適な対象のように見えるけれども、実は治療上の問題をしばしば起こすという特徴があった。このような患者に対する精神療法が重ねられた結果、1970年代より米国を中心として境界例を[[パーソナリティ障害]]として位置づける理解が一般化し、さらにそれは、1980年の[[wikipedia:ja:米国精神医学会|米国精神医学会]]の[[診断と統計のためのマニュアル第三版]]([[DSM-III]])において、パーソナリティ障害として位置づけられることに結実した。ただしそこでは、境界例が統合失調症と症状論的に近縁と位置付けられる患者が[[統合失調型パーソナリティ障害]]に、そして対人関係・感情の不安定さを主徴とする患者が境界性パーソナリティ障害とに二分されることとされた。 | ||
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現行の[[DSM-5]]<ref name=ref2>American Psychiatric Association. Diagnostic and statistical manual of mental disorders, fifth edition, DSM-5.<br>Washington, DC: ''American Psychiatric Association''; 2013.</ref>では、DSM-III以来の記述が大枠で踏襲されている。そこでは、パーソナリティ障害の特徴が、患者の[[内的体験]]および行動の持続的パターンの偏りが広い機能領域に及んでいること(つまり、特定の領域が決定的に障害されているのではないこと)、そのパターンが個人的および社会的状況の幅広い範囲に見られること、そして長期間持続しており、その始まりが青年期もしくは成人期早期までに認められることなどが基本的なものだとされている。 | 現行の[[DSM-5]]<ref name=ref2>American Psychiatric Association. Diagnostic and statistical manual of mental disorders, fifth edition, DSM-5.<br>Washington, DC: ''American Psychiatric Association''; 2013.</ref>では、DSM-III以来の記述が大枠で踏襲されている。そこでは、パーソナリティ障害の特徴が、患者の[[内的体験]]および行動の持続的パターンの偏りが広い機能領域に及んでいること(つまり、特定の領域が決定的に障害されているのではないこと)、そのパターンが個人的および社会的状況の幅広い範囲に見られること、そして長期間持続しており、その始まりが青年期もしくは成人期早期までに認められることなどが基本的なものだとされている。 | ||
境界性パーソナリティ障害の診断基準項目(比較的疾患特異的な精神症状)は9項目あり、そのうちの5が満たされるなら、境界性パーソナリティ障害の診断を考慮することになる。境界性パーソナリティ障害の基本的精神症状は、その診断基準9項目の因子分析から、[[対人関係の障害]](対人関係が不安定で[[自己同一性]]が不確定)、[[行動コントロール]]の障害([[衝動的行動]]が多いこと)、[[感情コントロール]]の障害(感情不安定で怒りが強いこと)の3種に分類されるという見解が示されている。 | |||
(<u>編集部コメント:9項目に関しては、表などでお示しいただければと思います。お送りいただければ、こちらで作成いたします。</u>) | |||
さらにDSM-5<ref name=ref2 />において代替モデルとして提案された診断基準では、境界性パーソナリティ障害が否定的感情 (negative affectivity: 不安や感情不安定が著しいこと)、[[対抗]](antagonism: 対人関係で摩擦が多いこと)、[[脱抑制]](disinhibition: 衝動行為が発生しやすいこと)といった病的パーソナリティ傾向が特徴であるとされる。ここでは、この病的パーソナリティ傾向の構成が、先に紹介した境界性パーソナリティ障害診断基準項目の分類とほぼ相応していることが確認される。 | |||
さらにDSM-5<ref name=ref2 />において代替モデルとして提案された診断基準では、境界性パーソナリティ障害が否定的感情 (negative affectivity: 不安や感情不安定が著しいこと)、[[対抗]](antagonism: 対人関係で摩擦が多いこと)、[[脱抑制]](disinhibition: | |||
===疫学=== | ===疫学=== | ||
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境界性パーソナリティ障害の臨床遺伝学的研究では、家族に[[うつ病]]、[[反社会性パーソナリティ障害]]、[[薬物依存]]が多いことが繰り返し報告されている<ref name=ref2 /> <ref name=ref4><pubmed>17476363</pubmed></ref>。しかし、これらの疾患と境界性パーソナリティ障害との遺伝的関連は、現在でもまだ確認されていない<ref name=ref4 />。しかし[[双生児研究]]などから境界性パーソナリティ障害の特性の一部が遺伝的に決定されていることが知られている<ref name=ref4 />。 | 境界性パーソナリティ障害の臨床遺伝学的研究では、家族に[[うつ病]]、[[反社会性パーソナリティ障害]]、[[薬物依存]]が多いことが繰り返し報告されている<ref name=ref2 /> <ref name=ref4><pubmed>17476363</pubmed></ref>。しかし、これらの疾患と境界性パーソナリティ障害との遺伝的関連は、現在でもまだ確認されていない<ref name=ref4 />。しかし[[双生児研究]]などから境界性パーソナリティ障害の特性の一部が遺伝的に決定されていることが知られている<ref name=ref4 />。 | ||
境界性パーソナリティ障害の生物学的病因については、すでに多くの研究知見が集積されている<ref name=ref5><pubmed>18638645</pubmed></ref>。 境界性パーソナリティ障害の[[衝動性]]の亢進と [[セロトニン]] 系の低下などの神経生化学的所見との関連は早くから指摘されてきた。また、感情体験の特徴についての実験的研究では、境界性パーソナリティ障害患者が複雑な感情に対処できず、感情への認識が乏しく否定的な感情に対して過敏に反応する傾向のあること、自傷行為が[[痛覚]][[域値]]の上昇と関連していることなどが報告されている。また、患者において[[ストレス反応]]に関わる[[視床下部-下垂体-副腎系]] | 境界性パーソナリティ障害の生物学的病因については、すでに多くの研究知見が集積されている<ref name=ref5><pubmed>18638645</pubmed></ref>。 境界性パーソナリティ障害の[[衝動性]]の亢進と [[セロトニン]] 系の低下などの神経生化学的所見との関連は早くから指摘されてきた。また、感情体験の特徴についての実験的研究では、境界性パーソナリティ障害患者が複雑な感情に対処できず、感情への認識が乏しく否定的な感情に対して過敏に反応する傾向のあること、自傷行為が[[痛覚]][[域値]]の上昇と関連していることなどが報告されている。また、患者において[[ストレス反応]]に関わる[[視床下部-下垂体-副腎系]]の機能低下などが報告されている。画像研究などによる神経生理学的知見としては、境界性パーソナリティ障害患者における[[恐怖]]感などの陰性感情に関わる[[扁桃体]]の機能の過剰反応が注目されている<ref name=ref5 />。 | ||
===養育環境の要因、社会文化的要因=== | ===養育環境の要因、社会文化的要因=== | ||
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==まとめ== | ==まとめ== | ||
境界性パーソナリティ障害は、感情や対人関係の不安定さ、衝動的行動パターンを主徴とするパーソナリティ障害であり、精神科臨床で見られる頻度の高いものである。その病因論では、生物学的要因や養育環境の要因などさまざまな発病要因の関与が想定されている。その治療では、さまざまな精神療法や薬物療法が組み合わせられて用いられており、治療の実績が確認されつつある。すなわち、現在これは、治療によって改善・回復が十分に期待できる精神障害であると考えられる。しかしそこには、依然として疾病論的に不確定の部分が残されており、さらに多数の精神障害が併存する性質があることなどから、境界性パーソナリティ障害の診断・治療を定式化して普及させることが容易でないと考えられる。特にわが国では、その診断が一般的になっておらず、治療技法も十分普及していない状態にある。今後とも議論を積み重ねて、わが国に適合した対策を考案し、導入することが要請されている<ref name=ref12>'''林直樹'''<br>実地診療におけるパーソナリティ障害の診断および誤診の特殊性<br>''精神科診断学''. 2014;7(1):57-63.</ref>。 | 境界性パーソナリティ障害は、感情や対人関係の不安定さ、衝動的行動パターンを主徴とするパーソナリティ障害であり、精神科臨床で見られる頻度の高いものである。その病因論では、生物学的要因や養育環境の要因などさまざまな発病要因の関与が想定されている。その治療では、さまざまな精神療法や薬物療法が組み合わせられて用いられており、治療の実績が確認されつつある。すなわち、現在これは、治療によって改善・回復が十分に期待できる精神障害であると考えられる。しかしそこには、依然として疾病論的に不確定の部分が残されており、さらに多数の精神障害が併存する性質があることなどから、境界性パーソナリティ障害の診断・治療を定式化して普及させることが容易でないと考えられる。特にわが国では、その診断が一般的になっておらず、治療技法も十分普及していない状態にある。今後とも議論を積み重ねて、わが国に適合した対策を考案し、導入することが要請されている<ref name=ref12>'''林直樹'''<br>実地診療におけるパーソナリティ障害の診断および誤診の特殊性<br>''精神科診断学''. 2014;7(1):57-63.</ref>。 | ||
==参考文献== | ==参考文献== | ||
<references /> | <references /> | ||