16,039
回編集
細編集の要約なし |
|||
58行目: | 58行目: | ||
意識・無意識の境界線の問題は、ほぼ全ての脳科学研究でなんらかの形で共有されている。たとえば、感覚入力、[[感覚統合]]、[[意志決定]]、[[運動計画]]、[[運動出力]]、[[感情]]、[[記憶]]、[[言語]]などの脳機能は、意識経験を伴う場合もあれば、伴わない場合もある。意識・無意識の違いを生み出す神経基盤を明らかにすることは、それぞれの機能を研究している神経科学者にとっても関係性の深い問題だといえる。 | 意識・無意識の境界線の問題は、ほぼ全ての脳科学研究でなんらかの形で共有されている。たとえば、感覚入力、[[感覚統合]]、[[意志決定]]、[[運動計画]]、[[運動出力]]、[[感情]]、[[記憶]]、[[言語]]などの脳機能は、意識経験を伴う場合もあれば、伴わない場合もある。意識・無意識の違いを生み出す神経基盤を明らかにすることは、それぞれの機能を研究している神経科学者にとっても関係性の深い問題だといえる。 | ||
また、意識・無意識の問題は、人以外の[[モデル動物]]を用いた研究においても重要な意味をもつ。現在、サル・[[ネズミ]]・[[ハエ]]などのモデル動物に対して侵襲的な手法(神経細胞の記録、遺伝子操作など)を用いた実験研究が盛んに行われているが、もしネズミやハエに意識的な感覚がなかったとしたら、こうした研究の意味は違ったものになってくるだろう{{refn|現在の技術では、脳を実験的に培養して発生のメカニズムを研究することすらできる<ref name=ref40><pubmed>23995685</pubmed>。こうした技術が進歩すれば、人間以外の動物の意識だけでなく、このように身体から完全に切り離された脳の意識についても倫理的な問題が出てくる可能性もある。完全に身体から切り離された脳に意識が宿る可能性はあるのだろうか。あるとすれば、どのような意識が宿るのだろうか。痛みは感じるのだろうか。</ref>|group="註"}} | また、意識・無意識の問題は、人以外の[[モデル動物]]を用いた研究においても重要な意味をもつ。現在、サル・[[ネズミ]]・[[ハエ]]などのモデル動物に対して侵襲的な手法(神経細胞の記録、遺伝子操作など)を用いた実験研究が盛んに行われているが、もしネズミやハエに意識的な感覚がなかったとしたら、こうした研究の意味は違ったものになってくるだろう{{refn|現在の技術では、脳を実験的に培養して発生のメカニズムを研究することすらできる<ref name=ref40><pubmed>23995685</pubmed></ref>。こうした技術が進歩すれば、人間以外の動物の意識だけでなく、このように身体から完全に切り離された脳の意識についても倫理的な問題が出てくる可能性もある。完全に身体から切り離された脳に意識が宿る可能性はあるのだろうか。あるとすれば、どのような意識が宿るのだろうか。痛みは感じるのだろうか。</ref>|group="註"}}。 | ||
他方で、意識研究には他の脳機能研究と決定的に異なる側面もある。その一つは、意識研究に機能主義の考え方を適用することの難しさである。機能主義的な脳研究は、脳機能を実現するメカニズムを解明し、それをコンピューターやロボットなどにおいて再現することを目的とし、外部から観察することのできない、意識の主観的な側面(意識の内容、クオリア)を研究対象に含まない{{refn|意識の機能主義的な研究は、人工知能やロボットによる意識研究と相性が良い。人間だけが行うことのできると考えられてきたような、高度な知性が必要とされる課題をこなせるAIには、人間と同じような意識があるとみなしても良い、という考え方である。近年の人工知能研究により<ref name=ref45 /> <ref name=ref57 />、様々な認知「機能」がコンピューターで実現される可能性が、現実のものとなっている。|group="註"}} | 他方で、意識研究には他の脳機能研究と決定的に異なる側面もある。その一つは、意識研究に機能主義の考え方を適用することの難しさである。機能主義的な脳研究は、脳機能を実現するメカニズムを解明し、それをコンピューターやロボットなどにおいて再現することを目的とし、外部から観察することのできない、意識の主観的な側面(意識の内容、クオリア)を研究対象に含まない{{refn|意識の機能主義的な研究は、人工知能やロボットによる意識研究と相性が良い。人間だけが行うことのできると考えられてきたような、高度な知性が必要とされる課題をこなせるAIには、人間と同じような意識があるとみなしても良い、という考え方である。近年の人工知能研究により<ref name=ref45 /> <ref name=ref57 />、様々な認知「機能」がコンピューターで実現される可能性が、現実のものとなっている。|group="註"}}。 | ||
しかし、そうだとすると、機能主義的な脳科学は、わたしたちと同じように振舞うが意識経験の全くない「哲学的ゾンビ」と、意識を持つわたしたちを区別できないことになる<ref name=ref16>'''Chalmers, D. J.'''<br>The conscious mind<br>(林一、意識する心―脳と精神の根本理論を求めて、白楊社)<br>''New York: Oxford University Press''. 1996</ref>。このような研究の前提となる科学の枠組みにすら重大な哲学的な問題が残るところが、意識研究と他の脳機能研究との大きな違いである。 | しかし、そうだとすると、機能主義的な脳科学は、わたしたちと同じように振舞うが意識経験の全くない「哲学的ゾンビ」と、意識を持つわたしたちを区別できないことになる<ref name=ref16>'''Chalmers, D. J.'''<br>The conscious mind<br>(林一、意識する心―脳と精神の根本理論を求めて、白楊社)<br>''New York: Oxford University Press''. 1996</ref>。このような研究の前提となる科学の枠組みにすら重大な哲学的な問題が残るところが、意識研究と他の脳機能研究との大きな違いである。 |