「情動的記憶」の版間の差分

提供:脳科学辞典
ナビゲーションに移動 検索に移動
編集の要約なし
編集の要約なし
(3人の利用者による、間の50版が非表示)
4行目: 4行目:
<font size="+1">[http://researchmap.jp/komeda/ 米田 英嗣]</font><br>
<font size="+1">[http://researchmap.jp/komeda/ 米田 英嗣]</font><br>
''京都大学白眉センター''<br>
''京都大学白眉センター''<br>
<font size="+1">[http://researchmap.jp/memory-fmri/ 月浦 崇]</font><br>
DOI:<selfdoi /> 原稿受付日:2015年8月2日 原稿完成日:201X年X月X日<br>
''京都大学 人間・環境学研究科 認知科学分野''<br>
担当編集委員:[http://researchmap.jp/read0048432 定藤 規弘](自然科学研究機構生理学研究所 [[大脳皮質]]機能研究系)<br>*:責任著者
DOI:<selfdoi /> 原稿受付日:2015年8月2日 原稿完成日:2016年5月30日<br>
担当編集委員:[http://researchmap.jp/read0048432 定藤 規弘](自然科学研究機構生理学研究所 大脳皮質機能研究系)<br>*:責任著者
</div>
</div>


英語名:emotional memory 独:emotionales Gedächtnis 仏:mémoire émotionnelle
英語名:emotional memory 独:emotionales Gedächtnis 仏:mémoire émotionnelle


{{box|text= 情動的記憶とは情動的な出来事に関する記憶のことであり、情動を伴わない出来事よりも情動を伴う出来事のほうが記憶されやすいことが知られている。情動的記憶の記銘や想起には、扁桃体と海馬の相互作用が重要な役割を果たすことが示唆されている。}}
同義語:フラッシュバルブ記憶 (flashbulb memory)


==実験心理学的研究 ==
{{box|text= 情動的記憶は情動的な出来事を経験した際の記憶のことであり、その出来事に付随する情動(感情)の強度によって記憶の記銘・保持・想起の仕方に違いが見られる。情動的記憶には、顕在記憶システム (explicit memory systems)と潜在記憶システム (implicit memory systems)の2種類があると考えられている。顕在記憶システムは、情動に関連する記憶や情動的な出来事の顕在記憶が内側側頭葉で処理されている。潜在記憶システムは、情動的記憶や情動的反応の表出が扁桃体で処理されている。}}
 情動的記憶とは[[情動]]的な出来事に関する記憶のことである。


 情動的記憶において、情動の効果は[[情動価]] (valence)よりも[[覚醒度]] (arousal)の関与が重要であることが指摘されており、覚醒度が高い刺激の方が覚醒度の低い刺激よりも記憶が促進され<ref><pubmed> 1532823 </pubmed></ref>、その促進効果は[[記銘]]時の文脈情報などを含む詳細な記憶情報の想起を反映する[[Recollection]]において、記銘時の詳細な情報の想起を伴わない想起過程である[[Familiarity]]よりも顕著であることが報告されている<ref><pubmed> 10868336 </pubmed></ref>
[[ファイル:mano1.jpg|thumb|350px| '''図. 情動的記憶 vs. 情動に関連する記憶。左図:情動的記憶の形成'''<br>情動的な出来事は、感覚系で処理され た後、情動的な出来事に関する顕在記憶の形成のために内側側頭葉に送られ、情動的記憶の形成のために扁桃体へ送られる。記憶からの手がかりが生じ、感覚系によって処理されると、その手がかりは、内側側頭葉で 情動的な出来事に関する意識的な記憶の検索につながるが、扁桃体で検索したとき、情動的反応の表出につ ながる。<ref>[[sp:Emotional memory|'''Joseph E. LeDoux'''<br>Emotional memory<br>''Scholarpedia'':2007, 2(7):1806]]</ref>を一部改定。]]


== 脳損傷患者を対象とした神経心理学的研究 ==
 情動的記憶や関連する生理指標を研究した代表例として、[[恐怖条件づけ]]や[[パブロフの犬]]の実験などが知られている。また、[[機能的核磁気共鳴イメージング]] ([[fMRI]])と[[嫌悪条件づけ課題]]を健常な実験参加者に応用し、対人関係での[[ストレス]]が脳にどのような反応を起こしているかを検討した研究も行われている<ref name=ref1><pubmed> 19803681</pubmed></ref>。Iidakaらの研究では、実験参加者は画面に映る男性から、罵倒するような[[快・不快|不快]]な声を何回も聞かせられ、次第にこの男性の顔を見るだけで[[自律神経系]]の過活動が生じることが、[[皮膚電気反応]]の結果から明らかになった<ref name=ref1/>。さらにfMRI の結果では、[[側頭葉]]にある[[扁桃体]]の活動が不快な声と顔の情報を統合する役割を果たしていることが分かった。この実験結果は、われわれが日常生活で受ける心理社会的ストレスの神経基盤を解明し、ストレスに対する効果的な対処法を探る基礎的な知見を提供すると考えられる。
 [[扁桃体]] (amygdala)の損傷による情動記憶への影響については、これまでに複数の神経心理学的研究が報告されている。


 たとえば、[[ウルバッハ・ヴィーテ病]] (Urbach Wiethe disease) による扁桃体損傷の患者では、健常統制群や脳損傷患者の統制群で観察されるような、情動を喚起させられる映像に対する記憶の促進効果が認められなかったことが示されている<ref><pubmed> 10456070 </pubmed></ref><ref><pubmed> 10837507 </pubmed></ref>。また別の研究では、ウルバッハ・ヴィーテ病の患者と年齢や性別、教育歴、人種を統制された健常統制群との間で写真に関する記憶が比較され、情動的に中性な写真における記憶成績では群間に有意差が認められなかったのに対し、情動的にネガティブあるいはポジティブな写真に対する記憶では、ウルバッハ・ヴィーテ病の患者群の成績が統制群の成績と比較して有意に低下していることが報告されている<ref><pubmed> 12937075 </pubmed></ref>。
 また、Adolphsら<ref name=ref2><pubmed>7666173</pubmed></ref>は、[[海馬]]や側頭葉の内部には損傷がなく扁桃体に限局した損傷のある患者 (SM)に対し、さまざまな神経心理学的検査を行った。その結果、[[感覚]]・[[知覚]]機能、[[運動]]、[[記憶]]、[[言語]]などの機能には特に障害はみられなかった。しかし、いろいろな表情の顔写真をみせ、それぞれの表情から推測される感情の種類とその強さを判断する[[テスト]]を実施した結果、喜びや悲しみなどの感情では、顔写真の表情から推測される感情の強さの強弱の評価をすることができたが、[[恐怖]]の感情をあらわす顔写真の呈示では、恐怖の感情を認識することも、恐怖の感情の強さを評価することもできなかった。これらの先行研究から、扁桃体は、[[嫌悪]]や恐怖などの不快な情動に対して反応することが明らかであり、情動的記憶を処理する上で非常に重要な領域である。


 さらに扁桃体と情動記憶との関係は、[[アルツハイマー病]]患者 ([[Alzheimer’s disease]])に対する研究でも指摘されている。たとえば、[[wj:阪神・淡路大震災|阪神・淡路大震災]]を経験したアルツハイマー病の患者に対して、情動的記憶としての震災に関する記憶の[[想起]]成績と、[[MRI]]で測定された[[海馬]] (hippocampus)および扁桃体の委縮の程度を検証したところ、情動記憶としての震災の記憶の成績は海馬よりも扁桃体の委縮の程度とより強く相関していた<ref><pubmed> 9989557 </pubmed></ref>。これらの結果は、扁桃体の損傷の程度は情動的な記憶の障害の程度と選択的に関係していることを示唆している。
 また、情動的記憶には、個人的に重大な出来事や世界的な重大事件に関する非常に詳細な記憶で非常に強い感情を伴う「[[フラッシュバルブ記憶]]」、情動が伴うにおいの心地良さ(良いにおい)や心地悪さ(悪臭)のような、におい情報を手がかりにした「[[プルースト現象]]」、記憶に伴う感情強度と現在の感情が一致した際に記憶を[[想起]]しやすくなる「[[気分一致効果]]」などが含まれる。


==脳機能イメージング研究 ==
 特に、フラッシュバルブ記憶は、人が生活の中で経験したさまざまな出来事に関する記憶の総体である「[[自伝的記憶]]」の一種であるとされており、代表例として[[wj:ケネディー大統領暗殺事件|ケネディー大統領暗殺事件]]や、[[wj:アメリカ同時多発テロ|アメリカ同時多発テロ]]9.11などの出来事を鮮明に記憶している現象などが挙げられる。また、フラッシュバルブ記憶は、年齢、文化、性別により記憶のされ方が異なることが論じられている。
===記銘 ===
 [[fMRI]]などの脳機能イメージング研究によって、情動的記憶の記銘や想起に関する神経基盤が同定されている。情動的記憶の記銘に関するfMRI研究では、情動的にポジティブおよびネガティブな写真を記銘している際には、情動的に中性の写真を記銘する場合と比較して、扁桃体や海馬、および[[内嗅皮質]] (entorhinal cortex)の賦活が有意に増加し、また情動的な写真を記銘している際にのみ、扁桃体の賦活が内嗅皮質の賦活と有意に正の相関関係を示すことが報告されている<ref><pubmed> 15182723 </pubmed></ref>。
 
 また別の研究では、[[側頭葉てんかん]]患者を対象として情動的な単語を記銘している際の賦活をfMRIで計測し、かつこれらの症例の扁桃体および海馬の体積をMRIで計測している<ref><pubmed> 14758364 </pubmed></ref>。その結果、海馬の賦活は情動的単語と情動的に中性な単語の両方の記憶成績と有意に相関していたが、扁桃体の賦活は情動的単語の成績のみと有意に相関しており、また情動的単語の記銘に関連する扁桃体および海馬の賦活は、それぞれ海馬および扁桃体の体積の個人差と有意に相関していることが示されている。これらのことから、情動的記憶の記銘には扁桃体と海馬や[[海馬傍回]] (parahippocampal gyrus)を含む側頭葉内側面領域との間の相互作用が重要な役割を果たしていることが示唆される。
 
===想起 ===
 情動的記憶の想起に関する神経基盤を検証したfMRI研究においても、扁桃体と海馬との間の相互作用の重要性が指摘されている。
 
 たとえば、情動的写真と情動的に中性の写真とを記銘してから1年後に、それらの写真を想起している際の賦活を計測しているfMRI研究では、情動的に中性な記憶の想起と比較して情動的な記憶の想起に関して扁桃体や海馬、内嗅皮質の賦活が有意に増加しており、扁桃体と海馬は特にFamiliarityよりもRecollectionに有意に関連していることが示されている<ref><pubmed> 15703295 </pubmed></ref>。さらにこの研究では、情動的な写真を想起している際の扁桃体と海馬の賦活の相関は、情動的に中性な写真を想起している際よりも強いことも同定されている。
 
 このような情動的記憶の想起に関連する扁桃体と海馬の相互作用については、他のfMRI研究においても認められている<ref><pubmed> 16476670 </pubmed></ref>。このように、情動的記憶の記銘や想起に関連する多くの[[脳機能イメージ研究]]において同定されている扁桃体と海馬との間の相互作用は、情動記憶において扁桃体と他の脳領域との関係が重要であるとする[[modulation hypothesis]]<ref><pubmed> 12183206 </pubmed></ref>を一部支持している。


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
* [[感情]]
* [[記憶の三過程(記銘、保持、想起)]]
* [[記憶の分類]]
* [[機能的核磁気共鳴装置]]
* [[恐怖条件づけ]]
* [[情動]]
* [[情動]]
* [[情動系神経回路]]
* [[心的外傷後ストレス障害]]
* [[パペッツの情動回路]]
* [[扁桃体]]
* [[扁桃体]]
* [[海馬]]
 
* [[側頭葉]]
== 外部リンク ==
* [[忘却]]
* Scholarpedia [[sp:Emotional_memory|Emotional Memory]]
* [[符号化]]
* Wikipedia [[w:Flashbulb_memory|Flashbulb memory]]
* Wikipedia [[wj:フラッシュバルブ記憶|フラッシュバルブ記憶]]
* Wikipedia [[w:Amygdala|Amygdala]]
* Wikipedia [[wj:扁桃体|扁桃体]]


== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
<references/>
<references/>

2015年12月9日 (水) 09:06時点における版

*間野 陽子
京都大学文学研究科心理学研究室 日本学術振興会特別研究員(RPD)
米田 英嗣
京都大学白眉センター
DOI:10.14931/bsd.6214 原稿受付日:2015年8月2日 原稿完成日:201X年X月X日
担当編集委員:定藤 規弘(自然科学研究機構生理学研究所 大脳皮質機能研究系)
*:責任著者

英語名:emotional memory 独:emotionales Gedächtnis 仏:mémoire émotionnelle

同義語:フラッシュバルブ記憶 (flashbulb memory)

 情動的記憶は情動的な出来事を経験した際の記憶のことであり、その出来事に付随する情動(感情)の強度によって記憶の記銘・保持・想起の仕方に違いが見られる。情動的記憶には、顕在記憶システム (explicit memory systems)と潜在記憶システム (implicit memory systems)の2種類があると考えられている。顕在記憶システムは、情動に関連する記憶や情動的な出来事の顕在記憶が内側側頭葉で処理されている。潜在記憶システムは、情動的記憶や情動的反応の表出が扁桃体で処理されている。

図. 情動的記憶 vs. 情動に関連する記憶。左図:情動的記憶の形成
情動的な出来事は、感覚系で処理され た後、情動的な出来事に関する顕在記憶の形成のために内側側頭葉に送られ、情動的記憶の形成のために扁桃体へ送られる。記憶からの手がかりが生じ、感覚系によって処理されると、その手がかりは、内側側頭葉で 情動的な出来事に関する意識的な記憶の検索につながるが、扁桃体で検索したとき、情動的反応の表出につ ながる。[1]を一部改定。

 情動的記憶や関連する生理指標を研究した代表例として、恐怖条件づけパブロフの犬の実験などが知られている。また、機能的核磁気共鳴イメージング (fMRI)と嫌悪条件づけ課題を健常な実験参加者に応用し、対人関係でのストレスが脳にどのような反応を起こしているかを検討した研究も行われている[2]。Iidakaらの研究では、実験参加者は画面に映る男性から、罵倒するような不快な声を何回も聞かせられ、次第にこの男性の顔を見るだけで自律神経系の過活動が生じることが、皮膚電気反応の結果から明らかになった[2]。さらにfMRI の結果では、側頭葉にある扁桃体の活動が不快な声と顔の情報を統合する役割を果たしていることが分かった。この実験結果は、われわれが日常生活で受ける心理社会的ストレスの神経基盤を解明し、ストレスに対する効果的な対処法を探る基礎的な知見を提供すると考えられる。

 また、Adolphsら[3]は、海馬や側頭葉の内部には損傷がなく扁桃体に限局した損傷のある患者 (SM)に対し、さまざまな神経心理学的検査を行った。その結果、感覚知覚機能、運動記憶言語などの機能には特に障害はみられなかった。しかし、いろいろな表情の顔写真をみせ、それぞれの表情から推測される感情の種類とその強さを判断するテストを実施した結果、喜びや悲しみなどの感情では、顔写真の表情から推測される感情の強さの強弱の評価をすることができたが、恐怖の感情をあらわす顔写真の呈示では、恐怖の感情を認識することも、恐怖の感情の強さを評価することもできなかった。これらの先行研究から、扁桃体は、嫌悪や恐怖などの不快な情動に対して反応することが明らかであり、情動的記憶を処理する上で非常に重要な領域である。

 また、情動的記憶には、個人的に重大な出来事や世界的な重大事件に関する非常に詳細な記憶で非常に強い感情を伴う「フラッシュバルブ記憶」、情動が伴うにおいの心地良さ(良いにおい)や心地悪さ(悪臭)のような、におい情報を手がかりにした「プルースト現象」、記憶に伴う感情強度と現在の感情が一致した際に記憶を想起しやすくなる「気分一致効果」などが含まれる。

 特に、フラッシュバルブ記憶は、人が生活の中で経験したさまざまな出来事に関する記憶の総体である「自伝的記憶」の一種であるとされており、代表例としてケネディー大統領暗殺事件や、アメリカ同時多発テロ9.11などの出来事を鮮明に記憶している現象などが挙げられる。また、フラッシュバルブ記憶は、年齢、文化、性別により記憶のされ方が異なることが論じられている。

関連項目

外部リンク

参考文献

  1. Joseph E. LeDoux
    Emotional memory
    Scholarpedia:2007, 2(7):1806
  2. 2.0 2.1 Iidaka, T., Saito, D.N., Komeda, H., Mano, Y., Kanayama, N., Osumi, T., ..., & Sadato, N. (2010).
    Transient neural activation in human amygdala involved in aversive conditioning of face and voice. Journal of cognitive neuroscience, 22(9), 2074-85. [PubMed:19803681] [WorldCat] [DOI]
  3. Adolphs, R., Tranel, D., Damasio, H., & Damasio, A.R. (1995).
    Fear and the human amygdala. The Journal of neuroscience : the official journal of the Society for Neuroscience, 15(9), 5879-91. [PubMed:7666173] [WorldCat]