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 ソマティック・マーカー(somatic marker;身体信号)仮説とは,Damasio et al. (1991)[1]により提案されDamasio (1994)[2]などで精緻化された,意思決定において[[情動]]的な身体反応が重要な信号を提供するという仮説である.その処理において腹内側[[前頭前野]]が重要な役割を果たすとされる.
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<font size="+1">[http://researchmap.jp/read0091864 佐藤 弥]</font><br>
''京都大学 霊長類研究所''<br>
DOI:<selfdoi /> 原稿受付日:2014年12月11日 原稿完成日:2014年月日<br>
担当編集委員:[http://researchmap.jp/read0048432 定藤 規弘](自然科学研究機構生理学研究所 大脳皮質機能研究系)<br>
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仮説の提案と修正の経緯
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 ソマティック・マーカー仮説は,腹内側前頭前野損傷患者での意思決定の障害を説明するためにDamasio et al. (1991)[1]により提案された.こうした患者では,知能には問題がないにもかかわらず,日常生活で適切に意思決定できない.患者では,情動喚起刺激に対する末梢の[[皮膚]]電気反応に障害が示された.こうした知見に基づき研究者は,一見情動とは関係のない意思決定においても,情動的な身体反応の信号が不可欠な役割を果たしていると提案した.
 ソマティック・マーカー(somatic marker;身体信号)仮説とは、Damasio et al. (1991)<ref name=ref1><pubmed></pubmed></ref>により提案されDamasio (1994)<ref name=ref2><pubmed></pubmed></ref>などで精緻化された、意思決定において[[情動]]的な身体反応が重要な信号を提供するという仮説である。その処理において腹内側[[前頭前野]]が重要な役割を果たすとされる。
 Damasio (1994)[2]では,仮説の拡張・精緻化が行われた.上述の身体反応が実際に喚起され脳に信号が送られる経路(身体ループ)に加え,脳内で身体反応をシミュレーションする経路(あたかも身体ループ)があると提案された.また神経基盤として,生得的あるいは条件づけで学習した情動刺激による身体反応の喚起には[[扁桃体]]が関与し,思考や記憶を介する情動的身体反応の喚起には腹内側前頭前野が関与し,身体反応の脳での処理およびあたかもループでの脳内シミュレーションには[[体性感覚野]]が関与すると提案した.
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 Bechara et al. (1997)[3]では,仮説を実証する知見として,[[前頭葉]]腹内側部損傷患者および健常者を対象としたアイオワ・ギャンブリング課題の実験データが報告された[3].この課題では,テーブルの上に4組のカード束が置かれた.このうち2組は,利益が高いがときに出る損失も高く長期的には損失をもたらす悪い組として設定された.他の2組は,利益と損失が共に低く長期的には利益をもたらす良い組として設定された.被験者は,最初に一定額の貸付金を渡され,何度もカードをめくって最終的に多くの利益を得るように求められた.課題中は皮膚電気反応が計測され,自覚している方略の報告も求められた.その結果,健常者は時間と共に良い組を選択するようになり課題成績が向上したが,前頭葉腹内側部損傷患者では悪い組を選択し続け課題成績が向上しなかった.皮膚電気反応において,健常者では悪い組の選択前に良い組の場合よりも高い反応が獲得されたが,前頭葉腹内側部損傷患者ではこうした反応が示されなかった.方略の報告と課題成績との間には関係が示されず,健常者は方略に気づくより前に課題成績が向上し,前頭葉腹内側部損傷患者では適切な方略に気づいても成績は変わらなかった.こうした結果に基づいて研究者は,適切な意思決定には腹内側前頭前野が引き起こす[[無意識]]の情動的身体反応が不可欠であると提案した.
 Bechara & Damasio (2005)[4]では,いくつかの研究知見に基づいて,腹内側前頭前野の後方・前方がそれぞれより短期的・長期的な意思決定に関わること,左側・右側がそれぞれ[[快・不快]]の意思決定に関与すること,情動が不適切に喚起された場合には意思決定に不利益をもたらす場合があること,などが追加的に提案された.
 ソマティック・マーカー仮説を支持する実証知見は,Damasioら以外のグループの心理学研究や脳画像研究からも報告されている.例えば,Suzuki et al. (2003)[5]では,健常者を対象としてアイオワ・ギャンブリング課題を遂行中の皮膚電気反応が計測され,課題初期の選択における皮膚電気反応が弱いほど課題後期の悪い組の選択が多くなることが示された.Northoff et al. (2006)[6]の健常者を対象としたfMRI研究では,情動刺激に対する腹内側前頭前野の活動が,アイオワ・ギャンブリング課題の課題成績と対応することが示された.


ソマティック・マーカー仮説への批判
==仮説の提案と修正の経緯==
 ソマティック・マーカー仮説には批判も提出されており,現在でも議論は続いている[7].例えば,Fellows & Farah (2005)[8]では,アイオワ・ギャンブリング課題において,悪い組で最初に損失を与えた場合には腹内側前頭前野損傷患者でも健常者と同等の成績が示されたことから,Bechara et al. (1997)[3]の結果は腹内側前頭前野損傷で示される逆転学習の障害で説明可能であると提案されている.Maia & McClelland (2004)[9]では,健常者を対象としたアイオワ・ギャンブリング課題において,意識的な方略を精緻化された質問で調べると課題成績と方略に対応が示されたことから,必ずしも無意識の身体反応を想定する必要はないと提案されている.
 ソマティック・マーカー仮説は、腹内側前頭前野損傷患者での意思決定の障害を説明するためにDamasio et al. (1991)<ref name=ref1 />により提案された。こうした患者では、知能には問題がないにもかかわらず、日常生活で適切に意思決定できない。患者では、情動喚起刺激に対する末梢の[[皮膚]]電気反応に障害が示された。こうした知見に基づき研究者は、一見情動とは関係のない意思決定においても、情動的な身体反応の信号が不可欠な役割を果たしていると提案した。
 
 Damasio (1994)<ref name=ref2 />では、仮説の拡張・精緻化が行われた。上述の身体反応が実際に喚起され脳に信号が送られる経路(身体ループ)に加え、脳内で身体反応をシミュレーションする経路(あたかも身体ループ)があると提案された。また神経基盤として、生得的あるいは条件づけで学習した情動刺激による身体反応の喚起には[[扁桃体]]が関与し、思考や記憶を介する情動的身体反応の喚起には腹内側前頭前野が関与し、身体反応の脳での処理およびあたかもループでの脳内シミュレーションには[[体性感覚野]]が関与すると提案した。
 
 Bechara et al. (1997)<ref name=ref3><pubmed></pubmed></ref>では、仮説を実証する知見として、[[前頭葉]]腹内側部損傷患者および健常者を対象としたアイオワ・ギャンブリング課題の実験データが報告された<ref name=ref3 />。この課題では、テーブルの上に4組のカード束が置かれた。このうち2組は、利益が高いがときに出る損失も高く長期的には損失をもたらす悪い組として設定された。他の2組は、利益と損失が共に低く長期的には利益をもたらす良い組として設定された。被験者は、最初に一定額の貸付金を渡され、何度もカードをめくって最終的に多くの利益を得るように求められた。課題中は皮膚電気反応が計測され、自覚している方略の報告も求められた。その結果、健常者は時間と共に良い組を選択するようになり課題成績が向上したが、前頭葉腹内側部損傷患者では悪い組を選択し続け課題成績が向上しなかった。皮膚電気反応において、健常者では悪い組の選択前に良い組の場合よりも高い反応が獲得されたが、前頭葉腹内側部損傷患者ではこうした反応が示されなかった。方略の報告と課題成績との間には関係が示されず、健常者は方略に気づくより前に課題成績が向上し、前頭葉腹内側部損傷患者では適切な方略に気づいても成績は変わらなかった。こうした結果に基づいて研究者は、適切な意思決定には腹内側前頭前野が引き起こす[[無意識]]の情動的身体反応が不可欠であると提案した。
 
 Bechara & Damasio (2005)<ref name=ref4><pubmed></pubmed></ref>では、いくつかの研究知見に基づいて、腹内側前頭前野の後方・前方がそれぞれより短期的・長期的な意思決定に関わること、左側・右側がそれぞれ[[快・不快]]の意思決定に関与すること、情動が不適切に喚起された場合には意思決定に不利益をもたらす場合があること、などが追加的に提案された。
 
 ソマティック・マーカー仮説を支持する実証知見は、Damasioら以外のグループの心理学研究や脳画像研究からも報告されている。例えば、Suzuki et al. (2003)<ref name=ref5><pubmed></pubmed></ref>では、健常者を対象としてアイオワ・ギャンブリング課題を遂行中の皮膚電気反応が計測され、課題初期の選択における皮膚電気反応が弱いほど課題後期の悪い組の選択が多くなることが示された。Northoff et al. (2006)<ref name=ref6><pubmed></pubmed></ref>の健常者を対象としたfMRI研究では、情動刺激に対する腹内側前頭前野の活動が、アイオワ・ギャンブリング課題の課題成績と対応することが示された。
 
==ソマティック・マーカー仮説への批判==
 ソマティック・マーカー仮説には批判も提出されており、現在でも議論は続いている<ref name=ref7><pubmed></pubmed></ref>。例えば、Fellows & Farah (2005)<ref name=ref8><pubmed></pubmed></ref>では、アイオワ・ギャンブリング課題において、悪い組で最初に損失を与えた場合には腹内側前頭前野損傷患者でも健常者と同等の成績が示されたことから、Bechara et al. (1997)<ref name=ref3 />の結果は腹内側前頭前野損傷で示される逆転学習の障害で説明可能であると提案されている。Maia & McClelland (2004)<ref name=ref9><pubmed></pubmed></ref>では、健常者を対象としたアイオワ・ギャンブリング課題において、意識的な方略を精緻化された質問で調べると課題成績と方略に対応が示されたことから、必ずしも無意識の身体反応を想定する必要はないと提案されている。
 
==参考文献==
<references />


引用文献
1. Antonio R. Damasio, Daniel Tranel, Hanna C. Damasio
1. Antonio R. Damasio, Daniel Tranel, Hanna C. Damasio
Somatic markers and the guidance of behavior: Theory and preliminary testing.
Somatic markers and the guidance of behavior: Theory and preliminary testing.
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A reexamination of the evidence for the somatic marker hypothesis: what participants really know in the Iowa gambling task.
A reexamination of the evidence for the somatic marker hypothesis: what participants really know in the Iowa gambling task.
Proc Natl Acad Sci U S A, 2004, 101, 16075-16080.
Proc Natl Acad Sci U S A, 2004, 101, 16075-16080.
(執筆者:佐藤弥,担当編集委員:定藤規弘)

2014年12月11日 (木) 17:24時点における版

佐藤 弥
京都大学 霊長類研究所
DOI:10.14931/bsd.5485 原稿受付日:2014年12月11日 原稿完成日:2014年月日
担当編集委員:定藤 規弘(自然科学研究機構生理学研究所 大脳皮質機能研究系)

 ソマティック・マーカー(somatic marker;身体信号)仮説とは、Damasio et al. (1991)[1]により提案されDamasio (1994)[2]などで精緻化された、意思決定において情動的な身体反応が重要な信号を提供するという仮説である。その処理において腹内側前頭前野が重要な役割を果たすとされる。

仮説の提案と修正の経緯

 ソマティック・マーカー仮説は、腹内側前頭前野損傷患者での意思決定の障害を説明するためにDamasio et al. (1991)[1]により提案された。こうした患者では、知能には問題がないにもかかわらず、日常生活で適切に意思決定できない。患者では、情動喚起刺激に対する末梢の皮膚電気反応に障害が示された。こうした知見に基づき研究者は、一見情動とは関係のない意思決定においても、情動的な身体反応の信号が不可欠な役割を果たしていると提案した。

 Damasio (1994)[2]では、仮説の拡張・精緻化が行われた。上述の身体反応が実際に喚起され脳に信号が送られる経路(身体ループ)に加え、脳内で身体反応をシミュレーションする経路(あたかも身体ループ)があると提案された。また神経基盤として、生得的あるいは条件づけで学習した情動刺激による身体反応の喚起には扁桃体が関与し、思考や記憶を介する情動的身体反応の喚起には腹内側前頭前野が関与し、身体反応の脳での処理およびあたかもループでの脳内シミュレーションには体性感覚野が関与すると提案した。

 Bechara et al. (1997)[3]では、仮説を実証する知見として、前頭葉腹内側部損傷患者および健常者を対象としたアイオワ・ギャンブリング課題の実験データが報告された[3]。この課題では、テーブルの上に4組のカード束が置かれた。このうち2組は、利益が高いがときに出る損失も高く長期的には損失をもたらす悪い組として設定された。他の2組は、利益と損失が共に低く長期的には利益をもたらす良い組として設定された。被験者は、最初に一定額の貸付金を渡され、何度もカードをめくって最終的に多くの利益を得るように求められた。課題中は皮膚電気反応が計測され、自覚している方略の報告も求められた。その結果、健常者は時間と共に良い組を選択するようになり課題成績が向上したが、前頭葉腹内側部損傷患者では悪い組を選択し続け課題成績が向上しなかった。皮膚電気反応において、健常者では悪い組の選択前に良い組の場合よりも高い反応が獲得されたが、前頭葉腹内側部損傷患者ではこうした反応が示されなかった。方略の報告と課題成績との間には関係が示されず、健常者は方略に気づくより前に課題成績が向上し、前頭葉腹内側部損傷患者では適切な方略に気づいても成績は変わらなかった。こうした結果に基づいて研究者は、適切な意思決定には腹内側前頭前野が引き起こす無意識の情動的身体反応が不可欠であると提案した。

 Bechara & Damasio (2005)[4]では、いくつかの研究知見に基づいて、腹内側前頭前野の後方・前方がそれぞれより短期的・長期的な意思決定に関わること、左側・右側がそれぞれ快・不快の意思決定に関与すること、情動が不適切に喚起された場合には意思決定に不利益をもたらす場合があること、などが追加的に提案された。

 ソマティック・マーカー仮説を支持する実証知見は、Damasioら以外のグループの心理学研究や脳画像研究からも報告されている。例えば、Suzuki et al. (2003)[5]では、健常者を対象としてアイオワ・ギャンブリング課題を遂行中の皮膚電気反応が計測され、課題初期の選択における皮膚電気反応が弱いほど課題後期の悪い組の選択が多くなることが示された。Northoff et al. (2006)[6]の健常者を対象としたfMRI研究では、情動刺激に対する腹内側前頭前野の活動が、アイオワ・ギャンブリング課題の課題成績と対応することが示された。

ソマティック・マーカー仮説への批判

 ソマティック・マーカー仮説には批判も提出されており、現在でも議論は続いている[7]。例えば、Fellows & Farah (2005)[8]では、アイオワ・ギャンブリング課題において、悪い組で最初に損失を与えた場合には腹内側前頭前野損傷患者でも健常者と同等の成績が示されたことから、Bechara et al. (1997)[3]の結果は腹内側前頭前野損傷で示される逆転学習の障害で説明可能であると提案されている。Maia & McClelland (2004)[9]では、健常者を対象としたアイオワ・ギャンブリング課題において、意識的な方略を精緻化された質問で調べると課題成績と方略に対応が示されたことから、必ずしも無意識の身体反応を想定する必要はないと提案されている。

参考文献

  1. 1.0 1.1 Resource not found in PubMed.
  2. 2.0 2.1 Resource not found in PubMed.
  3. 3.0 3.1 3.2 Resource not found in PubMed.
  4. Resource not found in PubMed.
  5. Resource not found in PubMed.
  6. Resource not found in PubMed.
  7. Resource not found in PubMed.
  8. Resource not found in PubMed.
  9. Resource not found in PubMed.

1. Antonio R. Damasio, Daniel Tranel, Hanna C. Damasio Somatic markers and the guidance of behavior: Theory and preliminary testing. Frontal lobe function and dysfunction, 1991 (pp 217-229). In H. S. Levin, H. M. Eisenberg, A. L. Benton (Ed.), New York, NY: Oxford University Press.

2. Antonio R. Damasio Descartes' error: Emotion, reason, and the human brain, 1994 New York, NY: Quill Publishing

3. Antoine Bechara, Hanna Damasio, Daniel Tranel, Antonio R. Damasio Deciding advantageously before knowing the advantageous strategy. Science, 1997, 275, 1293-1295.

4. Antoine Bechara, Antonio R. Damasio The somatic marker hypothesis: A neural theory of economic decision. Games and Economic Behavior, 2005, 52, 336-372.

5. Atsunobu Suzuki, Akihisa Hirota, Noriyoshi Takasawa, Kazuo Shigemasu Application of the somatic marker hypothesis to individual differences in decision making. Biol Psychol, 2003, 65, 81-88.

6. Gerog Northoff, Simone Grimm, Heinz Boeker, Conny Schmidt, Felix Bermpohl, Alexander Heinzel, Daniel Hell, Peter Boesiger Affective judgment and beneficial decision making: ventromedial prefrontal activity correlates with performance in the Iowa Gambling Task. Hum Brain Mapp, 2006, 27, 572-587.

7. Barnaby D. Dunn, Tim Dalgleish, Andrew Lawrence The somatic marker hypothesis: a critical evaluation. Neurosci Biobehav Rev, 2006, 30, 239-271.

8. Lesley K. Fellows, Martha J. Farah Different underlying impairments in decision-making following ventromedial and dorsolateral frontal lobe damage in humans. Cereb Cortex, 2005, 15, 58-63.

9. Tiago V. Maia, James L. McClelland A reexamination of the evidence for the somatic marker hypothesis: what participants really know in the Iowa gambling task. Proc Natl Acad Sci U S A, 2004, 101, 16075-16080.