情動
英語名:emotion 独:Gefühl 仏:émotion
情動の定義
情動(emotion)は、生体に入力された感覚刺激への評価に基づいて生ずる1) 生理反応(自律神経系、免疫系、内分泌系の反応)、2)行動反応(接近、回避、攻撃、表情、姿勢など)および3)主観的情動体験の3要素からなる。この情動は短期的に生じる原初的な感情で、比較的強い反応と定義されており、中長期的にゆるやかに持続する強度の弱い気分(mood)とは区別される。また情動と気分の両者を総称して感情と定義することもある。しかしながら、情動と感情との区別にかかわる厳密な定義はなく、研究領域や研究者間によってその扱いが異なる点に注意が必要である。
情動の種類は、齧歯類においてもある程度ヒトと共通した基盤を有する怒り・恐怖・不安などの基本情動(basic emotion)から、高次の社会的感情(social emotion:嫉妬・困惑・罪悪感・恥など)までの多岐に渡る。
情動の心理学的理論
情動の末梢起源説
19世紀末、心理学者のウィリアム・ジェームズ(William James)(1894)[1]により提唱された情動理論は、カール・ランゲ(Carl Lange)(1885)の主張を包含したジェームズ-ランゲ説として包括され、今日は「情動の末梢起源説(peripheral theory of emotion)」として広く知られる。ジェームズは骨格筋と内臓の反応に、ランゲは血管循環に注目した点においてその内容は異なるが、彼らに共通するのは、刺激によって引き起こされた身体反応が脳に伝達されて主観的な情動経験(emotional experience)が成立すると主張する点にある。いずれも「悲しいから泣く」のではなく「泣くから悲しくなる」と考えるのである。
情動の末梢起源説は、情動の中枢起源説(1.2)により以下に述べる問題点が指摘され、さらには情動の二要因説(1.3)の登場によっておおよそ淘汰されたかのように見えた。しかしながら近年、顔面フィードバック説(facial feedback theory)やソマティック・マーカー(somatic marker)仮説等に見られるように、その理説が一部評価されて点で特徴的である。
まず、顔面フィードバック説は、顔面筋肉の変化が主観的な情動体験に先立つこと、すなわち「怒り」ならば「怒り」の情動と対応する顔面筋肉の変化が、大脳辺縁系や脳幹・視床下部などの中枢神経系にフィードバックされ、その結果「怒り」の主観的体験が生じるとする。もう一方のソマティック・マーカー仮説は、主に自律神経系(autonomic nervous system)からフィードバックされるナイーブな身体感覚が前頭前野腹内側部(2-3)において表象され、これと外部環境に関する認知の統合が意思決定を最適化すると主張する。両仮説ともにおおよそ共通して上向性の自己受容情報が情動に及ぼす影響を重視することから、情動の末梢起源説に類するものと考えられている。
情動の中枢起源説
ジェームズ-ランゲ説に対する代表的な批判として「情動の中枢起源説(central theory of emotion)」が知られる。この仮説は生理学者のウォルター・ブラッドフォード・キャノン(Walter Bradford Cannon)によってはじめに提唱され、続けてその仮説を実証したフィリップ・バード (Philip Bird)の二名の名前をとってキャノン・バード説と呼ばれる(Cannon, 1927)。
彼らは、ジェームズ-ランゲ説の問題点として、1)どのような刺激が情動反応を引き起こす刺激内容の記述が不明確であること、2)身体の生理的反応が同様であっても異なる情動が生じること、3)末梢反応の誘発を阻害してもなお情動が誘発される点などを指摘し、情動の主観的体験は、脳にもたらされる身体情報から生じるのではなく、脳における感情的刺激の評価の結果生ずるものと主張した。
情動の二要因説
末梢起源説と中枢起源説は、情動の由来の説明について互い対立する一方で、外部刺激による末梢反応が、定式化した情動体験をもたらす考える点で共通する。言い換えるならば、両者の仮説は、同一の身体の生理的変化から異質の情動体験が生じうることを説明できないという弱点を有するのである。こうした批判を基に心理学者のスタンレー・シャクター(Stanley Schachter)とジェローム・シンガー(Jerome Singer)は、情動二要因説(two factor theory of emotion)を提唱した。
情動二要因説において、情動は、知覚された非特異的な覚醒(arousal)を、自身を取り巻く状況についての情報や既存の知識に基づいて解釈するという二つの要因によって生じるとされる。その具体例として、心理学者のドナル・ドダットン(Donald Dutton)とアーサー・アロン(Arthur Aron)により示された「つり橋効果」が有名である。これは高所にあるつり橋を渡る際の生理的反応(不安に伴う心拍数の増加等)を、ともにつり橋を渡る異性への恋愛感情として誤って解釈・理解(帰属)しがちであるというものである。生理的な覚醒状態が同様であっても、その原因に対する帰属の結果に応じて、異なる情動が生じうる。
情動の神経科学的基盤
パペッツの回路
感覚器官より入力された外界の情報は、脳において分析・統合され、情動体験へと結びつく。神経解剖学者のジェームス・パペッツ(James Papez)により提唱された「パペッツの回路」は、情動に関わる仮説として古くから知られる[2]。ここでは、視床をはじめとして、視床下部(hypothalamus)、海馬(hippocampus)、帯状皮質(cingulate cortex)により形成される神経回路が情動を生ずると考える。「パペッツの回路」が注目された後、齧歯類、霊長類に関する研究の積み重ねとともに、近年は、機能的核磁気共鳴装置(fMRI: Functional magnetic resonance imaging)や陽電子断層撮像法(PET: Positron emission tomography)等のヒトを対象とした神経イメージング法(Neuro-imaging)による成果を基に、扁桃体(amygdala)や島(insula)、腹内側前頭前野(ventro medial prefrontal cortex: VMPFC)などの脳領域と情動の関わりが注目されている。
情動と扁桃体
知覚された刺激が生体にとって安全で報酬的あるか、あるいは脅威をもたらすものか否かを速やかに評価することは適応上欠かせない[3]。こうした感覚刺激に対する基本的な価値判断を行うのが、側頭葉内側部の上内側縁の左右に位置する扁桃体である。扁桃体は、異なる機能をもった複数の亜核(主には中心核、内側核、皮質核、基底核内側核、基底核外側)から構成され、情動的刺激を検出・評価するとともに、顔面神経と三叉神経を介した顔の表情筋の出力にも関わる。
情動刺激の検出・評価
扁桃体と情動機能に深い関わりがあることを示した例として、ハインリッヒ・クリューバー(Heinrich Klüver)とポール・ビューシー(Paul Bucy)により見出されたクリューバー・ビューシー症候群(Kluver-Bucy syndrome)が知られる。彼らは扁桃体を含む両側側頭葉の切除されたサルが、恐れをはじめとする基本的情動反応を欠き、本来サルにとっての脅威刺激である蛇や蜘蛛への恐怖反応を示さず、むしろそれらを手づかみし口にもってゆく口唇傾向や対象を選ばない食欲、性行動の異常を観察した。
その後の動物実験、損傷脳研究)[4]、ヒトを対象とした神経イメージング研究)[5][6]等においても、扁桃体がクモ、ヘビ、恐怖表情などの個体への脅威を示すシグナルの検出にかかわることがほぼ一貫して見出されている。この他にも扁桃体は、関与の程度は少ないものの他者の幸福情動を検出し[7]、外向性などの個人要因をも修飾しうるように、扁桃体は、基本情動の検出・認識、出力の基礎を成すものと考えられている。
社会的刺激の検出・評価
扁桃体は、知覚刺激の社会的評価次元の評価にも関与する。例えば、他人種のような外集団は意識的な修正に先立って否定的な情動を生ずる対象とされているが、他人種の顔が提示されると扁桃体が賦活し、その活性値は他人種に対する否定的な潜在的態度と正相関する。
あるいは、非定型発達(自閉症等)にともなう左扁桃体の機能低下ないし扁桃体を損傷すると、一般的に「近寄り難く信用できない」と評される顔の相貌に対し、これを「好ましい」と評価するポジティブシフトが生じる[8]。また、扁桃体にペプチドホルモンの一種であるオキシトシンを作用させると、提示される顔を魅力的に評価したり、あるいは他者一般への信頼感が増し、起こりうるリスクに対して寛容になる[9]。
情動と腹内側前頭前野
扁桃体は主に基本情動(basic emotion)の評価次元を担うのに対して、前頭前野の腹側部に位置する腹内側前頭前野は、道徳や罪悪感などの社会的感情やユーモアの理解に関わる。また、刺激に対するその時々の評価を行う扁桃体に対し、腹内側前頭前野は刺激・反応・結果(報酬または罰)の随伴性をモニターし、行為の価値を速やかに更新する。加えて、個体に中長期的な利益をはかる上で重要な衝動や欲求の制御過程にも関わるなど、より大局的な情報処理に関与する[10]。
この腹内側前頭前野に関わる象徴的な出来事として、アメリカ郊外で生じた爆発事故が広く知られている。1848年,鉄道工事の現場監督であったフィネアス・ゲイジ(Phineas Gage)は、爆発事故において腹内側前頭前野を損傷した。この事故において直径3㎝ほどの鉄棒が腹内側前頭前野を突抜けたものの、彼は一命を取り留め、感覚障害や麻痺もなく、言語機能も正常であった。しかしながら、本来は知的で、周囲に尊敬される人であったゲイジは、事故の後に衝動的になり、計画性のない場当たり的な生活を送るようになってしまった。腹内側前頭前野が個体の社会性を実現する上で欠かせない領域であることを示す象徴的な出来事である。
情動と意思決定
外界より入力された情報は、扁桃体の評価結果にもとづき脳幹、視床下部を介して末梢に出力される。そうした身体情報はふたたび上向系の伝達経路より脳に入力され、島皮質等を経由し、腹内側前頭前野へ投射される。こうした身体信号により基づく表象、および情動が思考や推論といった高次の認知過程を方向づけることが知られている。
例えば、ギャンブリング課題での意思決定の質は腹内側前頭前野を損傷すると低下する。ギャンブリング課題とは、一般的に複数あるカードの山のいずれからからカードを1枚づつ引いてゆき、カードに書かれている金額を獲得したり失ったりする中で、より多くの金額を稼ぐことを目指すものである。カードの山にはハイリスク・ハイリターン、およびローリスク・ローリターンのものがあり、前者の山からカードを引き続けると中長期的には必ず損をするよう確率的に固定されている。
健常の場合、課題の進行に伴ってリスキーな前者の山を避けるようになるが、腹内側前頭前野の損傷者は短期的に得られる大報酬にこだわり続けた結果、大きく損をする。また後者においては、危険な山からカードを引く際の本来生じるはずの予期的な身体において生じるSkin Conductance Response(SCR)の減弱が観察される[11]。このように腹内側前頭前野は中・長期的な展望に立った意思決定を導くための基盤として、中枢-末梢の機能的連関のもと、リスクを回避し、意思決定を最適化に関わる。
関連項目
参考文献
- ↑
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(執筆者:野村理朗 担当編集委員:定藤規弘)