行動の抑制
英語名:Response inhibition, Behavioral inhibition
抑制とは、一般的に、いかなるプロセスも抑止・妨害・禁止する過程を指す。ニューロンの振る舞いや学習過程などで広く使われる言葉であるが、行動レベルにおける抑制とは、当該の状況で不適切かつ優位な行動を意識的に抑止する過程のことを指す。習慣等によって誘発されやすい行動を抑止し、セルフコントロールを可能にする。
認知心理学における行動の抑制
認知心理学においては、行動の抑制は、実行機能の一要素として位置づけられる。広く受け入れられているMiyakeらのモデルでは、実行機能は、行動の抑制、切り替え、更新の3要素に分割される(ただし、行動の抑制は他の2要素に比べると明確に抽出できない可能性も指摘されている)[1] [2]。また、行動の抑制自体も、妨害刺激の抑制や記憶における抑制過程と区別されるかが検討されており、その結果、行動の抑制と妨害刺激の抑制とは共通因子であるが、この2つは記憶における抑制過程とは区別されることが示されている[3]。行動の抑制の代表的な課題は、ストループ課題とゴー・ノーゴー課題である。
Stroop課題
アメリカの心理学者Stroopなどによって1935年に報告された課題で、参加者は、書かれている文字の色を答えるように教示される。文字の意味が、文字の色と関係の無い場合(中立文字)、参加者は容易に文字の色を答えることがで きる。しかしながら、文字の意味がその色と関係あり、しかも異なる場合(不一致文字)、参加者は困難を示す。例えば、赤色の「あお」という文字、緑色の 「きいろ」という文字の色を答えるような場合である。これは、文字の意味が、文字の色を答えることを阻害するためであり、参加者は文字の意味を答える傾向 (優位な行動)を抑制しなければならない。
ゴー・ノーゴー課題
認知心理学におけるゴー・ノーゴー課題では、単純な反応を抑止する能力を測定する。参加者は、ゴー試行(例えば、画面上にQ. P, Tの文字)ではできる限り早く反応(ボタン押しなど)を、ノーゴー試行(例えば、画面上にXの文字)では反応を抑止するように教示される。ノーゴー試行でどの程度エラーを産出したかが指標となる。
神経基盤
行動の抑制は、前頭前皮質の活動と密接に結びついている。特に、背外側前頭前皮質や下前頭領域の活動との関連が強い。例えば、前頭葉損傷患者は、Stroop課題においてエラーが多く反応時間も長いという [4] [5]。また、FMRIなどの神経イメージング研究の結果からは、Stroop課題を正しく遂行するには前部帯状回[6]や、背外側前頭前皮質を含む広範な領域が関与しているとされている[7] 。ゴー・ノーゴー課題においても前頭前皮質の重要性が示されている。背外側前頭前皮質を切除したサルにゴー・ノーゴー課題を与えると、ノーゴー試行におけるエラーが増える[8]。また、神経イメージング研究も、ゴー試行とノーゴー試行を含むブロックと、ゴー試行だけを含むブロックを比べた際に、前者において背外側前頭前皮質が有意に活動することを示している [9]。下前頭領域の重要性を強調する研究も多く、Aronによると、ゴー・ノーゴー課題のような反応を抑制する課題においては、右の下前頭領域が重要な役割を果たしているという [10] 。
これらの脳内領域は他の領域とどのように関連して行動の抑制を可能にするのだろうか。1つの仮説は、これらの前頭領域のニューロンが直接ターゲットとなる運動野や大脳基底核のニューロンの活動を抑制するというものである[10]。例えば、ノーゴー試行におけるサルの前頭前皮質のニューロンを刺激すると、運動野の電気活動のレベルが下がるという報告がある。
また、Munakataらによると、前頭前皮質の抑制プロセスには2通りあるという [11] 。彼女らは、前頭前皮質の役割は抽象的な情報を保持し、目標を表現することだと仮定したうえで、次のように議論している。
1つは、上記の仮説と類似しているが、前頭前皮質の一部の領域が、大脳基底核などのニューロンの活動を直接抑制するというものである。このプロセスは、ストレスへの対処や反応の抑制などのように、抑制すべき状況が明確なときに見られるといい、ゴー・ノーゴー課題での抑制プロセスに対応する。
もう1つは皮質内での抑制の場合であり、この際には間接的な抑制プロセスが見られるという。このプロセスでは、当該の目標を前頭前皮質で表現することで、その目標と関連する領域が活動する。この活動が、その目標到達を阻害する別の脳領域の活動と競合し、後者の活動を抑制するのである。例えば、Stroop課題の場合、文字の色という目標を表現することで、色処理と関連する領域の活動が増し、文字処理と関連する脳領域の活動を抑制するということである。
前頭前皮質以外で行動の抑制と関連がある領野は、島皮質と前補足運動野である[12]。前者は、行動の抑制そのものというよりは課題のルールや課題の準備と関連している可能性があるが、後者については、行動の抑制の中核システムであるという指摘もある。Sharpらは、前頭前皮質は予測していない出来事が生じた際の注意処理と関連しているにすぎず、前補足運度野を含む内側前頭皮質が行動の抑制の基盤であることを示唆している[13]。近年のメタ分析によっても、ゴー・ノーゴー課題において、前頭前皮質の関与は課題の負荷に依存するのに対し、前補足運動野は課題の負荷と独立して関与することが示されている[14]。
これらから、右の下前頭領域を含む前頭前皮質だけではなく、前補足運動野を含む内側前頭皮質が行動の抑制と関連している可能性が示唆される。
発達
発達心理学においては、行動の抑制は乳児期に萌芽がみられ、幼児期に著しく発達し、児童期から青年期まで緩やかに発達が続き、老年期にはその能力が低下することが知られている[15]。
乳児に対しては、探索課題が用いられる。探索課題では、実験者がある場所に物体を隠し、乳児にその物体を探索させる。それを数試行つづけた後に、実験者が物体を別の場所に隠す。その際に、乳児が正しく物体を探索できるかが検討される。この課題を含め、9ヶ月から12か月頃に行動の抑制の発達が見られる。
幼児に対しては、ストループ課題を修正したDay/Night課題が用いられる [16] 。この課題では、月を描いたカードと太陽を書いたカードを用意する。幼児は、月のカードには「昼」、太陽のカードには「夜」と反応するように教示される。幼児は、月のカードでは「昼」、太陽のカードでは「夜」と反応しやすいが、その傾向を抑制しなければならない。この課題を含め、3歳から5歳頃に行動の抑制は著しく発達する。児童期以降は、成人と同じStroop課題やゴー・ノーゴー課題が用いられ、12歳から16歳頃までに緩やかに発達することが示されている。
行動の抑制と関わりの深い前頭前野は、他の脳領域と比べても、成熟するのに時間を要することが知られている。例えば、シナプスの刈り込みの時期は視覚野に比べると、前頭前野は数年遅いし[17]、前頭前野の灰白質の成熟は、他の脳領域と比べて、長期間を要するというMRIの知見もある[18]。これは、行動の抑制が青年期にまでかけて発達が続くという行動の知見とも一致する。
また、近年の神経イメージング研究により、行動レベルの発達と一致して、前頭前野の活動にも変化が見られることが示されている。例えば、3歳から5歳にかけてルールを抑制する能力が発達する際には、下前頭領域の活動が有意に強くなることが示されている [19] 。
また、児童期以降においても、行動の抑制の発達と前頭前野の活動には密接な関連がある。ゴー・ノーゴー課題において年齢に伴った成績の変化が見られるが、その際の前頭前野の活動は全体的な活動から局所的な活動に変化する[20]。
関連項目
参考文献
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(執筆者:森口佑介 担当編集委員:定藤 規弘)