精神疾患
英語名:mental illness, mental disorder 独語:Geistesstörung 仏語:trouble du mental
精神疾患とは、平均や価値の基準から偏った精神状態のために、著しい苦痛や機能障害をもたらし得る多様な症状群を包括する上位概念である。病院などで診断される精神疾患という意味で、精神疾患は人に固有の問題であるが、それはたとえば青年期に発症する代表的な精神疾患である統合失調症を、主に幻覚や妄想といった主観的体験にもとづいて診断するので、人と同じ言語を持たない動物を統合失調症と診断することは原理上できないからである。一方、精神疾患にも分類されるナルコレプシーという睡眠障害は、突然の睡眠発作や筋肉の脱力を起こすが、ある遺伝子の変異を持つイヌにおいて、それと瓜二つの症状が観察されるように、精神疾患の背景にある中枢神経系の分子メカニズム・基本病態については、動物にも共通する変異が将来発見されるかもしれない。
診断・分類の妥当性・信頼性
従来、精神疾患は外因性、心因性、内因性に分類されることが多かった。外因性精神疾患とは、脳への直接的・生理的影響から発症する場合、心因性精神疾患とは、性格や環境からのストレスなど心理的影響から発症する場合、内因性精神疾患とは、外因性でも内因性でもない、今のところ原因不明であるが、おそらく遺伝的素因を背景として発症する場合をさした。簡素で分かりやすい分類法であるが、外因・心因・内因といった分け方の妥当性に、疑問を投げかける研究成果が蓄積していった。
たとえば、神経症として心因性とされたパニック障害や強迫性障害は、遺伝性や脳の機能や構造の偏移が明らかにされると、もっぱら心因性とは言い難く、内因性との区別もあいまいである。
操作的診断という新しい診断法が普及したのは、従来の診断法には信頼性について問題があったからである[1]。1970年前後に行われたアメリカ—イギリス診断研究の結果が契機となり、精神疾患の診断・分類法を見直す機運が高まったと言われている。以前からアメリカとイギリスで入院患者統計に大きな差があり、アメリカでは精神分裂病(現在の統合失調症に相当)が多く、イギリスでは躁うつ病(現在の双極性障害に相当)が多かった。2国間で真に有病率が異なるのか、医師の診断に偏りがあるのか調査したところ、結果は後者であった。
その後の国際的な多国間調査でも、この結果は支持され、1970年以降の精神科診断学にとって、診断の信頼性を向上させることは重要な課題であった。現在、ICD‐10 精神および行動の障害―臨床記述と診断ガイドライン(世界保健機関)[2]、あるいはDSM‐IV‐TR 精神疾患の診断・統計マニュアル(米国精神医学会)[3]には、100を優に越える診断カテゴリーが用意されている。後者において、精神疾患は16のカテゴリー、すなわち「通常、幼児期、小児期、または青年期に初めて診断される障害」、「せん妄、認知症、健忘障害、および他の認知障害」、「一般身体疾患による精神疾患」、「物質関連障害」、「統合失調症および他の精神病性障害」、「気分障害」、「不安障害」、「身体表現性障害」、「虚偽性障害」、「解離性障害」、「性障害および性同一性障害」、「摂食障害」、「睡眠障害」、「他のどこにも分類されない衝動制御の障害」、「適応障害」、「パーソナリティ障害」に大別されている。
F0 症状性を含む器質性精神障害 | F00 アルツハイマー病の認知症 F01 血管性認知症 F02 他に分類されるその他の疾患の認知症 F03 詳細不明の認知症 F04 器質性健忘症候群,アルコールその他の精神作用物質によらないもの F05 せん妄,アルコールその他の精神作用物質によらないもの F06 脳の損傷及び機能不全並びに身体疾患によるその他の精神障害 F07 脳の疾患,損傷及び機能不全による人格及び行動の障害 F09 詳細不明の器質性又は症状性精神障害 |
F1 精神作用物質使用による精神及び行動の障害 | F10 アルコール使用<飲酒>による精神及び行動の障害 F11 アヘン類使用による精神及び行動の障害 F12 大麻類使用による精神及び行動の障害 F13 鎮静薬又は催眠薬使用による精神及び行動の障害 F14 コカイン使用による精神及び行動の障害 F15 カフェインを含むその他の精神刺激薬使用による精神及び行動の障害 F16 幻覚薬使用による精神及び行動の障害 F17 タバコ使用<喫煙>による精神及び行動の障害 F18 揮発性溶剤使用による精神及び行動の障害 F19 多剤使用及びその他の精神作用物質使用による精神及び行動の障害 |
F2 統合失調症、統合失調型障害及び妄想性障害 | F20 統合失調症 F21 分裂病型障害 F22 持続性妄想性障害 F23 急性一過性精神病性障害 F24 感応性妄想性障害 F25 分裂感情障害 F28 他の非器質性精神病性障害 F29 特定不能の非器質性精神病 |
F3 気分(感情)障害 | F30 躁病エピソード F31 双極性感情障害(躁うつ病) F32 うつ病エピソード F33 反復性うつ病性障害 F34 持続性気分(感情)障害 F38 他の気分(感情)障害 F39 詳細不明の気分[感情]障害 |
F4 神経症性障害、ストレス関連障害及び身体表現性障害 | F40 恐怖姓不安障害 F41 他の不安障害 F42 強迫性障害(強迫神経症) F43 重度ストレスへの反応及び適用障害 F44 解離性(転換性)障害 F45 身体表現性障害 F48 他の神経症性障害 |
F5 生理的障害及び身体的要因に関連した行動症候群 | F50 摂食障害 F51 非器質性睡眠障害 F52 性機能不全,器質性障害又は疾病によらないもの F53 産じょく<褥>に関連した精神及び行動の障害,他に分類されないもの F54 他に分類される障害又は疾病に関連する心理的又は行動的要因 F55 依存を生じない物質の乱用 F59 生理的障害及び身体的要因に関連した詳細不明の行動症候群 |
F6 成人の人格及び行動の障害 | F60 特定の人格障害 F61 混合性及びその他の人格障害 F62 持続的人格変化,脳損傷及び脳疾患によらないもの F63 習慣及び衝動の障害 F64 性同一性障害 F65 性嗜好の障害 F66 性発達及び方向づけに関連する心理及び行動の障害 F69 詳細不明の成人の人格及び行動の障害 |
F7 知的障害(精神遅滞) | F70 軽度知的障害〈精神遅滞〉 F71 中等度知的障害〈精神遅滞〉F72 重度知的障害〈精神遅滞〉 F78 その他の知的障害〈精神遅滞〉 F79 詳細不明の知的障害〈精神遅滞〉 |
F8 心理的発達の障害 | F80 会話及び言語の特異的発達障害 F81 学習能力の特異的発達障害 F82 運動機能の特異的発達障害 F83 混合性特異的発達障害 F84 広汎性発達障害 F88 その他の心理的発達障害 F89 詳細不明の心理的発達障害 |
F9 小児期及び青年期に通常発症する行動及び情緒の障害 | F90 多動性障害 F91 行為障害 F92 行為及び情緒の混合性障害 F93 小児<児童>期に特異的に発症する情緒障害 F94 小児<児童>期及び青年期に特異的に発症する社会的機能の障害 F95 チック障害 F98 小児<児童>期及び青年期に通常発症するその他の行動及び情緒の障害 |
診断カテゴリーと疾患単位
ここで共通して用いられる「障害」という用語は、disorderの日本語訳である[4]。DSM 体系ではdisorderを、確かな原因や病態が不明で、主要な症状やその歴史、時に検査所見などで包括される症状群的な特徴を有するカテゴリーとして、疾患単位とは区別している。たとえばDSM‐IV‐TRには、臨床症状と経過に重点をおいた「大うつ病性障害」の診断のための基準が明記されているが、「大うつ病性障害」に、一定の原因と症状、一貫した経過と治療への反応性を強く期待することは、現時点では難しい。まして、この診断を受けた人に共通する少数の疾患遺伝子や、特異的な脳の構造的機能的異常や環境要因を保証するものではない。近くICD‐10は第11版に、DSM‐IV‐TRは第5版に改訂される。最新の研究成果を取り入れて、信頼性と妥当性の乏しい診断カテゴリーが淘汰され、新しいものにとって代わることは、たいへん望ましいことである。
関連項目
参考文献
- ↑ Carol S North, Sean H Yutzy
Goodwin and Guze's Psychiatric Diagnosis
Oxford University Press (New York):2010 - ↑ 世界保健機関
ICD‐10 精神および行動の障害―臨床記述と診断ガイドライン
医学書院(東京):2005 - ↑ 米国精神医学会
DSM‐IV‐TR 精神疾患の診断・統計マニュアル
医学書院(東京):2003 - ↑ Michael G Gelder, Nancy C Andreasen, Juan J Jr. Lopez-Ibor, John R Geddes
New Oxford Textbook of Psychiatry
Oxford University Press (New York):2012
(執筆者:北村秀明、染矢俊幸 担当編集者:加藤忠史)