脳スライス標本

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小林 静香真鍋 俊也
東京大学 医科学研究所 神経ネットワーク分野
DOI:10.14931/bsd.10490 原稿受付日:2023年9月27日 原稿完成日:2023年9月29日
担当編集委員:林 康紀(京都大学大学院医学研究科 システム神経薬理学分野)

英:brain slice preparation 独:Hirnschnittpräparat 仏:préparation de tranches de cerveau

 深麻酔下の動物から素早く脳を取り出し、対象となる脳領域の組織を200~500マイクロメートル程度の厚さで切り出した実験標本のことで、生体内での細胞構築や局所的な神経連絡が保たれているという特徴をもつ。

概説

 
図1. 急性海馬スライス標本
振動刃マイクロスライサーを用いて400ミクロンの厚さに切り出した冠状断海馬スライス標本。
DG: dentate gyrus (歯状回)、fi:fimbria (海馬采)

 神経科学の分野で最も多く使用されている中枢神経系の実験標本のひとつが、哺乳類の脳スライス標本である(図1)。対象となる脳領域の組織を薄切し、生体内での細胞構築や神経連絡を保ったまま実験に使用することができるという利点を持つことから、電気生理学生化学形態学薬理学などさまざまな分野で使用されている。

 生体内から切り出した後、生きた状態のまま維持されているものを特に急性スライス標本acute slice preparation)と呼び、培養スライス標本cultured slice)や組織固定を行ったスライス標本とは区別される。対象脳領域も多岐にわたり、海馬大脳皮質視床下部をはじめとして、ほとんどあらゆる脳部位に適用されている。

 哺乳類以外にも、カエルニワトリ魚類などの脳スライス標本を用いた研究もあり、特にカエルなどでは、実験中に酸素を供給する必要がないため、実験における手間が非常に少ないという利点があるが、その成果が必ずしも哺乳類などに一般化できるとは限らないという限界がある。

 一般的な研究においては、マウスラットの脳スライス標本が最も標準的なものであるが、場合によっては、サルヒトの脳スライス標本を用いた研究もおこなわれている。日本においては、ヒト由来の脳スライス標本を用いることは倫理的な問題や感染の危険性などからほとんど行われていない。

作製

 スライス標本作製の際には、対象となる組織を生体内に極めて近い状態のまま健康に保つことに留意する必要がある。状態の良い脳スライス標本を作製するためには、できるだけ素早くすべての作業を行い、可能な限り短時間で全工程を完了させなければならない。また、氷冷した人工脳脊髄液artificial cerebrospinal fluidACSF)中で脳組織を冷却することにより、脳組織の代謝活性を著しく低下させることが必須となる。

 7~10週令程度の齧歯類を用いることが多いが、実験の目的に合わせて変更が可能で、幼若個体から老齢個体まで幅広く作製が可能である。一般に、幼若なほど、脳組織の酸素要求性が低いという特徴を示す。

 大脳皮質、嗅上皮、海馬などをはじめとして、脊髄のほとんどすべての部位がスライス標本作製の適用になるが、ここでは主に海馬の、特に急性スライス標本を中心に、それぞれの作業過程において特に留意すべき点について述べる。なお詳細なプロトコールに関しては、該当する論文またはプロトコール集などを参照されたい。

麻酔、脳の取り出し

 動物の安楽死に用いる麻酔薬は、現在ではイソフルランなどの吸入麻酔薬が一般的であるが、各研究施設の動物実験ガイドラインに従い、動物に苦痛を与えることのない適切な麻酔薬を選択する必要がある。深麻酔下で断頭したのち、速やかに開頭して脳を取り出す。取り出した脳は、95%O2, 5% CO2 の混合ガスを通気した、氷冷ACSF中で十分に冷却する。これにより、細胞の代謝が抑制され、酸素要求性が低下し、虚血による細胞障害を大幅に低減できる。また、冷却によって脳組織が固く締まり、取り扱いが容易になるという利点も併せ持つ。

切り出し

 スライスの切り出しには、振動刃マイクロスライサーを用いるのが一般的であるが、ティッシュー・チョッパーを用いる場合もある。いずれの場合でも、マイクロメーター単位でスライスの厚みを調節できるものが適している。

 スライスの厚さは、実験用途に応じて選択することになるが、あまり厚みがあると中心部の細胞に酸素が行き渡らなくなる危険があるため、400ミクロン程度までが望ましい。スライスの表層部分は振動刃による機械的な刺激を直接受けることで細胞が損傷する危険があり、電気生理学的な測定を行う際には最表層の細胞を避けて行うことも多い。これらのスライスの切り出し工程もまた、十分に混合ガスを通気した氷冷ACSF中で行う必要がある。

 また薄切の過程で、細胞や軸索が切断されることにより細胞外に多量のグルタミン酸が排出されるが、これらは興奮毒性をもつことが知られているため、ピペット等によりスライス周辺からこまめに除去することが望ましい。グルタミン酸の興奮毒性から細胞を保護する手段として、スライス作製時に用いるACSFのイオン組成を変更する(Na+, Ca2+濃度を下げる、Mg2+濃度を上げるなど)場合もあるが、変更する場合には、浸透圧pHに変化を及ぼすことがないよう十分考慮しなければならない。

回復

 切り出したスライス標本は氷冷ACSFにより十分冷却された状態にあるため、そのままでは測定に用いることができない。室温に設置した回復用のチェンバー内で1-2時間程度回復を待つ必要がある。回復用チェンバーには大きく分けて二種類あり、スライス全体が常温のACSFに完全に浸った状態のもの(submerged chamber)と、スライスの下面のみが液に浸っている状態のもの(interface chamber)があるが、実験用途に応じて使い分ける必要がある。十分に回復したスライス標本はその後実験に用いられるが、適切に作製された標本であれば作製後12時間程度までは、正常な神経細胞応答を計測することができる。

 
図2. ホールセルパッチクランプ法の記録の例
海馬スライス培養細胞ノマルスキー型微分干渉像。左下から電極がアプローチしている。スケールバー:30 µm。

応用

 細胞内記録(intracellular recording)や細胞外電位記録 (extracellular field potential recording) は脳スライス標本で行うことができ、いずれも一般的な実体顕微鏡があれば十分に電極操作等を行うことができる。

 パッチクランプ法もまた、Edwardsらによるスライスパッチクランプ法の開発以降、中枢神経系のシナプス機能解析法として今日でも広く用いられている。スライスパッチクランプ法には大きく分けて、実体顕微鏡下で細胞層を同定したのち、目視によらず(盲目的に)記録用パッチ電極を進めてギガオームシールを形成するブラインド法(blind method)と、赤外微分干渉(infra-red differential interference contrast: IR-DIC)顕微鏡下などでニューロンを直接目視しながら行う可視化法(visualized method、図2)の二つがある。あらかじめ標的細胞を蛍光分子などで標識しておけば、蛍光顕微鏡下で目視による標的細胞の探索、計測が可能である。また、多電極アレイ(muti-electrode array)を用いた細胞外電位の多細胞同時記録や、複数のパッチ電極を用いた計測(dual patch clamp recording)による局所回路の解析なども、スライス標本を対象として行われている。

 いずれの手法の場合も、測定開始から終了までの間、スライス標本の健康状態を良好に保ち続けることが最も重要となる。そのためには記録用チェンバー内のスライス標本に、常時95%O2, 5% CO2 の混合ガスを通気したACSFを潅流し、温度管理を適切に行う必要がある。潅流液の供給にはミニパルスポンプを使用することが多く、温度管理には循環恒温槽を用いるとよい。

 電気生理学的解析以外にも、二光子顕微鏡による脳スライス標本中のニューロンの形態変化の観察や、スパイン内のカルシウム動態イメージングなど、形態解析にも脳スライス標本は広く用いられている。

 実験に用いられるスライス標本は、目的となる分子のトランスジェニック動物ノックアウト動物から作製される場合が多いが、生体内電気穿孔法により組織への遺伝子導入を行い、その後標本を作製する方法も知られる。また、培養スライス標本を用いれば、遺伝子銃ウイルスベクターを用いた遺伝子導入も可能である。

利点と限界点

利点

 In vivo実験と比較した場合の利点として、実験条件(温度、pH、薬剤濃度など)を実験者が厳密にコントロールできる点や、血液脳関門の存在を意識する必要がない点、麻酔筋弛緩剤の影響を除外できる点などが挙げられる。また、スライス標本を用いて電気生理学的実験を行う場合においては、実験動物の心拍呼吸に伴うノイズの発生を防止できるため、記録の安定性が格段に向上する点が大きなメリットとなる。また、対象となる細胞の同定が可能になり、アクセスも容易になる点などが挙げられる。さらには、神経培養法等に比べると脳の構造が保存されており、神経の変性も少なく、in vivoの条件により近いという点も利点として挙げられる。

限界点

 局所的な神経連絡は保持されているが、遠隔脳領域との間の入出力は遮断されているため、in vivoの脳とは異なった性質を示すことがある点には留意しなければならない。また、生体内において未知の液性分子が重要な機能を果たしているような場合、スライス標本にしてしまうと、それらの分子が除去されてしまい、in vivoの環境が厳密に再現できていない可能性があることも念頭に置く必要がある。

参考文献

  1. R.C. Rayne (ed). (1997).
    Methods in Molecular Biology, Neurotransmitter Methods. Edited by Humana Press Inc. ISBN 978-1617370236
  2. 塩坂貞夫 (1993).
    神経科学研究の先端技術プロトコールIII 分子神経細胞生理学、厚生社、ISBN 978-4906204205
  3. Matt Carter and Jennifer Shieh (2015).
    Guide to Research Techniques in Neuroscience 2nd edition, ELSEVIER. ISBN 978-0128005118
  4. 岡田泰伸編 (2001).
    新パッチクランプ実験技術法、吉岡書店、ISBN 978-4842702964
  5. Edwards, F.A., Konnerth, A., Sakmann, B., & Takahashi, T. (1989).
    A thin slice preparation for patch clamp recordings from neurones of the mammalian central nervous system. Pflugers Archiv : European journal of physiology, 414(5), 600-12. [PubMed:2780225] [WorldCat] [DOI]
  6. 野島博編 (2011).
    顕微鏡の使い方ノート―はじめての観察からイメージングの応用まで (無敵のバイオテクニカルシリーズ)、羊土社、ISBN 978-4897069302