言語起源
岡ノ谷 一夫
東京大学
DOI:10.14931/bsd.7419 原稿受付日:2017年3月21日 原稿完成日:2017年月日
担当編集委員:大隅 典子(東北大学 大学院医学系研究科 附属創生応用医学研究センター 脳神経科学コアセンター 発生発達神経科学分野)
英語名:Emergence of Language
「言語の起源」の脳科学的研究は、言語を可能にしている生物学的な構造がいかにヒトの進化史上で発現したかを解明することが目的となる。このため、近縁種の脳機能研究(相同)、類似機能を持った種の脳研究(相似)、および言語に関連する遺伝子研究(深層相同)という3つの接近法が必要となる。言語起源は地球上で一度だけ起こった出来事であるが、私たちは生物学的事実にもとづいてそのシナリオを提案することができる段階にある。
はじめに
「言語の起源」の脳科学的研究は、言語を可能にしている生物学的な構造がいかにヒトの進化史上で発現したかを解明することが目的となる。しかしながら、言語それ自体は行動であるため化石化せず、言語行動の指標となる脳機能も、進化史を遡って研究することはできない。そこで、以下の3つの方法が重要になる。1つめ、現存する近縁種の脳機能から、ヒトとその種の共通祖先が持っていたであろう言語様機能を推測することである。これを相同にもとづく研究とする。2つめは、言語そのものではないが、言語を構成する機能の一部を発現している動物をモデルとして、その機能がどう実現されているのかを研究することである。これを相似にもとづく研究とする。3つめとして、言語に関連するとされる遺伝子が他の動物でどのような機能を持つかを探ることで、言語の起源の一端に触れることができるかも知れない。これを深層相同にもとづく研究とする。
実験研究
相同にもとづく研究
ウェルニッケ・ゲシュビントモデルは、言語を可能にしている脳機能について、脳損傷例にもとづいて構成されたものであるが、現在のイメージング研究でもその基本的な正しさは確認されている(「言語」、および「言語中枢」の項参照)。これを構成する主要な脳部位は、下前頭回のブローカ野(ブロードマン44、45野)、上側頭回後部のウェルニッケ野(22野)およびこれらを接続する弓状束である。ブローカ野は言語の文法構造と発話運動に、ウェルニッケ野は意味構造と発話理解に深く関わり、弓状束は両者を結合している。これらの構造が、現生する近縁種で同定されるのか、同定されるとすればどのような構造と機能を持っているのかを検討してみよう。
ヒトの44野の細胞構築上の特徴のひとつは、前方に隣接する45野よりも顆粒細胞層の厚みが薄く、しかし後方に隣接する6野よりは厚いことである。Petridesら(Petrides, Cadoret, & Mackey, 2005)は、マカクザルの相同部位の細胞構築を調べた。結果、マカクザルにおいて45野相当部位と6野相当部位に挟まれた部位は非常に狭いが、しかし顆粒細胞層の厚さがヒトの44野と同様なパターンを示した。さらに、この部位を電気刺激すると、口の周りの筋肉が動いた。以上のことから、Petridesらはマカクザルにも44野に相当する部位があり、ヒトにおいてこれが拡張していると考えた。
また、Gil-da-Coostaら(Gil-da-Costa et al., 2006)は、マカクザルに種特異的な音声を聞かせながら、PETスキャンを用いて脳の活動を調べた。結果、44野と6野相当部位を含むシルヴィウス裂周辺前部において活動が見られたが、その前方部位の活動(44野相当)と分離することはできていない。同様に22野を含むまたは近接すると考えられるシルヴィウス裂周辺後部の活動も観察された。これらの結果から、Gil-da-Costaらはマカクザルにおいて種特異的な発声に応答する部位は、ヒトにおけるブローカ野およびウェルニッケ野に対応しているのではないかと提案している。
マカクザルとヒトの共通祖先は数千万年前に遡る。チンパンジーとヒトは約800万年前に分岐したとされる。ヒトにおいてブローカ野、ウェルニッケ野は左半球に局在する。同様に、チンパンジーやボノボ、ゴリラでも44野相当部位は左半球に局在するらしい(Cantalupo & Hopkins, 2001; Spocter et al., 2010)。さらに、コミュニケーション音声を多く発した場合とそうでない場合のチンパンジーの脳活動をPETで比較すると、前者において44、45野を含む左下前頭回の活動が高くなったという(Taglialatela, Russell, Schaeffer, & Hopkins, 2008)。
これらの研究に加え、ヒト、チンパンジー、マカクザルで弓状束の形態を拡散テンソル画像法で比較した研究によれば、弓状束はチンパンジーやマカクでも同定可能であるが、ヒトに比べて非常に未発達であることがわかった(Rilling et al., 2008)。
以上の研究から、ヒトにおいて言語機能の中核をなす脳部位は、旧世界ザルやチンパンジーにおいても同定可能であることがわかる。これらの部位がコミュニケーション信号の受信と発信で活動することから、言語の起源としてコミュニケーションを想定することは間違っていないであろう。しかしながら、現存する霊長類の比較のみからでは、言語の起源に到達することは難しそうである。