「行動テストバッテリー」の版間の差分

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====遺伝的背景====
====遺伝的背景====
 遺伝子改変マウスの表現型解析を行う場合において、バックグラウンド系統として現在よく使われているのは C57BL6/J という系統である。一方で遺伝子改変マウスの作製に用いられるES細胞には、最も早くES細胞株が確立されたマウス系統である129由来のものが多く使用されていた<ref name=ref43><pubmed></pubmed></ref> <ref name=ref44><pubmed></pubmed></ref>。この129という系統から派生した亜系統(亜系統について次段落参照)では脳梁の形成不全が生じており、記憶・学習に障害があるとされたため<ref name=ref45><pubmed></pubmed></ref>、遺伝子改変マウスを行動解析する際には多くの場合、遺伝的背景を129系 からC57BL6/J系統にする戻し交配 (バッククロス) が行われている。実際、129系の亜系統のうち、129/J, 129/SvJ, 129/Sv では空間学習の成績低下が知られている<ref name=ref46><pubmed></pubmed></ref>。しかし、別の亜系統129S6/SvEvTac ではモリス水迷路や恐怖条件づけで測定される学習・記憶は正常であると報告されている<ref name=ref46 />。作業記憶についてもT迷路やY迷路を用いた自発的交替課題で129S2/SvHsd (129) とC57BL/6JOlaHsd との間で交替率(正答率)に大きな違いは見られない<ref name=ref47><pubmed></pubmed></ref>。その他にも、C57BL6/Jではprepulse inhibition (項目3.1.2 参照) が低いのに対して、129/SvEvTacや129/J、129/SvJは高いことが報告されている<ref name=ref48><pubmed></pubmed></ref>。このように遺伝的背景が129系統であっても必ずしも表現型解析に問題が生じるわけではないのでC57BL6系へのバッククロスは必ずしも必要ではないと考えられる。また、戻し交配を行う場合に注意すべきこととして、ドナー系統(もとの系統)の遺伝子の残存がある。C57BL6/Jによる戻し交配を6回経て生まれたマウスは、遺伝子の98.4%がC57BL6/J由来のものとなる。しかし、これは理論上の値であり、遺伝子判定を行った上で遺伝子改変マウスを選別して戻し交配を行うのでターゲットとした遺伝子の周辺にはドナー系統の遺伝子が残存しており表現型に影響を与える可能性がある (隣接遺伝子効果, Flanking-gene effect) ので注意が必要である<ref name=ref49><pubmed></pubmed></ref>。現在ではC57BL6系統のES細胞株も確立されており、戻し交配を経ることなくC57BL6純系で遺伝子改変マウスを得ることができる<ref name=ref50><pubmed></pubmed></ref>。
 遺伝子改変マウスの表現型解析を行う場合において、バックグラウンド系統として現在よく使われているのは C57BL6/J という系統である。一方で遺伝子改変マウスの作製に用いられるES細胞には、最も早くES細胞株が確立されたマウス系統である129由来のものが多く使用されていた<ref name=ref43><pubmed></pubmed></ref> <ref name=ref44><pubmed></pubmed></ref>。この129という系統から派生した亜系統(亜系統について次段落参照)では脳梁の形成不全が生じており、記憶・学習に障害があるとされたため<ref name=ref45><pubmed></pubmed></ref>、遺伝子改変マウスを行動解析する際には多くの場合、遺伝的背景を129系 からC57BL6/J系統にする戻し交配 (バッククロス) が行われている。実際、129系の亜系統のうち、129/J, 129/SvJ, 129/Sv では空間学習の成績低下が知られている<ref name=ref46><pubmed></pubmed></ref>。しかし、別の亜系統129S6/SvEvTac ではモリス水迷路や恐怖条件づけで測定される学習・記憶は正常であると報告されている<ref name=ref46 />。作業記憶についてもT迷路やY迷路を用いた自発的交替課題で129S2/SvHsd (129) とC57BL/6JOlaHsd との間で交替率(正答率)に大きな違いは見られない<ref name=ref47><pubmed></pubmed></ref>。その他にも、C57BL6/Jではprepulse inhibition (項目3.1.2 参照) が低いのに対して、129/SvEvTacや129/J、129/SvJは高いことが報告されている<ref name=ref48><pubmed></pubmed></ref>。このように遺伝的背景が129系統であっても必ずしも表現型解析に問題が生じるわけではないのでC57BL6系へのバッククロスは必ずしも必要ではないと考えられる。また、戻し交配を行う場合に注意すべきこととして、ドナー系統(もとの系統)の遺伝子の残存がある。C57BL6/Jによる戻し交配を6回経て生まれたマウスは、遺伝子の98.4%がC57BL6/J由来のものとなる。しかし、これは理論上の値であり、遺伝子判定を行った上で遺伝子改変マウスを選別して戻し交配を行うのでターゲットとした遺伝子の周辺にはドナー系統の遺伝子が残存しており表現型に影響を与える可能性がある (隣接遺伝子効果, Flanking-gene effect) ので注意が必要である<ref name=ref49><pubmed></pubmed></ref>。現在ではC57BL6系統のES細胞株も確立されており、戻し交配を経ることなくC57BL6純系で遺伝子改変マウスを得ることができる<ref name=ref50><pubmed>17298852</pubmed></ref>。


====系統による行動特性の違い====
====系統による行動特性の違い====
 実験用のマウスにはさまざまな系統が存在し、系統によって行動特性は大きく異なる<ref name=ref7 /> <ref name=ref8 />。どの系統をバックグランド系統とするかによって、検出される表現型が変化する可能性があるので使用する系統の選択には注意が必要である。例えば、プレパルス抑制がもともとあまり見られない系統をバックグランド系統として解析をした場合、プレパルス抑制の低下を検出するは難しい。逆に、プレパルス抑制が向上するという表現型であれば強調されて検出が容易になる可能性もある。遺伝的に均一である近交系マウスでも、共通の祖先から別れて20世代以上にわたり維持されると、亜系統 (substrain) として区別される。例えばC57BL6には、J, N, C といった亜系統がある。これらはもともと同じ系統であったが、異なる場所で繁殖・維持が続けられた結果、それぞれ独立した亜系統となったものである。これらの亜系統はいずれも広く使われているが、亜系統間では行動特性が大きく異なっていることが報告されている。例えば、自発活動性についてはJがN, Cに比較して高く、プレパルス抑制についてはNがJ, Cと比べて大きく、明暗選択箱で測定される不安様行動ではCが他に比べて低いなど、それぞれ特徴的な行動特性を示す<ref name=ref51><pubmed></pubmed></ref> <ref name=ref52><pubmed></pubmed></ref>。遺伝子改変マウスの系統維持の際には亜系統の違いには注意が払われないことが多いが、行動実験に用いる場合は亜系統も含めた遺伝的背景を統制することが重要である。
 実験用のマウスにはさまざまな系統が存在し、系統によって行動特性は大きく異なる<ref name=ref7 /> <ref name=ref8 />。どの系統をバックグランド系統とするかによって、検出される表現型が変化する可能性があるので使用する系統の選択には注意が必要である。例えば、プレパルス抑制がもともとあまり見られない系統をバックグランド系統として解析をした場合、プレパルス抑制の低下を検出するは難しい。逆に、プレパルス抑制が向上するという表現型であれば強調されて検出が容易になる可能性もある。遺伝的に均一である近交系マウスでも、共通の祖先から別れて20世代以上にわたり維持されると、亜系統 (substrain) として区別される。例えばC57BL6には、J, N, C といった亜系統がある。これらはもともと同じ系統であったが、異なる場所で繁殖・維持が続けられた結果、それぞれ独立した亜系統となったものである。これらの亜系統はいずれも広く使われているが、亜系統間では行動特性が大きく異なっていることが報告されている。例えば、自発活動性についてはJがN, Cに比較して高く、プレパルス抑制についてはNがJ, Cと比べて大きく、明暗選択箱で測定される不安様行動ではCが他に比べて低いなど、それぞれ特徴的な行動特性を示す<ref name=ref51><pubmed>20676234</pubmed></ref> <ref name=ref52><pubmed>21390289</pubmed></ref>。遺伝子改変マウスの系統維持の際には亜系統の違いには注意が払われないことが多いが、行動実験に用いる場合は亜系統も含めた遺伝的背景を統制することが重要である。


====行動テストバッテリーによる解析に必要な個体数====
====行動テストバッテリーによる解析に必要な個体数====
行動テストバッテリーでの解析に必要な各群の被験体数は、検出しようとしている効果の大きさどの程度に想定するかによって異なる。例えば、2群比較においてそれぞれが正規分布に従うと仮定して効果量 が1の差、すなわち1標準偏差分の平均値の差、に対して十分な検出力 (statistic power > 0.80) を持つような被験体数は、各群について20匹程度となる<ref name=ref53><pubmed></pubmed></ref>。
行動テストバッテリーでの解析に必要な各群の被験体数は、検出しようとしている効果の大きさどの程度に想定するかによって異なる。例えば、2群比較においてそれぞれが正規分布に従うと仮定して効果量 が1の差、すなわち1標準偏差分の平均値の差、に対して十分な検出力 (statistic power > 0.80) を持つような被験体数は、各群について20匹程度となる<ref name=ref53>'''Cohen, J.'''<br>Statistical Power Analysis for the Behavioral Sciences.<br>''Routledge Academic'', 1988</ref>。


 遺伝子変異マウスの解析については Crusio らが論文化に際しての基準を提唱しており、順守するべき項目として以下に示す8項目を挙げている<ref name=ref54><pubmed></pubmed></ref>。
 遺伝子変異マウスの解析については Crusio らが論文化に際しての基準を提唱しており、順守するべき項目として以下に示す8項目を挙げている<ref name=ref54><pubmed>18778401</pubmed></ref>。


#亜系統を含む完全な系統情報を正しい用語を使い記載すること。購入した系統は販売者情報を記載し、繁殖させて用いたものはその手続きを再現できるように十分に詳しく書くこと。
#亜系統を含む完全な系統情報を正しい用語を使い記載すること。購入した系統は販売者情報を記載し、繁殖させて用いたものはその手続きを再現できるように十分に詳しく書くこと。
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===実験環境===
===実験環境===
 マウスの行動は実験時の照明の明るさ、温度や騒音などの環境条件によって大きく影響を受けるため<ref name=ref55><pubmed></pubmed></ref>、実験を行う際は環境を可能な限り統制する必要がある。すなわち、できる限り実験室内やテスト装置内の照度を一定にし、防音室のように防音加工が施された独立スペースにおいてテストを行うなどの対策を講じることが望ましい。今日では、多くの行動テストにおいて、被験体の行動をコンピュータプログラムによる画像の取得と自動解析によってデータ化することが可能となっている。自動化された実験では、被験体の近くで実験者が直接的に行動を観察し記録を行うことはなくなった。その結果、実験者は解析中に実験室から離れることが可能となり、実験者の動きや息づかい、匂いなど実験者が意図せず無意識的に発する刺激によってマウスの行動が影響される可能性は小さくなっている。それでも、実験者がマウスを扱う以上は、実験者の影響を完全に排除することは難しい。この他、実験を行う時間帯や順番なども結果に影響を及ぼし得るので注意が必要である(節4.3実験者効果とカウンターバランスを参照)。
 マウスの行動は実験時の照明の明るさ、温度や騒音などの環境条件によって大きく影響を受けるため<ref name=ref55><pubmed>11682087</pubmed></ref>、実験を行う際は環境を可能な限り統制する必要がある。すなわち、できる限り実験室内やテスト装置内の照度を一定にし、防音室のように防音加工が施された独立スペースにおいてテストを行うなどの対策を講じることが望ましい。今日では、多くの行動テストにおいて、被験体の行動をコンピュータプログラムによる画像の取得と自動解析によってデータ化することが可能となっている。自動化された実験では、被験体の近くで実験者が直接的に行動を観察し記録を行うことはなくなった。その結果、実験者は解析中に実験室から離れることが可能となり、実験者の動きや息づかい、匂いなど実験者が意図せず無意識的に発する刺激によってマウスの行動が影響される可能性は小さくなっている。それでも、実験者がマウスを扱う以上は、実験者の影響を完全に排除することは難しい。この他、実験を行う時間帯や順番なども結果に影響を及ぼし得るので注意が必要である(節4.3実験者効果とカウンターバランスを参照)。


 Crabbeらは、実験環境が行動解析の結果にどのような影響を与えるかを明らかにするため、3つの異なる研究施設において、機器、プロトコル、餌、ケージ、床敷き、ケージ内のマウスの匹数、明暗サイクル、ケージ交換の頻度、マウスの週齢などの条件を統一した上で、8種類の行動テストを実施した<ref name=ref56><pubmed></pubmed></ref>。これらの条件を統一しても、各研究機関で得られたデータの間には統計的に有意な差が生じることが明らかとなった。研究施設間で統一できていなかった条件としては、実験者、マウスの輸送条件、使用した水道水、実験室の構造、換気用フィルター、湿度などがあげられている。このようにマウスの行動表現型は、実験者が認識していないような要因によっても影響を受ける可能性がある。特に効果の小さい表現型については実験を行った研究室の環境に依存する可能性が高いと考えられ、他の研究室では再現されない場合も想定される。論文で発表されている結果や他の研究室で得られたデータについて、比較あるいは追試する場合は上記のような可能性について考慮しなければならない。また、行動実験プロトコルを作成する際には、他の研究者が追試やデータ比較を行うことができるように実験環境の情報についても詳細に記すべきである<ref name=ref57><pubmed></pubmed></ref>。
 Crabbeらは、実験環境が行動解析の結果にどのような影響を与えるかを明らかにするため、3つの異なる研究施設において、機器、プロトコル、餌、ケージ、床敷き、ケージ内のマウスの匹数、明暗サイクル、ケージ交換の頻度、マウスの週齢などの条件を統一した上で、8種類の行動テストを実施した<ref name=ref56><pubmed>10356397</pubmed></ref>。これらの条件を統一しても、各研究機関で得られたデータの間には統計的に有意な差が生じることが明らかとなった。研究施設間で統一できていなかった条件としては、実験者、マウスの輸送条件、使用した水道水、実験室の構造、換気用フィルター、湿度などがあげられている。このようにマウスの行動表現型は、実験者が認識していないような要因によっても影響を受ける可能性がある。特に効果の小さい表現型については実験を行った研究室の環境に依存する可能性が高いと考えられ、他の研究室では再現されない場合も想定される。論文で発表されている結果や他の研究室で得られたデータについて、比較あるいは追試する場合は上記のような可能性について考慮しなければならない。また、行動実験プロトコルを作成する際には、他の研究者が追試やデータ比較を行うことができるように実験環境の情報についても詳細に記すべきである<ref name=ref57><pubmed>20194625</pubmed></ref>。


===実験者効果とカウンターバランス===
===実験者効果とカウンターバランス===
 評価しようとしている遺伝子改変や薬物投与などの実験操作の効果について事前に何らかの仮説を実験者が持っている場合、無意識的なバイアスにより測定が偏ってしまうことがある。実験者の期待が実験動物の行動に影響を与える例としては、19世紀末から20世紀初頭に話題になった「クレバーハンス」が有名である。当時、クレバーハンスは人間の言葉が分かり計算もできる馬と評判であった、しかし実際には出題をする飼い主や観客が無意識に行う動作や息づかいなどを察知して回答しており、この馬に言葉や計算などの能力があるわけではなかった<ref name=ref58><pubmed></pubmed></ref>。このように、実験者が意図せずに実験結果に及ぼしてしまう影響を「実験者効果」と呼ぶ。実験操作や記録だけでなく、飼育時や実験時のマウスの持ち方や運び方なども行動に影響する可能性があるので注意が必要である。さらに実験者効果を排除するため、どの被験体が実験群か統制群かが実験を行う者だけでなくデータを解析する者にも、わからないように情報を伏せて実験・解析を行う二重盲検法 (double blind test)を用いることが望ましい。
 評価しようとしている遺伝子改変や薬物投与などの実験操作の効果について事前に何らかの仮説を実験者が持っている場合、無意識的なバイアスにより測定が偏ってしまうことがある。実験者の期待が実験動物の行動に影響を与える例としては、19世紀末から20世紀初頭に話題になった「クレバーハンス」が有名である。当時、クレバーハンスは人間の言葉が分かり計算もできる馬と評判であった、しかし実際には出題をする飼い主や観客が無意識に行う動作や息づかいなどを察知して回答しており、この馬に言葉や計算などの能力があるわけではなかった<ref name=ref58>'''Pfungst, O. & Rahn, C. L.'''<br>Clever Hans (the horse of Mr. Von Osten) a contribution to experimental animal and human psychology.<br>''New York, H. Holt and company'', 1911.</ref>。このように、実験者が意図せずに実験結果に及ぼしてしまう影響を「実験者効果」と呼ぶ。実験操作や記録だけでなく、飼育時や実験時のマウスの持ち方や運び方なども行動に影響する可能性があるので注意が必要である。さらに実験者効果を排除するため、どの被験体が実験群か統制群かが実験を行う者だけでなくデータを解析する者にも、わからないように情報を伏せて実験・解析を行う二重盲検法 (double blind test)を用いることが望ましい。


 また、複数の装置を用いて実験を行う場合、装置ごとの特性の差異、音の反響や匂いの違いなど実験者が認識できない違いがある可能性があるので、実験群と統制群で使用する測定装置に偏りがないようにカウンターバランスをとることが必要である。また、マウスの行動には、日内変動や日間変動のような周期性を示すものもあり、行動実験を行う時間帯が群間で偏らないように注意を払う必要がある。また、集団飼育されている中から順次マウスをケージから取り出してテストを実施すると、テストを受けた順番がいくつかの行動の指標に影響することが知られている<ref name=ref59><pubmed></pubmed></ref>。このように実験の実施に際しては、各種要因を考慮してカウンターバランスをとることが必要である。
 また、複数の装置を用いて実験を行う場合、装置ごとの特性の差異、音の反響や匂いの違いなど実験者が認識できない違いがある可能性があるので、実験群と統制群で使用する測定装置に偏りがないようにカウンターバランスをとることが必要である。また、マウスの行動には、日内変動や日間変動のような周期性を示すものもあり、行動実験を行う時間帯が群間で偏らないように注意を払う必要がある。また、集団飼育されている中から順次マウスをケージから取り出してテストを実施すると、テストを受けた順番がいくつかの行動の指標に影響することが知られている<ref name=ref59><pubmed>8140167</pubmed></ref>。このように実験の実施に際しては、各種要因を考慮してカウンターバランスをとることが必要である。


===多重比較とその補正===
===多重比較とその補正===
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===結果の解釈における注意事項===
===結果の解釈における注意事項===
 ある特定の行動を測定する場合、遺伝的背景・実験環境・目的の行動領域以外の行動異常など、その行動の測定結果に影響を及ぼす「混交要因」が必ず存在する。例えば、空間記憶のテストとしてよく用いられるモリス水迷路(項目3.5.1)においては、水泳能力、視力、プラットフォームに登る動機づけの強さ、逃避戦略などが混交要因になり得る。例えばあるマウスの水泳能力が低い場合、モリス水迷路でそのマウスの成績が低下していても、その原因は記憶・学習の障害でなく水泳能力の低下である可能性がある。このような場合、モリス水迷路でそのマウスの空間記憶を評価することは困難であり、水泳能力を必要としないバーンズ迷路テスト(項目3.5.2)や8方向放射状迷路 (項目 3.5.3) など別の実験で評価する必要がある。例えば、Neurogranin ノックアウトマウスは、モリス水迷路のhidden platform task においてプラットフォームが存在した領域を学習することはできなかったが、バーンズ迷路では逃避箱の存在した穴の位置を学習し、プローブテストにおいてその記憶を想起することができた<ref name=ref60><pubmed></pubmed></ref>。このマウスがモリス水迷路でプラットフォームの位置を学習することができなかった原因は、空間記憶の障害以外の要因である可能性が高い<ref name=ref60 />。このように、ある特定の行動を評価するためには、異なる混交要因をもつ複数のテストで行動の指標を測定し、評価しようとしている行動以外の影響をできるだけ小さくして総合的に判断しなければならない。行動実験によって得られた結果を解釈する際は、Morganによって提唱された「低次の心的な能力によって説明可能なことは、高次の心的な能力によって解釈してはならない」とするモーガンの公準 (Morgan's Canon)<ref name=ref61><pubmed></pubmed></ref>に従うことが推奨される。先の例で言えば、モリス水迷路で成績が悪かった場合において、水泳能力や視力の低下によって成績が低下していると解釈できるなら、空間記憶が障害されているという解釈には慎重になる必要がある。
 ある特定の行動を測定する場合、遺伝的背景・実験環境・目的の行動領域以外の行動異常など、その行動の測定結果に影響を及ぼす「混交要因」が必ず存在する。例えば、空間記憶のテストとしてよく用いられるモリス水迷路(項目3.5.1)においては、水泳能力、視力、プラットフォームに登る動機づけの強さ、逃避戦略などが混交要因になり得る。例えばあるマウスの水泳能力が低い場合、モリス水迷路でそのマウスの成績が低下していても、その原因は記憶・学習の障害でなく水泳能力の低下である可能性がある。このような場合、モリス水迷路でそのマウスの空間記憶を評価することは困難であり、水泳能力を必要としないバーンズ迷路テスト(項目3.5.2)や8方向放射状迷路 (項目 3.5.3) など別の実験で評価する必要がある。例えば、Neurogranin ノックアウトマウスは、モリス水迷路のhidden platform task においてプラットフォームが存在した領域を学習することはできなかったが、バーンズ迷路では逃避箱の存在した穴の位置を学習し、プローブテストにおいてその記憶を想起することができた<ref name=ref60><pubmed>11811671</pubmed></ref>。このマウスがモリス水迷路でプラットフォームの位置を学習することができなかった原因は、空間記憶の障害以外の要因である可能性が高い<ref name=ref60 />。このように、ある特定の行動を評価するためには、異なる混交要因をもつ複数のテストで行動の指標を測定し、評価しようとしている行動以外の影響をできるだけ小さくして総合的に判断しなければならない。行動実験によって得られた結果を解釈する際は、Morganによって提唱された「低次の心的な能力によって説明可能なことは、高次の心的な能力によって解釈してはならない」とするモーガンの公準 (Morgan's Canon)<ref name=ref61>'''Morgan, C. L.'''<br>An Introduction to Comparative Psychology.</ref>に従うことが推奨される。先の例で言えば、モリス水迷路で成績が悪かった場合において、水泳能力や視力の低下によって成績が低下していると解釈できるなら、空間記憶が障害されているという解釈には慎重になる必要がある。


==脳科学研究における行動テストバッテリーの役割==
==脳科学研究における行動テストバッテリーの役割==
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===精神・神経疾患モデルの作製・同定===
===精神・神経疾患モデルの作製・同定===
 精神・神経疾患モデル動物を作製するにはいくつかのアプローチがある。ヒトで疾患の原因となる遺伝子変異が同定された場合には、その遺伝子変異をマウスに導入した疾患モデル動物の作製が多く試みられている。ここでは例として自閉症モデルマウスについて紹介する。ヒトの自閉症では、5%程度の症例に染色体異常が見られるが、その中でも頻度が高い異常に染色体15q11-q13の重複がある<ref name=ref62><pubmed></pubmed></ref>。遺伝子工学により対応する染色体の重複を持つマウスが作製され、このマウスが自閉症様の行動異常を示すかどうか調べるため行動テストバッテリーによって解析が行われた。その結果、重複染色体をもつマウスは、社会的行動の異常、超音波によるコミュニケーションの障害、固執傾向の増加など、自閉症様の行動異常のパターンを示すことが明らかとなった<ref name=ref63><pubmed></pubmed></ref>。現在このマウスは、自閉症のモデルマウスとして病態の解明や治療法の探索などに活用されている。
 精神・神経疾患モデル動物を作製するにはいくつかのアプローチがある。ヒトで疾患の原因となる遺伝子変異が同定された場合には、その遺伝子変異をマウスに導入した疾患モデル動物の作製が多く試みられている。ここでは例として自閉症モデルマウスについて紹介する。ヒトの自閉症では、5%程度の症例に染色体異常が見られるが、その中でも頻度が高い異常に染色体15q11-q13の重複がある<ref name=ref62><pubmed>15037868</pubmed></ref>。遺伝子工学により対応する染色体の重複を持つマウスが作製され、このマウスが自閉症様の行動異常を示すかどうか調べるため行動テストバッテリーによって解析が行われた。その結果、重複染色体をもつマウスは、社会的行動の異常、超音波によるコミュニケーションの障害、固執傾向の増加など、自閉症様の行動異常のパターンを示すことが明らかとなった<ref name=ref63><pubmed>19563756</pubmed></ref>。現在このマウスは、自閉症のモデルマウスとして病態の解明や治療法の探索などに活用されている。


 これとは別に、遺伝子改変マウスの行動表現型から疾患モデルマウスを同定するアプローチもある。ある遺伝子の遺伝子改変マウスを網羅的行動テストバッテリーにより解析し、精神疾患様の行動異常が見出されれば、その遺伝子と特定の疾患との関係を示唆する仮説がそれまでなかったとしても、そのマウスは精神疾患のモデルマウスとなる可能性がある。例えば、前脳特異的カルシニューリン (CN) 欠失マウス (CNマウス) の行動を網羅的行動テストバッテリーで解析したところ、作業記憶に顕著な障害があること、さらに活動量の亢進、社会的行動の低下、PPIの低下など一連の統合失調症様の行動異常をこのマウスが示すことが明らかになった<ref name=ref19 /> <ref name=ref64><pubmed></pubmed></ref>。もともとCNと精神疾患との関係を明示するような仮説はなかったが、CNマウスで得られた結果に基づき、統合失調症患者と健常者を対象に人類遺伝学的研究を行ったところ、CNのサブユニット・CNAγをコードする遺伝子PPP3CCが統合失調症と関連を示すことが分かった<ref name=ref65><pubmed></pubmed></ref> <ref name=ref66><pubmed></pubmed></ref>。このように遺伝子改変マウスの行動表現型の発見が、疾患モデルマウスの同定に加え、ヒトでの疾患関連遺伝子の発見に繋がる例もある。
 これとは別に、遺伝子改変マウスの行動表現型から疾患モデルマウスを同定するアプローチもある。ある遺伝子の遺伝子改変マウスを網羅的行動テストバッテリーにより解析し、精神疾患様の行動異常が見出されれば、その遺伝子と特定の疾患との関係を示唆する仮説がそれまでなかったとしても、そのマウスは精神疾患のモデルマウスとなる可能性がある。例えば、前脳特異的カルシニューリン (CN) 欠失マウス (CNマウス) の行動を網羅的行動テストバッテリーで解析したところ、作業記憶に顕著な障害があること、さらに活動量の亢進、社会的行動の低下、PPIの低下など一連の統合失調症様の行動異常をこのマウスが示すことが明らかになった<ref name=ref19 /> <ref name=ref64><pubmed>11733061</pubmed></ref>。もともとCNと精神疾患との関係を明示するような仮説はなかったが、CNマウスで得られた結果に基づき、統合失調症患者と健常者を対象に人類遺伝学的研究を行ったところ、CNのサブユニット・CNAγをコードする遺伝子PPP3CCが統合失調症と関連を示すことが分かった<ref name=ref65><pubmed>12851458</pubmed></ref> <ref name=ref66><pubmed>17895921</pubmed></ref>。このように遺伝子改変マウスの行動表現型の発見が、疾患モデルマウスの同定に加え、ヒトでの疾患関連遺伝子の発見に繋がる例もある。


===脳・神経科学研究のハブ===
===脳・神経科学研究のハブ===

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