英語名:postpartum mental disorders、puerperal mental disorders 独:postpartale psychische Störungen 仏:trouble mental de la puerpéralité
同義語:産後精神障害
産褥期精神障害は、出産後の産婦にみられる精神障害であり、正常範囲の反応であるマタニティ・ブルーズから、産褥期うつ病、産褥期精神病まで、さまざまな場合がある。その発症頻度は高く、我が国の場合、産褥期女性の15-35%がマタニティ・ブルーズを、10-15%が産褥期うつ病を経験すると報告されている。治療法としては、薬物療法の他に、認知行動療法や対人関係療法といった心理社会的治療がある。産褥期精神障害(特に産褥期うつ病やマタニティーブルーズ)に関して、これまで様々な研究が行われてきたが、いまだ充分とは言えず、病態や診療のあり方について、統一見解が得られていない部分も多い。今後のさらなる研究により、産褥期精神障害の病態解明と、より安全で効果的な治療と予防法の確立が期待される。
産褥期精神障害とは
産褥期とは、出産後、母体の生理的変化が非妊娠時の状態に回復するまでの期間で、通常6~8週間とされている。産褥期精神障害は、この期間に発症するものであり、正常範囲の反応であるマタニティ・ブルーズ、産褥期うつ病、産褥期精神病に大別される。
背景
妊産婦やその家族にとって、妊娠中や出産後は喜ばしい時期である一方で、うつ病を初めとする精神障害を呈する割合の高い時期であることが知られている[1]。なかでも、うつ病の発症には性差があり、女性のうつ病の発症率は男性の2倍であることが知られている。その一因として、性周期、周産期、更年期などに生じる女性ホルモンのバランスの変化が関与すると考えられている。産褥期の精神障害は、母親のQOLの低下や自殺リスクの上昇に加え、児の養育環境にも悪影響を与える可能性があり、最悪の場合、母子心中のリスクもあるため、効果的な予防および治療法、予測診断法の確立が急務である。
産褥期の精神障害には、マタニティーブルーズや産褥期うつ病、双極性障害などの気分障害の他に、産褥期精神病、持続性不安を主訴とする不安神経症である全般性不安障害、強迫的な思考や行動を繰り返す不安障害である強迫性障害、パニック障害などがあげられる。この期間に発症または再発がみられる。パニック障害や強迫性障害はしばしば産褥期うつ病と併存し、その予後を劇的に悪化させると考えられており、また、産褥期の全般性不安障害は見逃されることが多い。
産褥期精神障害
マタニティーブルーズ
分娩後3〜10日頃に発症し一過性で短期間に改善する、気分の低下、不安、涙もろさ、不眠、情緒および認知の障害がみられる。ほとんどが自然軽快するため、特別な予防や薬物療法的な介入を実施しないことが一般的である。しかし、マタニティブルーズが産褥期うつ病に移行することもあり、マタニティーブルーズは産褥期うつ病の発症リスクを上昇させるという報告もある[2][3][4]。両者の関係には、まだ不明な点が多いが、上記の観点からその後の経過に注意する必要がある。
マタニティブルーズの主な評価尺度としては、Stein et al.によって開発された全13項目の自己記入式尺度[5]がある。出産後に連日自己記入し、少なくともどこかの1日でカットオフ値を超えた場合にマタニティーブルーズと判定する。日本語版は岡野ら[6]による。
産褥期うつ病(産後うつ病)
産褥期うつ病は、産後数週間から数ヶ月以内に発症する。発症の時期については、多くは出産後1ヶ月頃をピークとし、大半が2~6か月以内で軽快するが、なかには1年以上の長期経過をとるものもある。症状は一般的なうつ病と違いはなく、抑うつ気分、不安、意欲の低下、不眠などがみられる。未治療のまま放置されると、重症化、長期化しやすい上、子どもにも悪影響を与える[7]。希死念慮については、比較的少ないとされているが、母子心中に発展する場合もあるため、注意が必要である[8]。
産褥期うつ病の主な評価尺度としては、エジンバラ産後うつ病質問票(Edinburgh Postnatal Depression Scale : EPDS)が知られている。これは英国のCoxらによる自己記入式の質問紙で、妊娠期・産後用に開発された評価尺度である。一般のうつ病を評価する尺度と異なり、身体症状に関する質問項目が含まれていない。日本語版は岡野ら[9]によって作成されている。
双極性障害
双極性障害は出産により発症または再発しやすく、精神疾患の既往のある女性が産後に入院を要するような再発を起こす場合、最も危険性が高いのは双極性障害であるとの報告がなされている[10]。さらに、出産後に抑うつ状態あるいは軽躁状態を呈する場合、後に双極性障害の病相であったことが判明することも多い。うつ病と双極性障害のうつ病相を区別する有効な手段はまだ見出されていないが、過去に軽躁状態のエピソードがある場合、あるいは家族歴に双極性障害が存在する場合は、双極性障害である可能性が高い[11]。
なお、DSM-Ⅳ-TRでは、「『産後の発症』という特定用語は、発症が分娩後4週間以内の場合、大うつ病性障害、双極Ⅰ型障害、双極Ⅱ型障害における現在の(または現在、大うつ病、躁病、または混合性エピソードの基準を満たしていない場合、最も新しい)大うつ病、躁病、または混合性エピソード、または短期精神病性障害に適用される。」とされている。また、産後発症の大うつ病、躁病、または混合性エピソードの症状は、産後以外の気分エピソードと異なるものではない。
産褥期精神病
出産後、数週間経過した後に突如発症する。新生児に対する妄想や不安を訴え、幻聴、幻覚、幻視、興奮、錯乱などをきたす。自殺は少ないが、殺児念慮を持つ事がある。
疫学
妊娠・出産の時期は身体的・心理社会的な負担が大きく、7人に1人が妊娠期から産後にうつ病を経験すると言われている[12]。マタニティーブルーズの発症頻度は、欧米で30-60%[13]、日本では15-35%[2][14]であり、欧米に比べ我が国のマタニティーブルーズの発症頻度は比較的低いとされている。産褥期うつ病の発症頻度は10-15%である[2]。産褥期精神病の発症頻度は0.1-0.2%であり、産褥期うつ病やマタニティーブルーズと比較すると比較的稀である。
また、妊娠中から産後まで継続的に抑うつ状態の経過を観察したコホート研究により、妊産婦のうち約7%が妊娠中から産後にかけて継続的に抑うつ状態を呈していることも報告されている[2]。
生物学的因子
産褥期精神障害のうち、特に産褥期うつ病やマタニティーブルーズなどの気分障害の発症には、心理社会的環境や文化的な背景と同時に、妊娠出産に伴う内分泌学的な変化などの生物学的な因子が関与する事が想定されており[15]、妊娠中に高レベルであった性ホルモンやコルチゾールの急激な低下がその一つとしてあげられている[16]。また、Hypothalamic-Pituitary-Adrenal Axis(HPA軸、視床下部-下垂体-副腎皮質系軸)調節異常、遺伝的要因やエピジェネティックな修飾[17]も寄与するとの仮説が提唱されている。
さらに、脳内で神経伝達物質や、それらの活性にホルモンがどのように影響を及ぼすか等を含め、神経内分泌系の微妙な調節異常と病態生理との関連が示唆されている[18]。未だ確証のある生物学的因子の同定はなされていないが、以下に産褥期の気分変動に関与するとされている要因の一部について記す。
視床下部-下垂体-副腎皮質系軸(Hypothalamic-Pituitary-Adrenal Axis)
通常、様々なストレッサーに対するコルチゾール応答は、妊娠中の女性では低下している[19]が、社会性ストレステストに対して高いコルチゾール応答と情動応答を示す妊娠女性では、産後に抑うつ状態を経験する率が高いことが示されている[20]。また、産後3-4日目のマタニティーブルーズ日本人女性はコルチゾールの血漿レベルが高いという報告がなされている[14]。以上から、妊娠中の高いストレス応答性は産後の気分障害のリスクと関連があると示唆されている。
卵巣ホルモン、モノアミン神経伝達物質
卵巣ホルモンの一種、エストロゲン(Estrogen)やプロゲステロン(Progesterone)は妊娠中に多く産生され、妊娠経過とともに増加し、妊娠の維持や安全な出産のためだけでなく、水分と電解質バランス、ストレス応答など妊娠に有利に働くような生理的な変化を引き起こす[21]一方で、産後急激に減少することがストレス脆弱性に繋がると考えられている。エストロゲン受容体の1つ、ERβは、不安や抑うつ、記憶学習に関わる領域(海馬、扁桃体)や、背側縫線核のセロトニン作動性ニューロンに分布している[22]こと、エストロゲンのうち、エストラジオール(estradiol)(E2)は、セロトニンの放出、代謝、再取込み、[セロトニン#生合成[生合成]]、受容体修飾などに影響を及ぼす[23]ことから、産褥期うつ病にも関係があると考えられる[22]。
また、セロトニンやドーパミン、ノルアドレナリンなどの神経伝達物質によって、卵巣ホルモン系、ストレス応答、HPA軸、気分障害を関連づけることができる。これまでは、前頭前野、辺縁系、下垂体活性、性行動など多岐に渡って影響を及ぼすセロトニン系と気分変動との関連が主に注目されてきた。例えば、トリプトファン供給の低下に伴う、妊娠後期のセロトニン神経細胞の電気的活動の急激な低下は、出産後の気分低下に寄与することが示されている[24]。また、セロトニン受容体5HT1Aへの結合が産褥期うつ病の女性で低下していること[25]、産後のセロトニン活性低下とallopregnanoloneの消失が合わさって、産褥期うつ病を引き起こすことが示唆されている。
一方で、卵巣ホルモンは黒質線条体や中脳辺縁系のドーパミン活性を変化させることが見いだされ、エストロゲンはドーパミン取り込みを阻害することが示されている[26][27]。また、エストロゲンは副腎皮質刺激ホルモン放出ホルモン(corticotropin-releasing hormone, CRH)の転写に影響を及ぼすこと、青斑核やノルアドレナリン系と相互作用することが示されている。以上から、性ホルモンの影響が産褥期うつ病の病態生理の核となり、セロトニン、ドーパミン、ノルアドレナリンやそれらの代謝変化を引き起こすと共に、HPA軸を変化させ、産褥期気分障害の発症に関与すると考えられている[18]。
神経活性ステロイド
近年、allopregnanolone、3α,5α-tetrahydoprogesterone (3α,5α-THP)、 3α,5α-tetrahydrodeoxycorticosterone (3α,5α-THDOC)などの向神経活性代謝物やプロゲステロン前駆体と気分変動との関連が注目されている[28]。これらのステロイドは神経細胞の活動に応じて産生され、膜内の神経伝達物質受容体の調節やMAP2(微小管結合タンパク質2:microtubule-associated protein 2)への作用を介して微小管のダイナミクスを変化させることが示されている。 神経活性ステロイドのレベルはエストロゲンやプロゲステロンといったprimary hormoneのレベルによって変動し、感情変化に寄与する。また、神経活性ステロイドは[[GABAA]]受容体のアロステリックモジュレーターとして機能し、その抑制作用を増強することで神経細胞の興奮性を弱めるとされる。さらに、大うつ病性障害の患者では、3β,5α-THPレベルが上昇するにつれて、3α,5α-THPや3α,5β-THPレベルが低下すること、これらのレベルは抗うつ薬投与により正常化することも示されている。以上の知見から、神経活性ステロイドの平衡障害は、うつ病の病態生理に関わる因子として提唱されており[29]、そのレベルは性ホルモンの影響をうけることを鑑みると、産褥期うつ病にも関与することが予想される。
オキシトシン
プロラクチン系とともに、オキシトシンが産後の気分変動に寄与する可能性があることが示唆されている[18][30]。オキシトシンはHPA軸の制御と密接に関与すること(視床下部室傍核オキシトシン欠損マウスでは、拘束ストレスに対するCRH発現上昇が促進されている)[31]、情動性が高い女性では、心理的ストレスによるオキシトシン応答が強いこと[32]が報告されている。
アルギニンバソプレッシン
アルギニンバソプレッシンは抑うつ気分や不安のメカニズムに関与すると考えられており、抗うつ薬はバソプレッシン系を介して気分や不安を調節することが示されている[33]。また、うつ病患者死後脳では、バソプレッシンニューロンとオキシトシンニューロンが増加すること[34]、アルギニンバソプレッシンレベルが上昇すること[35][36]が示されている。
その他
妊娠女性での低甲状腺ホルモン活性が、産褥期うつ病と関連があることが報告されている[37]。また、海産物を摂取する人の中で、母乳中のドコサヘキサエン酸(DHA(22:6n-3) )レベルが高い母親では産褥期うつ病率が低く、抑うつ群では22:6n-3/22:5n-6 が低いことが示されている。
さらに、出産後すぐに採取された白血球の遺伝子発現解析から、産褥期うつ病を発症した女性群では、健常女性群と比較して全体的に遺伝子の転写が低下しており、なかでも転写活性化、細胞周期や細胞増殖、ヌクレオチド結合、DNA複製や修復の過程に関わる遺伝子の転写が低下していることが示されている。この結果から、出産後すぐに採取された血球細胞における遺伝子発現パターンの変化が、産褥期うつ病の予後予測を行う上で有用な情報となることが示唆されている[38]。
治療
妊産婦に投与された薬物は胎盤を介して児に移行するため、薬物が児の成長・発達に与えるリスクは治療方針を決める上で大きな判断材料となる。すなわち、未治療で経過した場合の精神障害自体の女性や児に対するリスク(自殺企図や低影響など)と、薬物の児へのリスク(催奇形性や発達の遅れ)とが、比較検討されるべきである。治療の詳細については、書籍や総説等[39][40][41]を参照して頂きたい。
薬物療法以外の治療法としては、認知行動療法や対人関係療法といった、心理社会的治療がある。投薬治療を受けた場合の児への影響を懸念し、心理社会的な治療を希望する妊産婦や家族が多いことも鑑みると、必要に応じて十分な技術をもった心理社会的治療を提供できる体制を整えることが重要であろう。
現在我が国では、妊娠した女性に対し地方自治体が主体となって母子手帳を発行し、定期的な医師の診察を受けるように推奨している。また、自治体が主体となって、あるいは病院が独自に「産前教室」を行うこともあり、これらのサービスがうつ病の予防に役立っているとの報告がある[42]。コミュニティや病院で継続されるこれらの介入が、産褥期うつ病の発症予防の一助となることが期待される。
これまで様々な研究グループにより、産褥期精神障害(特に産褥期うつ病やマタニティーブルーズ)に関する研究が行われているが、いまだ充分とは言えず、病態や診療のあり方について、統一見解が得られていない部分も多い。一般的に治療効果や副作用に関する最も有効なエビデンスを与えてくれるランダム化比較試験(RCT)は、妊娠中および産後の女性を対象として行うことは倫理的に容認されず、RCT実施は事実上不可能であるため、自然経過から得た知見を蓄積することが重要である。
今後のさらなる研究により、産褥期精神障害の病態解明と、より安全で効果的な治療法と予防法の確立が期待される。
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(執筆者: 國本正子、中村由嘉子、久保田智香、尾崎紀夫 担当編集委員:加藤忠史)