行動テストバッテリー
高雄 啓三
生理学研究所 行動・代謝分子解析センター
宮川 剛
藤田保健衛生大学 総合医科学研究所 システム医科学
DOI XXXX/XXXX 原稿受付日:2013年7月31日 原稿完成日:2013年6月6日
担当編集委員:加藤 忠史(独立行政法人理化学研究所 脳科学総合研究センター)
英:behavioral test battery for genetically engineered mice
行動テストバッテリー (behavioral test battery) とは、比較的実施が容易な異なる種類の行動テストを複数組み合わせたものであり、遺伝子改変や薬物投与などマウスやラットなど各種実験操作が、マウスやラットなどの被験体の行動に及ぼす影響を評価する際に用いられる手法である。本項では、主に遺伝子改変マウスの行動を解析するための行動テストバッテリーについて記述する。
歴史
複数のテストを組み合わせたテストバッテリーがマウスの行動解析に用いられた研究が初めて発表されたのは1963年である1。この時用いられたテストバッテリーで、Irwinは50種類の観察項目について数値化し、マウスの行動特性を定量化している[1]。現在用いられている基本的な行動観察バッテリーにおける検査項目のいくつか、例えば自発歩行 (locomotion)、れん縮反射 (twitches) 、驚愕反応 (startle)、などは Irwin によって提案されたテスト項目に由来している。Crawley らは、Irwinのテストバッテリーを改良・簡便化し、遺伝子改変マウスに対して用いる予備観察バッテリーとして提案した[2]。この他に、簡便な行動観察によるテストバッテリーとしては、神経毒性を調べるために開発された機能観察総合評価 (FOB, functional observational battery) 法[3]や、Rogersらによって考案された SHIRPA (SmithKline Beecham, Harwell, Imperial College, Royal London Hospital, phenotype assessment) の一次検査[4]などがある。これらのテストバッテリーは、主に被験体の健康状態を調べることを目的としており、情動や記憶学習などの高次脳機能を評価するためのテストを含んでいない。一方、1990年代に入り遺伝子改変マウスの表現型解析に情動や記憶学習などの高次脳機能を評価するテストが用いられるようになった。宮川らは明暗選択箱テスト (light/dark transition test, 3.3.1 参照) や高架式十字迷路テスト (elevated plus maze test, 3.3.2 参照) などを用いて初めてノックアウトマウスの不安様行動を評価した[5] [6]。それ以降、遺伝子改変マウスの行動表現型を明らかにすることで、記憶や情動など各種の行動に影響を与える遺伝子が次々と同定された。これらの研究では、多くの場合、テストごとに先行実験の経験を持たないマウスが使用されており、このような方法では複数の異なるテストを用いてマウスの行動特性を評価する場合には大量の被験体が必要となる。Crawley らは、さまざまな行動カテゴリーのテストから比較的簡便に実施できるものを組み合わせた行動テストバッテリーを考案した[7] [8]。この行動テストバッテリーを用いることにより、同一の被験体に対し感覚・知覚、運動、情動など各種の行動を測定し、多くの遺伝子改変マウスの行動表現型を明らかにしている[7] [8]。多種類の行動カテゴリーのテストを同一の被験体に対して順番に実施し、包括的な行動テストバッテリーとすることにより、限られた数の被験体を用いてマウスの行動特性を少ない労力と時間で効率的に調べることができるようになった[2]。
使用目的
マウスの行動テストバッテリーは、分子や生理機能などの機能についての仮説検証、各種疾患の病態モデルとしての妥当性検証、薬剤や食品の機能性の評価などを目的として使用される。また、あらかじめ特定の仮説は持たずに、薬品や食物の毒性・安全性評価、系統による行動特性の違いの評価、遺伝子改変やストレス負荷などの各種の実験操作が行動に与える影響の評価等を目的として実施されることも多い。
行動テストバッテリーの構成
行動テストバッテリーは、使用目的に応じて複数のテストを組み合わせて構成される。表1に藤田保健衛生大学 総合医科学研究所 システム医科学研究部門および生理学研究所 行動・代謝分子解析センター 行動様式解析室で使用されている行動テストバッテリーの例を示した。この行動テストバッテリーは、感覚・知覚、運動、情動、睡眠・リズム、注意、学習・記憶、社会的行動などさまざまな行動カテゴリーのテストからなり、特に遺伝子改変マウスの行動異常をスクリーニングするのに適した組み合わせとなっている。
順番 | テストの名称(英語名) | 測定する行動・反応 |
1 | 一般身体所見・神経学的スクリーニング (General health check, Neurological screening) | 身体的特徴・神経学的症状 |
2 | 明暗選択テスト (Light/dark transition test) | 不安様行動、活動性 |
3 | オープンフィールドテスト (Open field test) | 活動性・不安様行動 |
4 | 高架式十字迷路テスト (Elevated plus maze test) | 不安様行動、活動性 |
5 | ホットプレートテスト (Hot plate test) | 痛覚感受性 |
6 | 社会的行動テスト (Social interaction test) | 社会的行動・不安 |
7 | ローターロッドテスト (Rotarod test) | 運動学習・協調運動 |
8 | 社会性テスト (Sociability test) | 社会的行動・自閉症傾向 |
8 | 聴覚性驚愕反応・プレパルス抑制テスト (Acoustic startle/Prepulse inhibition test) | 感覚運動ゲーティング・驚愕反応 |
9 | ポーソルト強制水泳テスト (Porsolt forced swim test) | うつ様行動・学習性絶望 |
(10) | 8方向放射状迷路テスト (Eight-arm radial maze test) | 作業記憶・参照記憶・固執傾向 |
(10) | モリス水迷路テスト (Morris water maze test) | 参照記憶・固執傾向・作業記憶 |
(10) | バーンズ迷路テスト (Barnes maze test) | 参照記憶・固執傾向・作業記憶 |
(10) | T字型迷路テスト (T-maze test) | 作業記憶・参照記憶・固執傾向 |
11 | 尾懸垂テスト (Tail suspension test) | うつ様行動・学習性絶望 |
12 | 24時間ホームケージ社会的行動テスト (24-hour homecage social interaction test) | 社会的行動・ケージ内での活動 |
13 | 恐怖条件づけテスト(Fear conditioning test) | 文脈記憶 |
※ (10) の学習・記憶実験は目的やマウスの特性などに応じて選択する。
以下に、行動テストバッテリーを構成するテストについて具体的な例を示す。テストの装置やプロトコルなどについては藤田保健衛生大学 総合医科学研究所 システム医科学研究部門および生理学研究所 行動・代謝分子解析センター 行動様式解析室で使用されているものを元に記載してある。
感覚・知覚
ホットプレートテスト
Hot plate test
痛覚感受性を測定するテスト。55℃に熱したプレートにマウスを乗せて、肢をなめたり擦り合わせたりなど熱に対する反応を起こすまでの時間(潜時)を測定する[9]。このテストで実験群と統制群に差がある場合は、痛みに対する反応性が異なる可能性がある。その場合、恐怖条件づけテスト(3.5.4参照)や受動的回避テストなどのように痛覚刺激を用いる課題では、目的としている行動の測定に問題が生じる可能性がある。例えば電気ショックを与えても痛覚やそれにともなう恐怖が惹起されずにすくみ反応(フリージング)が生じなければ恐怖条件づけテストで記憶を評価することはできない。痛覚感受性のテストとしてはこの他に尾部に熱刺激を加えて回避反応を観察するテールフリックテスト (Tail flick test)[10]や後肢にホルマリン溶液を皮下注射して持続性疼痛に対する反応を観察するホルマリンテスト (formalin test)[11]、非侵害刺激に対する痛み(アロディニア)を評価するフォン・フレイ・フィラメントテスト(von Frey filament test)[12]がよく用いられている。
聴覚性驚愕反応/プレパルス抑制テスト
Acoustic startle/prepulse inhibition test
聴覚性驚愕反応テストは、突発的に大きな音刺激をマウスに呈示したときに生じる反射 (全身の筋肉収縮) による体動を、加速度計や静電気検出器などによって測定するテストである。この驚愕反応は条件づけされた恐怖によって増強することが知られている[13]。
驚愕反応を引き起こす音刺激を提示する直前 (100 msec前) に、驚愕反応を引き起こさない程度の大きさの音 (プレパルス) を提示すると、驚愕反応が抑制される[14]。この現象はプレパルス抑制 (PPI, prepulse inhibition) と呼ばれ、感覚運動統合制御、注意力の指標として用いられている。プレパルス抑制の大きさは、以下の計算式で求められる:
プレパルス抑制はヒトでもほぼ同様のパラダイムで測定することができ、統合失調症[15]や自閉症[16]、ハンチントン病[17]などの精神・神経疾患の患者でプレパルス抑制が低下していることが知られている。
活動性
オープンフィールドテスト
Open filed test
新奇環境下での自発的な活動性を測定するテスト。マウスにとって新奇で広く明るい環境であるオープンフィールドの中にマウスを入れ、一定時間自由に探索させる。オープンフィールドの形状は円形あるいは正方形であり、大きさは正方形の場合には一辺が1m を越えるものから30cm以下のものまでさまざまなものがある[7]。予備的な観察の場合は5分程度の実験時間が一般的であり、顕著な過活動や休止状態などはこのような短時間の観察で検出することができる。また、長時間にわたって記録することで、新奇環境下での動物の行動の時間経過による変化を観察することができる[18]。マウスは30分から2時間程度でオープンフィールドの環境に馴化するとされているため、30分から3時間の間で実験時間が設定されることが多い[7]。藤田保健衛生大学および生理学研究所では40 cm × 40 cm の正方形のオープンフィールドを用いており、実験時間は2時間としている。移動距離、立ち上がり回数、常同行動、中央区画滞在時間などを測定し、新奇環境における自発的活動性や不安様行動などを評価する。オープンフィールドテストは、薬物に対する反応性を検査するためにもよく用いられる。
ホームケージ活動解析テスト
Home cage activity test
ホームケージでの自発的な活動性を中長期にわたって測定するテスト。飼育用のケージの上部に取り付けられた赤外線カメラによりケージ内のマウスの動きを映像として記録・解析して活動性を評価する[19]。ケージ内に2匹のマウスを入れて解析することで社会的活動を評価することもできる[19]。時系列に沿ったマウスの活動パターンを捉えることが可能であり、概日リズム(circadian rhythm)の解析にも用いることができる。 ホームケージでの活動性を評価するテストとしては他にホームケージでの輪回し活動解析[20]があり、活動性の他に睡眠やリズムなどの評価に用いられる。
不安様行動
明暗選択箱テスト
Light/dark transition test
マウスが新奇環境下で探索行動を行う性質と、明るい環境を避ける性質とを利用し、不安様行動を評価するテスト。抗不安薬のスクリーニングを行うテストとして開発され、広く使われている[21]。明箱と暗箱を連結させた装置にマウスを入れ、明箱と暗箱にそれぞれ滞在していた時間と移動距離、明箱と暗箱を行き来した回数、最初に明箱に入るまでの潜時などを測定する[22]。明箱と暗箱間の移動回数、明箱での滞在時間が不安様行動の指標としてよく使われる。移動回数が多く、明箱での滞在時間が長ければ不安様行動の低下が、逆に移動回数が少なく、明箱での滞在時間が短ければ不安様行動の増加が示唆される。
高架式十字迷路テスト
Elevated plus maze test
マウスが壁際を好み、高所を避けるという性質を利用した不安様行動のテスト。自発的交替課題を行うためのY字迷路を高架式にし、壁を持つアーム(クローズドアーム)と壁のないアーム(オープンアーム)を組み合わせ、それぞれのアームへの進入回数から不安様行動を評価した[23]ものが原型となっている。その後、装置や測定指標の改良を経て、1985 年にPellow らが高架式十字迷路テストとして発表した[24]。高架式十字迷路では、クローズドアームとオープンアームとを十字に組み合わせた迷路にマウスを置き自由に探索させ、それぞれのアームに滞在していた時間や入った回数、移動距離などを測定する[25]。アームへの進入回数およびアーム上の滞在時間を絶対値のまま指標とするとこれらの値は活動性に影響を受けやすいので、オープンアームに対する数値とクローズドアームに対する数値とで比をとって指標にすることが多い。オープンアームに対する進入回数および滞在時間が増加していれば不安様行動の低下が、逆にそれらが低下していれば不安様行動の増加が示唆される。高架式十字迷路テストで測定される不安様行動は、ベンゾジアゼピン系抗不安薬やアドレナリンα受容体関連薬物などの薬剤に対する反応性から妥当性が行動薬理学的に示されている[24] [26]。その他にも、オープンアーム滞在中の血中コルチコステロン濃度の上昇[24] [27]や脱糞の増加[24]などの生理学的指標の変化も報告されている。このため、高架式十字迷路テストは、ヒトにおける不安に類似した行動を評価していると考えられており、 抗不安薬のスクリーニングによく使われている[28]。
明暗選択テスト (項目3.3.1) と高架式十字迷路テスト (項目3.3.2) はともに不安様行動を測定する代表的なテストである。それぞれのテストで測定される行動を引き起こしている要因には共通しているものがあるが、一方で異なる要因もあり、この2つのテストで得られる結果から推測される不安様行動の増減が常に同じ方向であるとは限らない。実際、遺伝子改変マウスの行動表現型では双方で不安様行動が低下あるいは亢進している場合もあるが、片方のテストでだけ不安様行動の増減が見られたり[29] [30]、あるいは2つのテストで不安様行動について一方のテストでは低下し、他方では増加しているといった逆方向[19] [31]の表現型が得られることもある。
うつ様行動
ポーソルト強制水泳テスト
Porsolt forced swim test
回避ができない環境で強制的に泳がされたマウスが学習性無力感によって遊泳しなくなることを利用したうつ様行動のテスト。水を入れた円筒形の容器にマウスを入れ、無動状態の時間を測定する[32]。水に入れた直後、マウスは脱出しようと動き回るが、次第に遊泳しなくなり動かない時間(無動時間)が増える。抗うつ薬を投与すると無動時間が減少する[32]ことから、無動時間の長さがうつ様行動の指標とされている。無動時間が長ければうつ様行動の増加が、短ければ減少が示唆される。
尾懸垂テスト
Tail suspension test
逆さ向きに吊されたマウスが学習性無力感によって動かなくなることを利用したうつ様行動のテスト。マウスを尻尾から逆さに吊るし、無動時間を測定する[33]。吊されたマウスは脱出しようと動き回るが、次第に動かない時間が増えてくる。このテストでも抗うつ薬を投与すると無動時間が減少する[33]ことから、無動時間の長さがうつ様行動の指標とされている。
先述した不安様行動テストの場合と同様に、うつ様行動の代表的な2つのテストであるポーソルト強制水泳テスト (項目 3.4.1) と尾懸垂テスト (項目 3.4.2) でも、それぞれのテストで測定される行動の背景には共通の要因と個別に異なる要因とがある。そのため同じ遺伝子改変マウスに2つのテストを行った場合に、両方でうつ様行動の増減が同方向にみられる[34]こともあれば一方ではうつ様行動が増加、他方では減少というように逆方向になることもある[31]。ポーソルト強制水泳テストと尾懸垂テストは、ともに抗うつ剤の評価およびスクリーニングによく使われている。抗うつ薬の臨床における治療効果は、長期間の服用ではじめて得られるとされているが、げっ歯類を用いたこれらの実験では急性投与での効果のみが評価さていれるという問題が指摘されている[35]。
学習・記憶
モリス水迷路
Morris water maze test
水を張った円形のプール内で、水面下に設置されたプラットフォーム(逃避台)をマウスに泳いで探索させることで空間記憶を測定するテスト[36]。水からの逃避が動機づけとなっており、マウスは迷路外にある視覚的手がかりを利用してプラットフォームを 探索する。プールの大きさは施設やプロトコルによって異なるが、直径80〜200cm、高さ30〜50cm のものが使われることが多い。プール内の水は白色の塗料やスキムミルク、酸化チタンなどを用いて白濁させ、水面下のプラットフォームをマウスに対して不可視化する。一般的に用いられる方法では、最初にマウスをプールとプラットフォームに慣らせるために visible platform task を行う。この課題では、プラットフォームにマウスが目視できる旗やオブジェクトなどの目印をつけるか、プラットフォームそのものが水面より上になるように設置し、被験体の水泳能力や視覚能力を評価する。プラットフォームの位置は試行毎にランダムに設定される。Visible platform task での成績に特に異常が見られなければ、次にプラットフォームを不可視にしてその位置を探索・学習させるhidden platform task を行う。通常、訓練の初期はランダムにプラットフォームの位置を探索するか、接触走性 (Thigmotaxis) によって壁に沿って泳いでプラットフォームにたどり着くことが多いが、訓練が進むにしたがって直接プラットフォームのある方向へ泳ぐようになる。接触走性によって迷路外の刺激を使わずに壁に沿って探索する戦略が固定してしまうとこのテストでの空間記憶の評価は難しくなってしまうのでマウスがプラットフォームを探索する戦略についても注意が必要である[37]。統制群のマウスでプラットフォームにたどり着くまでの時間や距離が短縮され、プラットフォーム位置についての学習が成立した後、プローブテストを行う。プローブテストでは、プラットフォームを取り除いた状態でマウスを自由に探索させ、プラットフォームが設置されていた領域にマウスが留まる時間の長さによって空間記憶をどのくらい保持・想起できるかを評価する。モリス水迷路は、もともとはラットを対象として考案されたテストであり、マウスでの使用には問題点も指摘されている。例えば、課題遂行の動機付けが水からの逃避ではない空間学習記憶においてマウスはラットと同等の遂行能力を持つものの、モリス水迷路においてはマウスの遂行能力はラットに比較して劣っていることが報告されている[38]。また、水泳能力や視力、水に対する反応性などの違いが混交要因 (4.5 結果の解釈における注意事項を参照) となり、結果が大きく変わることがあるので実験の選択および得られた結果の解釈には注意が必要である[37]。
バーンズ円形迷路テスト
Barnes maze test
マウスが明るくて広い場所を避ける性質を利用し、円盤上に空けられた穴の下にある逃避箱の位置を学習させることで空間記憶を測定するテスト[39]。水迷路のドライ版とも言われ、実験の方法はモリス水迷路と類似している。水を使用しないため、水泳能力や水に対する反応などに実験結果が影響を受けず、マウスに与えるストレスも水迷路と比較すると少ないため、広く使われている。迷路は円盤状で周辺部に等間隔で穴があいており、そのうち1カ所の下に逃避箱を設置する。マウスを迷路に置くと、円盤上を探索し、最終的には逃避箱を発見してその中へ入る。逃避箱にたどり着くまでの時間、移動距離、逃避箱が設置されていない穴を探索した回数(エラー数)などを測定する。参照記憶課題では、逃避箱の位置をマウスごとに一定とし、迷路外の物体を手がかりに逃避箱の位置を学習させるトレーニングを行う。トレーニング中は、一定数の試行毎に迷路を回転させ、迷路内の刺激を逃避箱の位置を記憶する手がかりとして使わせないようにする。トレーニング後、逃避箱を外した状態でマウスに迷路上を探索させ、逃避箱があった場所にどの程度留まるかを測定するプローブテストを行うことで、空間記憶をどの程度保持し想起できていたのかを評価する。
8方向放射状迷路テスト
Eight-arm radial maze test
食事制限したマウスに対して、迷路上の餌を探索させることで空間記憶を評価するテスト。プラットフォームから放射状に延びた8本のアームの先端に報酬となる餌を置き、食事制限によって空腹となったマウスに迷路内で餌を探索させる[40]。一度選択して餌を食べたアームには餌はないので、効率よく餌を食べて課題を終了させるためには、既に餌を食べたアームの空間的な位置を試行中に記憶しておかなければならない。一度訪れたアームを再度選択するとエラーとなり、このエラー数が増加すれば作業記憶 (認知過程の中で、情報を一時的に保持しつつ操作を行う記憶のシステム)の低下が示唆される。最初の8回選択中の正答数も作業記憶の指標となり、正答数が少なければ作業記憶が低下している可能性が高い。8方向放射状迷路は作業記憶の評価に使われることが多いが、一定のアームにだけ餌を置いてテストを行うことで作業記憶のように一時的ではなく長期に保持される参照記憶(一般的法則・事実についての情報を保存する記憶のシステム)を評価することも可能である。
恐怖条件づけテスト
Fear conditioning test
マウスに場所(文脈)や音、光などの条件刺激と電気刺激などの無条件刺激を組み合わせて与えることで条件づけした後、条件刺激を再度提示した際にマウスがすくみ反応(フリージング) を示した時間を測定し、その割合を記憶能力の指標とするテスト[41]。条件づけした文脈や手がかり刺激を与えてもすくみ反応を示さなかったり、示している時間が短かったりすれば、記憶能力の異常が示唆される。このテストは古典的条件づけおよび文脈記憶のテストとして広く使われている。恐怖条件づけでは、マウスに電気ショックなどの非常に強い刺激を用いるため、このテストを経験させた動物はその後の行動特性が大きく変化する可能性がある。そのため、本テストはテストバッテリーの終盤に行うことが多い。逆に実験者による取り扱いに(ハンドリング)に全く慣れていない個体をテストの被験体として用いると、ケージから取り出しなどのハンドリングも含めて無条件刺激となってしまい、どんな文脈に対してもすくみ反応を示してしまうこともある。このような場合は、文脈や手がかりを記憶しているかどうかの評価ができなくなってしまうので、実験を計画する際には注意が必要である。
行動テストバッテリーを構成する際には、テストの順番とテスト間の間隔についても注意する必要がある。最初に行うテストを除き、全てのテストにおいてマウスは先行して経験した実験の影響を受けるので、全ての被験体について同じ順番でテストを実施するのが望ましい。行動テストバッテリーに含まれる各種テストは、被験体に与えるストレスが低いと考えられるテストから始め、徐々にストレスレベルが高いと考えられるテストを受けるような順番で構成されている。特に恐怖条件づけテスト(項目3.5.4 参照)のように電気ショックを与えるものは、その後の行動に影響を与える可能性が高く、テストバッテリーの中では終盤に実施するのが一般的である[7]。行動テストバッテリーにおけるテスト間の間隔については、Paylor らがバッテリー内のテスト間隔を1週間にした場合と1-2日にした場合とを比較した研究を発表している[42]。この研究によるとテストの間隔が1-2日あれば1週間の間隔を空けた場合と比較して行動テストの結果に大きな違いは見られなかった[42]。この知見に基づき、Crawleyらの研究室をはじめ、藤田保健衛生大学、生理学研究所などでも行動テストバッテリーを実施する場合は、テスト間の間隔は1日以上空けることとしている。
実施にあたって留意すべき事項
マウスの準備
各種の実験操作を受けた解析の対象となる実験群のマウスとその対照となる統制群のマウスを用意する。実験群と統制群のマウスは、実験操作以外の条件、例えば、週齢、性別、遺伝背景、成育飼育環境などの条件が統制されている必要がある。同腹仔(littermates)であれば、週齢、遺伝背景、胎内環境、生育環境などが同じになるのでそこから実験群と統制群のペアを作り、を準備するのが望ましい。
遺伝的背景
遺伝子改変マウスの表現型解析を行う場合において、バックグラウンド系統として現在よく使われているのは C57BL6/J という系統である。一方で遺伝子改変マウスの作製に用いられるES細胞には、最も早くES細胞株が確立されたマウス系統である129由来のものが多く使用されていた[43] [44]。この129という系統から派生した亜系統(亜系統について次段落参照)では脳梁の形成不全が生じており、記憶・学習に障害があるとされたため[45]、遺伝子改変マウスを行動解析する際には多くの場合、遺伝的背景を129系 からC57BL6/J系統にする戻し交配 (バッククロス) が行われている。実際、129系の亜系統のうち、129/J, 129/SvJ, 129/Sv では空間学習の成績低下が知られている[46]。しかし、別の亜系統129S6/SvEvTac ではモリス水迷路や恐怖条件づけで測定される学習・記憶は正常であると報告されている[46]。作業記憶についてもT迷路やY迷路を用いた自発的交替課題で129S2/SvHsd (129) とC57BL/6JOlaHsd との間で交替率(正答率)に大きな違いは見られない[47]。その他にも、C57BL6/Jではprepulse inhibition (項目3.1.2 参照) が低いのに対して、129/SvEvTacや129/J、129/SvJは高いことが報告されている[48]。このように遺伝的背景が129系統であっても必ずしも表現型解析に問題が生じるわけではないのでC57BL6系へのバッククロスは必ずしも必要ではないと考えられる。また、戻し交配を行う場合に注意すべきこととして、ドナー系統(もとの系統)の遺伝子の残存がある。C57BL6/Jによる戻し交配を6回経て生まれたマウスは、遺伝子の98.4%がC57BL6/J由来のものとなる。しかし、これは理論上の値であり、遺伝子判定を行った上で遺伝子改変マウスを選別して戻し交配を行うのでターゲットとした遺伝子の周辺にはドナー系統の遺伝子が残存しており表現型に影響を与える可能性がある (隣接遺伝子効果, Flanking-gene effect) ので注意が必要である[49]。現在ではC57BL6系統のES細胞株も確立されており、戻し交配を経ることなくC57BL6純系で遺伝子改変マウスを得ることができる[50]。
系統による行動特性の違い
実験用のマウスにはさまざまな系統が存在し、系統によって行動特性は大きく異なる[7] [8]。どの系統をバックグランド系統とするかによって、検出される表現型が変化する可能性があるので使用する系統の選択には注意が必要である。例えば、プレパルス抑制がもともとあまり見られない系統をバックグランド系統として解析をした場合、プレパルス抑制の低下を検出するは難しい。逆に、プレパルス抑制が向上するという表現型であれば強調されて検出が容易になる可能性もある。遺伝的に均一である近交系マウスでも、共通の祖先から別れて20世代以上にわたり維持されると、亜系統 (substrain) として区別される。例えばC57BL6には、J, N, C といった亜系統がある。これらはもともと同じ系統であったが、異なる場所で繁殖・維持が続けられた結果、それぞれ独立した亜系統となったものである。これらの亜系統はいずれも広く使われているが、亜系統間では行動特性が大きく異なっていることが報告されている。例えば、自発活動性についてはJがN, Cに比較して高く、プレパルス抑制についてはNがJ, Cと比べて大きく、明暗選択箱で測定される不安様行動ではCが他に比べて低いなど、それぞれ特徴的な行動特性を示す[51] [52]。遺伝子改変マウスの系統維持の際には亜系統の違いには注意が払われないことが多いが、行動実験に用いる場合は亜系統も含めた遺伝的背景を統制することが重要である。
行動テストバッテリーによる解析に必要な個体数
行動テストバッテリーでの解析に必要な各群の被験体数は、検出しようとしている効果の大きさどの程度に想定するかによって異なる。例えば、2群比較においてそれぞれが正規分布に従うと仮定して効果量
が1の差、すなわち1標準偏差分の平均値の差、に対して十分な検出力 (statistic power > 0.80) を持つような被験体数は、各群について20匹程度となる[53]。
遺伝子変異マウスの解析については Crusio らが論文化に際しての基準を提唱しており、順守するべき項目として以下に示す8項目を挙げている[54]。
- 亜系統を含む完全な系統情報を正しい用語を使い記載すること。購入した系統は販売者情報を記載し、繁殖させて用いたものはその手続きを再現できるように十分に詳しく書くこと。
- 確証なく隣接遺伝子効果の影響を無視あるいは軽視しないこと。
- 変異マウスとその統制群となる野生型マウスを別々の系統として維持しないこと。
- 変異マウスの維持が、各個体がランダムに交配しているようなコロニーで維持されている場合、変異マウスとそのコントロールとなる野生型マウスとの比較は同腹子間でされるべきであり、どちらかの群が不釣り合いに特定の親のペアから供給されることのないようにすること。
- 変異マウスが選択交配によるコンジェニック系統(Congenic strain)として維持されている場合、バッククロスを可能な限り長く続けることが推奨される。
- 変異マウスがコンジェニック系統から得られる場合は、バックグラウンドとして使用している系統を野生型マウスとしてコントロールに用いて比較することができる。
- 遺伝子変異がトランスジェニックによってもたらされている場合、最初の解析では複数の樹立系統から由来する系統を用いる必要がある。
- サンプル数が少なくてもオスとメスのデータをまとめないこと。
以上の8項目は、遺伝子変異マウスの解析に限らず、マウスで行動解析を行う場合には考慮するべきである。
実験環境
マウスの行動は実験時の照明の明るさ、温度や騒音などの環境条件によって大きく影響を受けるため[55]、実験を行う際は環境を可能な限り統制する必要がある。すなわち、できる限り実験室内やテスト装置内の照度を一定にし、防音室のように防音加工が施された独立スペースにおいてテストを行うなどの対策を講じることが望ましい。今日では、多くの行動テストにおいて、被験体の行動をコンピュータプログラムによる画像の取得と自動解析によってデータ化することが可能となっている。自動化された実験では、被験体の近くで実験者が直接的に行動を観察し記録を行うことはなくなった。その結果、実験者は解析中に実験室から離れることが可能となり、実験者の動きや息づかい、匂いなど実験者が意図せず無意識的に発する刺激によってマウスの行動が影響される可能性は小さくなっている。それでも、実験者がマウスを扱う以上は、実験者の影響を完全に排除することは難しい。この他、実験を行う時間帯や順番なども結果に影響を及ぼし得るので注意が必要である(節4.3実験者効果とカウンターバランスを参照)。
Crabbeらは、実験環境が行動解析の結果にどのような影響を与えるかを明らかにするため、3つの異なる研究施設において、機器、プロトコル、餌、ケージ、床敷き、ケージ内のマウスの匹数、明暗サイクル、ケージ交換の頻度、マウスの週齢などの条件を統一した上で、8種類の行動テストを実施した[56]。これらの条件を統一しても、各研究機関で得られたデータの間には統計的に有意な差が生じることが明らかとなった。研究施設間で統一できていなかった条件としては、実験者、マウスの輸送条件、使用した水道水、実験室の構造、換気用フィルター、湿度などがあげられている。このようにマウスの行動表現型は、実験者が認識していないような要因によっても影響を受ける可能性がある。特に効果の小さい表現型については実験を行った研究室の環境に依存する可能性が高いと考えられ、他の研究室では再現されない場合も想定される。論文で発表されている結果や他の研究室で得られたデータについて、比較あるいは追試する場合は上記のような可能性について考慮しなければならない。また、行動実験プロトコルを作成する際には、他の研究者が追試やデータ比較を行うことができるように実験環境の情報についても詳細に記すべきである[57]。
実験者効果とカウンターバランス
評価しようとしている遺伝子改変や薬物投与などの実験操作の効果について事前に何らかの仮説を実験者が持っている場合、無意識的なバイアスにより測定が偏ってしまうことがある。実験者の期待が実験動物の行動に影響を与える例としては、19世紀末から20世紀初頭に話題になった「クレバーハンス」が有名である。当時、クレバーハンスは人間の言葉が分かり計算もできる馬と評判であった、しかし実際には出題をする飼い主や観客が無意識に行う動作や息づかいなどを察知して回答しており、この馬に言葉や計算などの能力があるわけではなかった[58]。このように、実験者が意図せずに実験結果に及ぼしてしまう影響を「実験者効果」と呼ぶ。実験操作や記録だけでなく、飼育時や実験時のマウスの持ち方や運び方なども行動に影響する可能性があるので注意が必要である。さらに実験者効果を排除するため、どの被験体が実験群か統制群かが実験を行う者だけでなくデータを解析する者にも、わからないように情報を伏せて実験・解析を行う二重盲検法 (double blind test)を用いることが望ましい。
また、複数の装置を用いて実験を行う場合、装置ごとの特性の差異、音の反響や匂いの違いなど実験者が認識できない違いがある可能性があるので、実験群と統制群で使用する測定装置に偏りがないようにカウンターバランスをとることが必要である。また、マウスの行動には、日内変動や日間変動のような周期性を示すものもあり、行動実験を行う時間帯が群間で偏らないように注意を払う必要がある。また、集団飼育されている中から順次マウスをケージから取り出してテストを実施すると、テストを受けた順番がいくつかの行動の指標に影響することが知られている[59]。このように実験の実施に際しては、各種要因を考慮してカウンターバランスをとることが必要である。
多重比較とその補正
行動テストバッテリーでは、同一被験体の行動を複数のテストで測定するために評価する指標の数だけ統計検定をくり返す。このように多数の検定を行うことで、本来は有意ではない効果を統計的に有意だと誤って判断してしまう第1種の過誤 (Type I error) が生じる危険性が高くなる。これを低くするために、状況に応じて多重比較の補正を行う必要がある。その方法はいくつかあるが、検定を繰り返した回数で有意水準を割るという簡易な方法である Bonferroni補正が広く使われている。例えば、もともとの有意水準が α= 0.05 だった場合、行動テストバッテリー中で16回検定をしていれば有意水準は Bonferroni補正を行うとp = 0.05/16 = 3.125×10-3 となる。ただし、このような補正を行うと有意水準が厳しくなりすぎてしまい、本来は有意な差があるのに統計的に有意差なしと誤って判断してしまう第2種の過誤 (Type II error) が多くなるという問題もある。
結果の解釈における注意事項
ある特定の行動を測定する場合、遺伝的背景・実験環境・目的の行動領域以外の行動異常など、その行動の測定結果に影響を及ぼす「混交要因」が必ず存在する。例えば、空間記憶のテストとしてよく用いられるモリス水迷路(項目3.5.1)においては、水泳能力、視力、プラットフォームに登る動機づけの強さ、逃避戦略などが混交要因になり得る。例えばあるマウスの水泳能力が低い場合、モリス水迷路でそのマウスの成績が低下していても、その原因は記憶・学習の障害でなく水泳能力の低下である可能性がある。このような場合、モリス水迷路でそのマウスの空間記憶を評価することは困難であり、水泳能力を必要としないバーンズ迷路テスト(項目3.5.2)や8方向放射状迷路 (項目 3.5.3) など別の実験で評価する必要がある。例えば、Neurogranin ノックアウトマウスは、モリス水迷路のhidden platform task においてプラットフォームが存在した領域を学習することはできなかったが、バーンズ迷路では逃避箱の存在した穴の位置を学習し、プローブテストにおいてその記憶を想起することができた[60]。このマウスがモリス水迷路でプラットフォームの位置を学習することができなかった原因は、空間記憶の障害以外の要因である可能性が高い[60]。このように、ある特定の行動を評価するためには、異なる混交要因をもつ複数のテストで行動の指標を測定し、評価しようとしている行動以外の影響をできるだけ小さくして総合的に判断しなければならない。行動実験によって得られた結果を解釈する際は、Morganによって提唱された「低次の心的な能力によって説明可能なことは、高次の心的な能力によって解釈してはならない」とするモーガンの公準 (Morgan's Canon)[61]に従うことが推奨される。先の例で言えば、モリス水迷路で成績が悪かった場合において、水泳能力や視力の低下によって成績が低下していると解釈できるなら、空間記憶が障害されているという解釈には慎重になる必要がある。
脳科学研究における行動テストバッテリーの役割
行動テストバッテリーを用いた解析により、さまざまな遺伝子の変異や薬物、食品などが行動に与える影響が明らかとなってきている。ここでは遺伝子改変マウスの行動テストバッテリーを用いてどのような研究が進められているかを紹介する。
精神・神経疾患モデルの作製・同定
精神・神経疾患モデル動物を作製するにはいくつかのアプローチがある。ヒトで疾患の原因となる遺伝子変異が同定された場合には、その遺伝子変異をマウスに導入した疾患モデル動物の作製が多く試みられている。ここでは例として自閉症モデルマウスについて紹介する。ヒトの自閉症では、5%程度の症例に染色体異常が見られるが、その中でも頻度が高い異常に染色体15q11-q13の重複がある[62]。遺伝子工学により対応する染色体の重複を持つマウスが作製され、このマウスが自閉症様の行動異常を示すかどうか調べるため行動テストバッテリーによって解析が行われた。その結果、重複染色体をもつマウスは、社会的行動の異常、超音波によるコミュニケーションの障害、固執傾向の増加など、自閉症様の行動異常のパターンを示すことが明らかとなった[63]。現在このマウスは、自閉症のモデルマウスとして病態の解明や治療法の探索などに活用されている。
これとは別に、遺伝子改変マウスの行動表現型から疾患モデルマウスを同定するアプローチもある。ある遺伝子の遺伝子改変マウスを網羅的行動テストバッテリーにより解析し、精神疾患様の行動異常が見出されれば、その遺伝子と特定の疾患との関係を示唆する仮説がそれまでなかったとしても、そのマウスは精神疾患のモデルマウスとなる可能性がある。例えば、前脳特異的カルシニューリン (CN) 欠失マウス (CNマウス) の行動を網羅的行動テストバッテリーで解析したところ、作業記憶に顕著な障害があること、さらに活動量の亢進、社会的行動の低下、PPIの低下など一連の統合失調症様の行動異常をこのマウスが示すことが明らかになった[19] [64]。もともとCNと精神疾患との関係を明示するような仮説はなかったが、CNマウスで得られた結果に基づき、統合失調症患者と健常者を対象に人類遺伝学的研究を行ったところ、CNのサブユニット・CNAγをコードする遺伝子PPP3CCが統合失調症と関連を示すことが分かった[65] [66]。このように遺伝子改変マウスの行動表現型の発見が、疾患モデルマウスの同定に加え、ヒトでの疾患関連遺伝子の発見に繋がる例もある。
脳・神経科学研究のハブ
マウスはヒトと同じ哺乳類であり、個体レベルで認知や情動などの高次機能を解析することができ、さらに遺伝子を任意に改変できるといった特長がある。マウスで発現している遺伝子の99%はヒトでホモログがあり、マウスで効果があった遺伝子の変異や多型がヒトの脳の活動や高次認知機能にどういった影響を及ぼすかを調べることができる。これらの理由から、現在の脳神経科学研究において、マウスは実験動物として最も広く使われている。遺伝子改変マウスで行動表現型を見出すことができれば、その行動と関係している可能性の高い脳部位や回路、分子などを推測することができる。これに基づいて分子・細胞・回路・個体レベルなど、さまざまな階層においてその遺伝子の機能を解析する研究に繋がる[67]。このように、遺伝子改変マウスの行動テストバッテリーは、脳・神経科学研究における各階層の研究を繋げるハブとして機能することが可能である。
脳内中間表現型の探索
行動テストバッテリーでさまざまなマウス系統を解析すると、行動表現型のパターンが類似する複数の系統が見つかり、さらにそれらの系統の脳を解析すると、共通した脳内の特徴(中間表現型, 脳科学辞典の対応項目参照)が見出されることがある。α-CaMKIIヘテロ欠損マウスは攻撃性の増大、活動性の亢進、不安様行動の低下、うつ様行動の低下、作業記憶の障害など一連の顕著な精神疾患様行動異常を示すことが行動テストバッテリーを用いた解析で明らかになった[68]。このマウスの脳を解析したところ、海馬歯状回の神経細胞が、分子生物学的、形態学的、電気生理学的に未成熟な細胞の特性を示しており、このマウスの海馬歯状回は非成熟歯状回 (iDG, immature dentate gyrus) であることがわかった[68]。行動テストバッテリーでさまざまなマウス系統の解析を行った結果、他の遺伝子改変マウス(Schnurri-2欠損マウス、SNAP-25 変異マウスなど)および薬物投与マウスでも活動性の亢進、不安様行動の低下、作業記憶の障害というα-CaMKIIヘテロ欠損マウスと共通する行動異常パターンを示すものが発見された[69] [70] [71] [72]。これらのマウスの脳を調べたところ、共通して非成熟歯状回を持つことが確認された[69] [70] [71] [72]。非成熟歯状回は、最近の研究によって統合失調症および双極性気分障害患者の死後脳でも見つかっており[73]、統合失調症をはじめとした精神疾患の中間表現型となる可能性がある。このように、類型化できるような行動異常のパターンが見られるマウスには、共通した脳内の異常、すなわち行動異常に対応する中間表現型が存在する可能性がある。現在ではヒトの精神疾患ではそれぞれの診断に対応するような生物学的マーカーが存在しておらず、それが精神疾患の治療及び研究を難しくしている。ヒトの精神疾患で各疾患に対応するような生物学的な指標を確立させることができれば、これまでは主観的な所見によって診断されていた精神・神経疾患を、生物学的な特徴に基づいて診断することができ、各患者が示す生物学的な指標に応じた適切な予防・治療法の開発が可能になると期待される[74]。
今後の展望
現在、マウスにおいてすべての遺伝子のノックアウトマウスをつくるというプロジェクト「国際ノックアウトマウスコンソーシアム」 (IKMC, International Knockout Mouse Consortium)[75]が国際的に協調して行われており、その中ではコンベンショナルなノックアウトマウスだけではなく、Cre-flox システムによるコンディショナル(時期・部位特異的)ノックアウトマウスをすべての遺伝子について作製するというプロジェクトも進んでいる[76]。これらのプロジェクトで作製されたマウスの表現型解析についても国際的な協力の下に行われており、国際共同開発プロジェクト「国際マウス表現型解析コンソーシアム」 (IMPC, International Mouse Phenotyping Consortium) では、IKMCで開発したノックアウトマウスの眼の形態観察、血液検査、各種の生理学的な指標の解析を大規模に行っている[77]。しかし、このような大規模解析においては、行動表現型の解析はごく簡単なスクリーニングに限定されており、例えばIMPCにおいて必須の実施項目とされている行動テストは筋力 (grip strength) と感覚 (acoustic startle/PPI, auditory brain stem response) のテストのみである。このように現状では限られた行動テストしか実施されておらず、重要な行動表現型が見落とされてしまう可能性がある。今後、高次脳機能の解析を含めた行動テストバッテリーによる網羅的な解析プロジェクトが実施され、作製された遺伝子改変マウスの行動表現型が解析されれば、新たな精神疾患モデルマウスの同定や、さまざまな遺伝子の脳における新規機能の発見などの成果が次々と得られると期待される。
日本国内で行動テストバッテリーによるマウス解析を行っている施設としては、先述の藤田保健衛生大学 総合医科学研究所 システム医科学研究部門および生理学研究所 行動・代謝分子解析センター 行動様式解析室のほか、理化学研究所、遺伝学研究所などがある。各施設で解析されたデータをまとめてデータベース化し、バイオインフォマティクス的な解析を可能にしようという試みがなされている[78]。得られた大量のデータを解析することで、各種指標間の関係や環境パラメータの行動に与える影響などマウスの行動解析についての基礎的な知見が得られることが期待される。藤田保健衛生大学と生理学研究所では同一のプロトコルによってさまざまな遺伝子改変マウスが解析され、全て同じ形式でデータが蓄積されているため、得られたデータは容易に比較できる。しかし、異なる施設間では通常プロトコルが異なっており、さらにプロトコルの記述方法についても異なることが多いために、得られたデータの比較が難しいという問題がある。この問題を改善するためにプロトコルの記述方法の統一をする試みも進められている[57]。
近年では、ゲノムワイド関連解析 (GWAS, genome-wide association study, 脳科学辞典の該当項目参照) により、疾患や行動特性に関連を示す遺伝子や遺伝子多型が報告されるようになった。ヒトの認知機能に対しても、知能テストや言語機能テストなどで構成されるような高次脳機能テストバッテリーが実施されており、ヒトの各種の脳機能とそれらに関連する遺伝子の情報が得られている[79] [80]。これらの遺伝子の欠損や変異を導入したマウスを作製すれば、ヒトには適用できない各種の解析手法を用いて当該遺伝子やその多型の機能的意義をより詳細に評価することができる。また、遺伝子工学の技術が発展したことにより、マウスだけではなくラット[81]、そして霊長類であるサル(マーモセット)においても遺伝子改変動物を作製することが可能となった[82]。霊長類のように高等な動物の脳機能は、より人間に近いと考えられており、高次脳機能における遺伝子の機能をさらに詳しく明らかにできると期待されている。このような目的のために、今後はマウスだけではなく、これらの動物種にも適用できる行動テストバッテリーの開発と整備が望まれる。
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