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細 (→音読・発話に関するモデル) |
細 (→語彙の神経基盤) |
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最後にLeveltの言語産出モデル<ref><pubmed> 11698690 </pubmed></ref>を紹介する。言語産出過程の具体的な例として、絵画中に描かれた対象が何であるかを呼称する課題を考えてみよう。まず提示された絵に対応する[[概念]]が産出すべきメッセージとして活性化される。続いて、このメッセージが対応するレンマ(lemma)を活性化する。レンマとは語彙項目の意味的・統語的な情報である。たとえば英語のHORSEに対応するレンマが活性化されると、それが可算名詞であること、単数形ないし複数形であること、といった情報が利用可能となる。ここまでが言語産出における語彙選択(lexical selection)の過程である。選択されたレンマは引き続いて形態的・音韻的に符号化される。たとえばHORSEの複数形は2つの形態素から構成されるものであるが、これらのそれぞれについて<horse> と<iz>のような音韻コード(phonological code)が検索される。音韻コードは音素の系列であり、[[wikipedia:ja:音節|音節]]([[wikipedia:syllable|syllable]])へ統合されたり[[wikipedia:ja:強勢|強勢]]([[wikipedia:stress linguistics|stress]])パターンが付与されたりといった処理を受ける。これらの処理を音韻的符号化(phonological encoding)という。このプロセスの出力は抽象的な音韻表象であり、音韻語(phonological word)と呼ばれる。音韻語は音声的符号化(phonetic encoding)の過程を経て[[wikipedia:ja:調音|調音]]スコア(articulatory score)として出力される。最後にこの調音スコアの指示に基づいて調音器官(舌や唇など)が動かされ、実際に音声が発せられる。 | 最後にLeveltの言語産出モデル<ref><pubmed> 11698690 </pubmed></ref>を紹介する。言語産出過程の具体的な例として、絵画中に描かれた対象が何であるかを呼称する課題を考えてみよう。まず提示された絵に対応する[[概念]]が産出すべきメッセージとして活性化される。続いて、このメッセージが対応するレンマ(lemma)を活性化する。レンマとは語彙項目の意味的・統語的な情報である。たとえば英語のHORSEに対応するレンマが活性化されると、それが可算名詞であること、単数形ないし複数形であること、といった情報が利用可能となる。ここまでが言語産出における語彙選択(lexical selection)の過程である。選択されたレンマは引き続いて形態的・音韻的に符号化される。たとえばHORSEの複数形は2つの形態素から構成されるものであるが、これらのそれぞれについて<horse> と<iz>のような音韻コード(phonological code)が検索される。音韻コードは音素の系列であり、[[wikipedia:ja:音節|音節]]([[wikipedia:syllable|syllable]])へ統合されたり[[wikipedia:ja:強勢|強勢]]([[wikipedia:stress linguistics|stress]])パターンが付与されたりといった処理を受ける。これらの処理を音韻的符号化(phonological encoding)という。このプロセスの出力は抽象的な音韻表象であり、音韻語(phonological word)と呼ばれる。音韻語は音声的符号化(phonetic encoding)の過程を経て[[wikipedia:ja:調音|調音]]スコア(articulatory score)として出力される。最後にこの調音スコアの指示に基づいて調音器官(舌や唇など)が動かされ、実際に音声が発せられる。 | ||
= 語彙の神経基盤 | == 語彙の神経基盤 == | ||
近年 [[Voxel based morphometry]] を用いた実験により、語彙量の多い人ほど左[[縁上回]]の[[灰白質密度]]が高いというデータが報告されている<ref><pubmed> 18418473 </pubmed></ref>。しかしながら、この事実は語彙情報のすべてがこの部位に表象されているということを意味しない。長年の[[失語症]]研究で語彙処理に関連する障害は数多く報告されてきたが、損傷部位によって障害される機能はさまざまである。以下では語彙が脳内でどのように処理されるかについて簡単に述べる。 | 近年 [[Voxel based morphometry]] を用いた実験により、語彙量の多い人ほど左[[縁上回]]の[[灰白質密度]]が高いというデータが報告されている<ref><pubmed> 18418473 </pubmed></ref>。しかしながら、この事実は語彙情報のすべてがこの部位に表象されているということを意味しない。長年の[[失語症]]研究で語彙処理に関連する障害は数多く報告されてきたが、損傷部位によって障害される機能はさまざまである。以下では語彙が脳内でどのように処理されるかについて簡単に述べる。 | ||
== 音声的な語彙の処理 == | === 音声的な語彙の処理 === | ||
左上側頭回の中部から後部にかける領域は[[ウェルニッケ野]]と呼ばれるが、この領域を含む脳の損傷はウェルニッケ失語を引き起こす。ウェルニッケ失語では音声言語の理解が大きく損なわれ、また聴覚提示された単語の復唱も困難となる。発話は流暢で文法的だが、しばしば単語の使用に誤りが見られる。 | 左上側頭回の中部から後部にかける領域は[[ウェルニッケ野]]と呼ばれるが、この領域を含む脳の損傷はウェルニッケ失語を引き起こす。ウェルニッケ失語では音声言語の理解が大きく損なわれ、また聴覚提示された単語の復唱も困難となる。発話は流暢で文法的だが、しばしば単語の使用に誤りが見られる。 | ||
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左[[側頭葉]]の損傷では物体や人名の呼称ができなくなるケースもあるが、この場合には損傷される部位によって障害される[[カテゴリー]]が異なるということが知られている。絵に描かれた対象を患者に呼称させる実験から、人名は左[[側頭極]]の、動物名は左下側頭回の、道具名は左後部下側頭回および[[後頭頭頂側頭接合部]]の障害により、最も成績が低下していることが明らかとなった<ref><pubmed> 8606767 </pubmed></ref>。ただし、これらの患者では単語の持つ意味や概念自体は保持されていたと考えられる。というのも、たとえば彼らはスカンクの絵を見て「近づくとひどい臭いを出す動物で、白黒で…」といった内容を答えることはできたからである。つまりこれらの障害においては、単語の意味を適切な音韻表現に変換する機能が損なわれていたのではないかと考えられる。ちなみに、動詞の生成は側頭葉でなく、ブローカ野を含む周辺の左[[前頭葉]]損傷により障害される<ref><pubmed> 8506341 </pubmed></ref>。ただしこうした関連領野の違いが名詞と動詞という文法的な区別を反映しているかどうかは慎重に検討される必要がある。 | 左[[側頭葉]]の損傷では物体や人名の呼称ができなくなるケースもあるが、この場合には損傷される部位によって障害される[[カテゴリー]]が異なるということが知られている。絵に描かれた対象を患者に呼称させる実験から、人名は左[[側頭極]]の、動物名は左下側頭回の、道具名は左後部下側頭回および[[後頭頭頂側頭接合部]]の障害により、最も成績が低下していることが明らかとなった<ref><pubmed> 8606767 </pubmed></ref>。ただし、これらの患者では単語の持つ意味や概念自体は保持されていたと考えられる。というのも、たとえば彼らはスカンクの絵を見て「近づくとひどい臭いを出す動物で、白黒で…」といった内容を答えることはできたからである。つまりこれらの障害においては、単語の意味を適切な音韻表現に変換する機能が損なわれていたのではないかと考えられる。ちなみに、動詞の生成は側頭葉でなく、ブローカ野を含む周辺の左[[前頭葉]]損傷により障害される<ref><pubmed> 8506341 </pubmed></ref>。ただしこうした関連領野の違いが名詞と動詞という文法的な区別を反映しているかどうかは慎重に検討される必要がある。 | ||
== 視覚的な語彙の処理 == | === 視覚的な語彙の処理 === | ||
[[Image:語彙の神経基盤.png|thumb||250px|'''図.語彙の処理に関わる脳内領域'''<br>ウェルニッケ野には語彙の聴覚的表象があり、左紡錘状回には視覚的表象がある。]] | [[Image:語彙の神経基盤.png|thumb||250px|'''図.語彙の処理に関わる脳内領域'''<br>ウェルニッケ野には語彙の聴覚的表象があり、左紡錘状回には視覚的表象がある。]] | ||
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単語の読みには全語読みと音声読みの2種類があることは先に述べた。[[失読症]]の研究から、これらの読みは特異的に障害され得ることが知られている。全語読みの障害は表層性失読(surface dyslexia)といい、音声読みの障害は音韻性失読(phonological dyslexia)という。全語読みと音声読みは異なる神経機構によって支えられている。脳損傷研究および脳機能イメージング研究によって、全語読みには左[[紡錘状回]]が関連していることが明らかとなっている<ref><pubmed> 18272399 </pubmed></ref><ref><pubmed> 16720031 </pubmed></ref>。左紡錘状回は非単語の文字列によっても賦活されるが、前部に行くほど単語に対する選択性が強くなる<ref><pubmed> 17610823 </pubmed></ref>。左紡錘状回において単語文字列に選択的に応答する領域は視覚性単語形状領域(visual word form area)と呼ばれる。単語の視覚的表象はこの領域にあると考えられる。これに対し、音声読みでは左縁上回、左上側頭回、および左下前頭回([[ブローカ野]])といった領域が活動する<ref><pubmed> 14568445 </pubmed></ref>。これは先述した二重経路カスケード・モデルにおいて、書記素‐音素の変換に当たる機能がこれらの神経機構によって実現されることを示唆している。 | 単語の読みには全語読みと音声読みの2種類があることは先に述べた。[[失読症]]の研究から、これらの読みは特異的に障害され得ることが知られている。全語読みの障害は表層性失読(surface dyslexia)といい、音声読みの障害は音韻性失読(phonological dyslexia)という。全語読みと音声読みは異なる神経機構によって支えられている。脳損傷研究および脳機能イメージング研究によって、全語読みには左[[紡錘状回]]が関連していることが明らかとなっている<ref><pubmed> 18272399 </pubmed></ref><ref><pubmed> 16720031 </pubmed></ref>。左紡錘状回は非単語の文字列によっても賦活されるが、前部に行くほど単語に対する選択性が強くなる<ref><pubmed> 17610823 </pubmed></ref>。左紡錘状回において単語文字列に選択的に応答する領域は視覚性単語形状領域(visual word form area)と呼ばれる。単語の視覚的表象はこの領域にあると考えられる。これに対し、音声読みでは左縁上回、左上側頭回、および左下前頭回([[ブローカ野]])といった領域が活動する<ref><pubmed> 14568445 </pubmed></ref>。これは先述した二重経路カスケード・モデルにおいて、書記素‐音素の変換に当たる機能がこれらの神経機構によって実現されることを示唆している。 | ||
== 意味の脳内ネットワーク == | === 意味の脳内ネットワーク === | ||
単語の意味を理解するとはどういうことだろうか。この問題に関しては2つの対立する理論的立場が存在する。ひとつは、単語の意味は脳内の感覚・運動システムにおける過去の経験の表象が再活性化されることで理解されるとする立場である。それに対してもう一方の立場では、運動や感覚のモダリティに依存しない抽象化された意味知識が脳内に組織されていると考える。 | 単語の意味を理解するとはどういうことだろうか。この問題に関しては2つの対立する理論的立場が存在する。ひとつは、単語の意味は脳内の感覚・運動システムにおける過去の経験の表象が再活性化されることで理解されるとする立場である。それに対してもう一方の立場では、運動や感覚のモダリティに依存しない抽象化された意味知識が脳内に組織されていると考える。 | ||
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一方で、動作動詞の理解は視覚や運動といったモダリティ固有の神経回路には依存しないという研究も存在する<ref><pubmed> 21486297 </pubmed></ref>。これによると、単語の意味は左側頭葉、左[[頭頂葉]]および左[[前頭前野]]のモダリティ非依存な神経システムにおいて理解される。また[[意味認知症]](semantic dementia)の研究に基づき、モダリティに依存しない意味情報のハブが側頭葉前部にあるという提案も為されている<ref><pubmed> 18026167 </pubmed></ref>。 | 一方で、動作動詞の理解は視覚や運動といったモダリティ固有の神経回路には依存しないという研究も存在する<ref><pubmed> 21486297 </pubmed></ref>。これによると、単語の意味は左側頭葉、左[[頭頂葉]]および左[[前頭前野]]のモダリティ非依存な神経システムにおいて理解される。また[[意味認知症]](semantic dementia)の研究に基づき、モダリティに依存しない意味情報のハブが側頭葉前部にあるという提案も為されている<ref><pubmed> 18026167 </pubmed></ref>。 | ||
しかし現時点において、上述した2つの立場のいずれかを棄却するような決定的な証拠はない。[[意味記憶]]が前頭葉、側頭葉、頭頂葉といった広い領域に分散して表現されていることはおそらく確かであるが、意味の表象や処理に関する詳細な脳内機構については更なる研究の進展を待たねばならない。 | しかし現時点において、上述した2つの立場のいずれかを棄却するような決定的な証拠はない。[[意味記憶]]が前頭葉、側頭葉、頭頂葉といった広い領域に分散して表現されていることはおそらく確かであるが、意味の表象や処理に関する詳細な脳内機構については更なる研究の進展を待たねばならない。 | ||
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