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記憶痕跡とは、20世紀初頭にドイツの生物学者Richard Semonにより唱えられた言葉である。Donald Hebbの[[細胞集成体]]([[セルアセンブリ]]、cell assembly)仮説によると、[[記憶]]は脳内にある特定のニューロン集団(セルアセンブリ)として符号化されて蓄えられる(アンサンブル・コーディング、ensemble coding)と想定している<ref name=ref1>'''Hebb DO'''<br>The Organization of Behavior<br>''John Wiley & Sons Inc'' (1949)<br>本書は1966年以来絶版になっていたが、2002年にLawrence Erlbaumから再刊された(現在は、Taylor & Francisから刊行されている)。最近、邦訳が出た。<br>'''D.O.ヘッブ'''<br>行動の機構<br>''岩波文庫''、2011年</ref>。すなわち、学習時に活性化した特定のニューロンのセットという形で脳のなかに残った物理的な痕跡が「記憶痕跡」である(図1)。以下に述べるように、現在ではこの仮説は実験的な証拠を基に、大筋において支持されている。 | 記憶痕跡とは、20世紀初頭にドイツの生物学者Richard Semonにより唱えられた言葉である。Donald Hebbの[[細胞集成体]]([[セルアセンブリ]]、cell assembly)仮説によると、[[記憶]]は脳内にある特定のニューロン集団(セルアセンブリ)として符号化されて蓄えられる(アンサンブル・コーディング、ensemble coding)と想定している<ref name=ref1>'''Hebb DO'''<br>The Organization of Behavior<br>''John Wiley & Sons Inc'' (1949)<br>本書は1966年以来絶版になっていたが、2002年にLawrence Erlbaumから再刊された(現在は、Taylor & Francisから刊行されている)。最近、邦訳が出た。<br>'''D.O.ヘッブ'''<br>行動の機構<br>''岩波文庫''、2011年</ref>。すなわち、学習時に活性化した特定のニューロンのセットという形で脳のなかに残った物理的な痕跡が「記憶痕跡」である(図1)。以下に述べるように、現在ではこの仮説は実験的な証拠を基に、大筋において支持されている。 | ||
外界から情報(刺激)を得たときに、脳内ではさまざまな組み合わせのニューロンの間で回路(circuit)が形成される。このような情報獲得時の機能的な回路形成は、外界からの情報を得た際に活動したニューロン間の[[シナプス伝達]]効率の上昇により起こると考えられている。ニューロン間の信号の受け渡しの場のシナプスにおいて観察される経験依存的な伝達効率の上昇現象である[[長期増強]]([[long-term potentiation]], [[LTP]],図1A)は、[[シナプス可塑性]]の代表例であるが、その誘導と保持の過程の機構が記憶の形成と保持の機構と類似する。また、LTPに異常を示す変異マウスにおいて、記憶の獲得や保持に異常が認められ、さらに、記憶形成時に実際にLTPが観察されたことから、LTPは記憶のシナプスレベルでの素過程であると考えられている。このようにしてシナプス伝達が増強したニューロンセットが活動することにより記憶の想起が行われる(図1B) | ==シナプス可塑性と記憶痕跡== | ||
外界から情報(刺激)を得たときに、脳内ではさまざまな組み合わせのニューロンの間で回路(circuit)が形成される。このような情報獲得時の機能的な回路形成は、外界からの情報を得た際に活動したニューロン間の[[シナプス伝達]]効率の上昇により起こると考えられている。ニューロン間の信号の受け渡しの場のシナプスにおいて観察される経験依存的な伝達効率の上昇現象である[[長期増強]]([[long-term potentiation]], [[LTP]],図1A)は、[[シナプス可塑性]]の代表例であるが、その誘導と保持の過程の機構が記憶の形成と保持の機構と類似する。また、LTPに異常を示す変異マウスにおいて、記憶の獲得や保持に異常が認められ、さらに、記憶形成時に実際にLTPが観察されたことから、LTPは記憶のシナプスレベルでの素過程であると考えられている。このようにしてシナプス伝達が増強したニューロンセットが活動することにより記憶の想起が行われる(図1B)。すなわち、外界から得られた情報が、場所や経験などから想起することができる「記憶の痕跡」として脳に残されていることを意味している。 | |||
==記憶痕跡を巡る議論== | |||
しかし記憶痕跡の仮説は概念に過ぎないのか、あるいは脳内のニューロンの物理的なネットワークとして存在するのか、さらに、具体的にどの脳領域に記憶痕跡が存在するのかについてははっきりしていなかった。 | |||
米国の心理学者Karl Lashleyは[[wikipedia:ja:ラット|ラット]]を使った実験で、記憶痕跡の存在について異議を唱えた<ref name=ref2>'''Lashley K.'''<br> In search of the engram. <br>Society of Experimental Biology Symposium 4:454–82. (1950) </ref>。Lashleyはまずラットに[[迷路]]を学習させた後、ラットの[[大脳皮質]]の様々な領域を異なる大きさで取り除いた。するとラットは大脳皮質を取り除かれた分だけ、迷路から抜け出すことが困難になり、大脳皮質の取り除いた領域ではなく、取り除いた割合と迷路の課題を達成する困難さが相関することを示した(図2)。これらの結果を基にLashleyは、「記憶は特定の脳領域に局在して蓄えられるのではなく、大脳皮質全体に分散して蓄えられる。大脳皮質の領域は、お互いに代用可能である。」と述べ、記憶痕跡が本当に存在するのか?という疑問を生じさせた。しかし、Lashleyの行った研究は、その実験系の複雑さゆえに記憶痕跡を発見できなかったと考えられ、Lashleyの実験以降、多くの科学者が記憶痕跡の存在を求め、精力的に研究を行ってきた。 | |||
1999年、John Guzowskiのグループは、[[CatFISH]] (cellular compartment analysis of temporal activity by fluorescent in situ hybridization)法を用い、神経活動時に発現が誘導される[[Arc]] ([[activity-regulated cytoskeleton-associated protein]]) [[wikipedia:ja:mRNA|mRNA]]の時間的な細胞内局在変化を指標として記憶痕跡の存在を探索した<ref name=ref3><pubmed>10570490</pubmed></ref>。彼らはまずラットを新規環境に暴露し、その後、再度同じ環境(Context A)もしくは異なる環境(Context B)に暴露した後に、海馬におけるArcの発現およびその細胞内局在を調べた。その結果、新規環境に暴露された時にArcを発現したニューロンは、異なった環境(Context B)ではArcを発現せず、同じ環境(Context A)に再暴露されたときのみ再度Arcを発現することを見出した。すなわち、一度経験した事柄に再度暴露すると、初期の経験依存的に活性化されたニューロンが再活性化することが示された。 | 1999年、John Guzowskiのグループは、[[CatFISH]] (cellular compartment analysis of temporal activity by fluorescent in situ hybridization)法を用い、神経活動時に発現が誘導される[[Arc]] ([[activity-regulated cytoskeleton-associated protein]]) [[wikipedia:ja:mRNA|mRNA]]の時間的な細胞内局在変化を指標として記憶痕跡の存在を探索した<ref name=ref3><pubmed>10570490</pubmed></ref>。彼らはまずラットを新規環境に暴露し、その後、再度同じ環境(Context A)もしくは異なる環境(Context B)に暴露した後に、海馬におけるArcの発現およびその細胞内局在を調べた。その結果、新規環境に暴露された時にArcを発現したニューロンは、異なった環境(Context B)ではArcを発現せず、同じ環境(Context A)に再暴露されたときのみ再度Arcを発現することを見出した。すなわち、一度経験した事柄に再度暴露すると、初期の経験依存的に活性化されたニューロンが再活性化することが示された。 |