クオリア

2016年6月7日 (火) 04:36時点におけるWikiSysop (トーク | 投稿記録)による版

土谷 尚嗣
Monash University
DOI:10.14931/bsd.7155 原稿受付日:2016年月日 原稿完成日:2016年月日
担当編集委員:定藤 規弘(自然科学研究機構生理学研究所 大脳皮質機能研究系)

羅:qualia 英: qualia 独:Qualia 仏:qualia

 クオリアは、我々の意識にのぼってくる感覚意識やそれにともなう経験のことである。脳科学では、クオリアはなんらかの脳活動によって生み出されていると考える。しかし、具体的にどのようなメカニズムがどのようなクオリアを生み出すのか、また、クオリアを生み出す脳活動と生み出さない脳活動では何が違うのか等はわかっていない。そもそも、クオリアは生物の生存にとってどのような意味で有効なのかすらが明らかでない。哲学者は長くクオリアについて論じてきたが、クオリアという概念に意味があるかどうかですら、意見が分かれている。本項では、クオリアに関する概念・議論を解説し、脳科学研究によってクオリア問題に具体的にアプローチする方法にはどのようなものがありうるかを概説する。哲学的な議論に関してはhttp://plato.stanford.edu/entries/qualia/ を参照。

クオリアとは

 クオリアとは、ラテン語 qualiaで、単数形は a quale であり、我々が意識的に主観的に感じたり経験したりする「質」のことを指す。日本語では感覚質とも呼ばれる[註 1] 。一般に、夕焼けの赤い感じ、虫歯の痛み、などの比喩を使って説明されることが多い。

狭義・広義でのクオリア

 哲学心理学の文献では、暗示的にクオリアという言葉が、狭い意味、もしくは広い意味で使われることが多く、どのような意味でクオリアという言葉が使われているかに注意して読まないと混乱をきたす。また狭義・広義の区別はそれに対応する脳科学的なアプローチにも関わる重要なものである。

 最も狭い意味でのクオリアとは、一瞬の意識経験のうちのある一つの感覚的な側面を指す。例えば、図1のように、画面の真ん中に十字があり、その左、もしくは、右に赤い丸が提示されているような状況で、読者が十字を見つめているとしよう。このとき、赤丸の赤さだけを取り出せば、二つの画面で、読者は、狭い意味では、同じ赤いクオリアを経験している、と言う。

 
図1. クオリアの例
一方で、広い意味でのクオリアとは、一瞬に経験される意識経験の中身、すべてを指す。例えば、図1の二つの図では、赤い丸の位置が違うため、広い意味では、異なるクオリアを経験していることになる[註 2]

 狭い意味でのクオリアは、脳科学的に最も研究しやすい。古典的な心理物理学は、わずかに異なる二つの感覚刺激を被検者に呈示し、どのような刺激の特性は、意識的に同じとみなせるか、違いを区別できるかが詳しく研究されている[註 3]

 より広い意味でのクオリアには、視覚全般を含んだクオリアなどが考えられる。視覚全般のクオリアは、複雑な内容を含んだ自然画像を使った実験などによって研究できる。変化に対する盲目(Change Blindness (Simons & Rensink, 2005))などの実験では、ある一点を除いては全く同じ2つの画像を繰り返し見せられてもなかなかその2つの画像の違いに気づかない。これは、広い意味でいうところの同じ視覚クオリアが二つの画像によって生み出されるから、と考えることもできる。

 すべての感覚モダリティ(視覚聴覚触覚など)を含んださらに広義のクオリアを研究するには、映画やバーチャル・リアリティなどを使った実験が行われる(Hasson, Nir, Levy, Fuhrmann, & Malach, 2004)。

 究極的に広義のクオリアは、ある生物がある一瞬に経験するすべての感覚モダリティと、すべての非感覚的経験(思考感情記憶等)を含むものとなる。そこまでいくと、一瞬一瞬の経験には再現性がないため、科学的な研究はできないだろう。

クオリアと関係する概念

 哲学者らは、クオリアという語で指し示す概念を整理するために、関連する概念をいくつも提案してきた(http://plato.stanford.edu/entries/qualia/)。ここでは、その中で特に脳科学的なクオリア研究に関連する概念を説明する。

「それになった感じ」

"what it is like”  哲学者トーマス・ネイジェルは、「コウモリになるとはどんな感じか?(what it is like to be a bat?)」という問題を提起した(Nagel, 1974)。この問いは、クオリア問題の本質を理解する上で重要である。ポイントは、「我々が想像するに、コウモリになったらこんな感じだろう」という、擬人化した比喩としてのコウモリ理解ではなく、我々がコウモリそれ自体になってしまった時の経験はどのようなものかを問うているという点である。人間としての言語も記憶も無く、超音波をつかって物体の位置を感知し、飛びまわり、逆さまになって生活するという性質をもったコウモリそれ自体になったらどのような感じがするか? それはコウモリにならないと究極的にはわからないだろう。この場合の「わかる」は、概念の理解という意味での「わかる」とは異なる。経験とは、言語的な説明では「わからない」ものである。直接の経験を通してしかわからないのがクオリア問題の本質である。

 そのように考えると、コウモリに限らず、他の動物、他人、人工的なシステムなどに、たとえ意識があったとして、それになったときにの感じ(what it is like) は、それ自身にならない限りわからない。脳科学から、この問題に対してどのようなアプローチの可能性があるかについては後の章を参照。

「それになった感じ」としてのクオリアは、通常、広い意味でのクオリアと同義であると考えて良い。クオリアは、意識の感覚的な側面のみを指す時に限定して使われることもあるが、「それになった感じ」には非感覚的な思考や感情など経験すべての側面が含まれる。(http://plato.stanford.edu/entries/qualia/)

現象としての意識phenomenal consciousness

 哲学者ネッド・ブロック (Ned Block)は、現象としての意識(phenomenal consciousness)とアクセス可能な意識 (access consciousness)という概念を区別した。現象としての意識も、「それになった感じ」と同じく、意識の感覚として側面だけに限定されず、思考や感情も含んだクオリアと考えて良い。用法としては、ある特定のクオリアを指すことが多い。

 具体的な(ある程度広い意味での)視覚クオリアを例にとって、現象としての意識とアクセス可能な意識について説明してみよう。

 Freeman & Simoncelli (Freeman & Simoncelli, 2011)は、周辺視野の解像度と混みあい効果の影響を考えて、ある自然画像(図2、左)とほぼ同じ広義の視覚クオリアを生み出すような人工画像(図2、右)をつくりだすのに成功した。

ファイル:Tuchiya qualia2.png
right 図2. 広い意味で同じ視覚クオリアを生み出す2枚の画像(Freeman & Simoncelli, 2011)
左のオリジナルの写真も、右の人工的な画像も、中心の点を見つめる限り、ほぼ同じような視覚経験を生み出す。人間の視覚システムの周辺視野における解像度などの特徴を考慮に入れたコンピューターモデルには、左右の写真は区別がつかない。

 ヒトの視覚システムは見つめている焦点が最も解像度が高く、周辺視野に行けばいくほど解像度が悪くなる。また、周辺視野では混みあい効果 (crowding(Pelli & Tillman, 2008))という現象が生じる。これらの影響のため、特に複雑な内容の自然画像では、直接に焦点を当てて見ている部位以外では、異なる画像も同じクオリアを起こす。

 Freeman & Simoncelliによる図2を例にとると、中心の点を見つめている時に我々にアクセス可能な意識は、「人々が集う公園のような場所で、右後ろには建物があって、左後ろには木がある」というように言語的に報告でき、記憶に保持でき、そのため後の意識的な行動計画に直接影響を及ぼすような、意識の側面を指す。そのような意味では左の図も右の図も同じようなアクセス可能な意識が経験される。

 一方、現象としての意識には、アクセス可能な意識に加えて、なんとも言語にしがたい経験も含まれる。読者の中には、長い間図2を見ていると、微妙な曲線の違い、なんとなく感じられる人の数、木の葉っぱの感じ、などに違いがあることが感じられる人がいるかもしれない。そもそも、一瞬だけこの画像を見ただけであっても、言語にしがたいさまざまな側面が意識にのぼることもあるだろう。アクセス可能な意識以上に現象としての意識は本当に経験されているのかという問題については、現在も議論が非常に盛んであり、心理学・脳科学で実証的に研究できる可能性が高い(後の章を参照)。

「難しい問題(Hard problem)」とクオリア

 哲学者ディビット・チャルマーズによって提唱された意識の「難しい問題」とは、クオリアと脳内で起こる物理化学現象の間にある大きなギャップのことを指す[1]。「難しい問題」の議論には、色々な問題が含まれる。  たとえば、狭い意味での赤いクオリアを引き起こすような神経活動が、なぜ、青いクオリアを引き起こさないのか、という問題がある。これは「難しい問題」の一例である。哲学者の中には、もし突然、自分が経験するすべての赤と青のクオリアが入れ替わってしまったとしてもそれには自分が全く気づけないはずだ、という「逆転クオリア」の思考実験を行い、どのように神経科学が進んだとしてもこのような問題は解き明かすことができない類の問題である、と論じているものもいる(http://plato.stanford.edu/entries/qualia-inverted/)。はたして、脳科学が根源的にクオリアの謎を解き明かすことはできないのか、実際に研究の手立てがないのかについては、後の項を参照。

心理学・脳科学におけるクオリア問題へのアプローチ

 残りの項目では、心理学・脳科学による代表的なクオリア問題への具体的な研究手法と、クオリア問題の理解の鍵となる現象、解決の鍵となる理論について概説を行う。

心理学研究における錯視を使ったクオリアの特徴づけ

 伝統的な心理学研究の手法の中でも、錯覚 [註 4]を使った研究は、クオリア問題に最も直接的にアプローチしていると言って良い[2]。錯覚を生み出す刺激は、ほぼ全ての感覚モダリティで見つかっているが、最も劇的なのは、視覚におけるもので、特に錯視と呼ばれる。たとえば、色の波長としては全く同じ黄色い四角形が、茶色やオレンジ見える錯視や、円筒の影になっている部分とそうでない部分のタイルが全く違う濃さの灰色のタイルに見えるが、光の波長としては二つの四角形は全く同じである、という錯視がある(図3)。このような錯視を元に、心理物理学者は、クオリアの性質を様々な観点から特徴づけてきた。

thumb|right 図2. 視覚クオリアの特徴を捉える錯視[3]
左:矢印で示された左のオレンジのタイルと上の茶色のタイルは同じ波長の光だが、周囲の色との関係性で違う色として経験される。周りのタイルを全て隠すとそれが確認できる。右:同じく、上の暗い灰色と下の明るい灰色も、同じ波長の同じ強さの光であるが、異なる強さの灰色として感じられる。

 たとえば、このような錯視から、感覚的なクオリアは、一般に、時間・空間的な文脈(コンテクスト)[註 5] の中で決定されること、自分の意志の持ち方や、注意の向け方を変えることで変更することはできないこと(irrevocability, (Ramachandran and Hubbard 2001))、などが提案されてきた[註 6]

 また、クオリアが脳内の神経活動によって規定されるものであるということを、読者自身が直接経験するにも、錯視は有効な手段である。以下のリンク先のビデオを見て欲しい。目を動かさず、まばたきをしないようにして画面中央を見続けていると何が経験されるだろうか?

[[File:MotionBlindnessf.gif
Wikipediaより]]

 常に画面上に存在し続けて、網膜視細胞を刺激し続ける黄色い3つの点が、意識から消えたりまた帰ってきたりするのではないだろうか? この現象はmotion-induced blindness (MIB、視覚的動きによって物体の消失)と呼ばれる(Bonneh, Cooperman, & Sagi, 2001)。このような現象は、たとえ、感覚入力が一定であっても、脳内の神経活動が何らかの形で活動状態を変えるために、それにともなって黄色のクオリアが変化する、ということを直接に示す。

脳科学研究におけるクオリアに相関する神経活動の同定

 Motion-induced blindnessは、同一の入力刺激が時間を追って異なるクオリアを生み出す「双安定錯視」の一種である(Kim & Blake, 2005)。Motion-induced blindnessは比較的近年見つかった錯視であるが、この他にもさまざまな双安定錯視が長年の視覚心理学研究によって見つかっている

 双安定錯視は、1990年代に意識が脳科学で研究されるようになる中で、中心的な役割を果たしてきた。双安定錯視は、入力刺激としては一定にも関わらず、クオリアが時間を追って変化する。そのような状況で、被験者に何が意識にのぼっているかを正確に刻一刻と報告してもらうことで、クオリアの変化に相関して変化するような神経活動を同定することが可能である。さまざまな双安定錯視を使った研究は、各種の脳活動計測テクニックを使い、現在も非常に盛んに行われており、方法論もより洗練されたものになりつつある。

 人間を対象とした実験だけでなく、トレーニングを積んだサルの脳に直接に電極を埋め込み神経活動を記録するといった実験もある。最近では、どのような刺激が意識にのぼっているかを被験者に報告させずに、眼球運動や脳活動からクオリアを読み取ることで、報告の影響を排除し、クオリアそのものに強く相関している神経活動を同定する試みが見られている(Aru, Bachmann, Singer, & Melloni, 2012; Frässle, Sommer, Jansen, Naber, & Einhäuser, 2014; Tsuchiya, Wilke, Frässle, & Lamme, 2015)。(報告とクオリアの関係性の項を参照)

 また、関連した研究手法として、クオリアを生み出さす神経活動と生み出さない神経活動の違いに注目する研究なども盛んに行われている[4]

アクセス可能な意識と現象としての意識・クオリアへの実証的な研究

 自分自身の一瞬の経験を振り返ってみると、その時に注意を向けていなかった周辺視野での印象、机の木の木目のように、いかんとも言語で表現できない複雑な感覚の側面がある。先の節で述べたように、これらの意識の側面はクオリアや現象としての意識の中に含まれるが、意識的なアクセスはされていないとも考えられる[註 7]

。意識的なアクセス可能性とクオリアという問題は、クオリア問題の本質に関わっている。現在、このトピックは心理学・脳科学による実証的な研究が盛んに行われている。

 アクセスできる意識は、報告可能な意識内容であるため、報告が正確である限り、実験者・被験者の間で共有可能である。報告内容を客観的なデータとして扱い、同時に脳活動を記録することで、アクセスできる意識がどのように脳活動と関連するのかを厳密に研究できる[4]。このような手法は、他の科学分野と同様に客観的に研究が可能である。このような考えのもとに発展してきたのが1990年以降の意識研究の主流であるneural correlates of consciousness (NCC)アプローチである[5]

 近年、上のようなアプローチでは、意識的なアクセスのメカニズム、報告のメカニズムが明らかになるだけで、クオリアがどのように脳活動から生じてくるのかを理解するには、妨げになるのではないか、ということが指摘されてきている(Aru et al., 2012; de Graaf, Hsieh, & Sack, 2012; Tsuchiya et al., 2015)。

 実際の研究例として、注意がそらされている状況での知覚(二重課題不注意による盲目(Pitts, Padwal, Fennelly, Martinez, & Hillyard, 2014))や、報告なし課題(Frässle et al., 2014)、などの課題がある。Pittsらは、被験者が画面中央の課題に集中している時に、背景を四角形に変えたり、ダイヤモンド型に変えたりという操作を行った。この時、過去に「意識に強く相関する神経活動」であると提案されてきたガンマ帯域(>30 Hz)での神経活動や、P3と呼ばれる刺激処理から300ミリ秒後に現れる活動は、報告の有る無しに左右され、被験者が四角形・ダイヤモンドに気づくかとは関係がないことを示した。同じように、Frassle らは、両眼視野闘争中に「意識に強く相関する神経活動」であると提案されてきた前頭前野での活動も、報告の有る無しに左右されることを示した。

 このような研究は、これまでに報告を中心においてきた意識研究の限界を示している(Koch, Boly, Massimini, & Tononi 2016)。アクセスできない、もしくは普段はアクセスしないような意識の内容もクオリアの一部であると考えるのであれば、アクセスの影響を意図的に排除するような実験パラダイムでクオリアと脳活動の研究も組み合わせなければ、脳活動とクオリアの関係性はわからないだろう。

クオリアと神経細胞同士のつながり方

 クオリアがある種の脳神経回路とその活動によって規定されるのであれば、神経細胞同士のつながり方を変えるとクオリアの内容も変化するはずである。長期にわたるトレーニングの結果、つながりを変化させることで知覚を変化させるという研究の歴史は長く、さまざまな結果が得られている(Sagi, 2011)。

 トレーニングなしに、直接に神経細胞のつながり方を一時的に変化させることで、一時的にクオリアを変化させることは可能だろうか? そのような実験を現時点では、人で安全に行うことはできない。しかし、将来的に、取り外し・付替えが可能な小規模の人工神経回路ができれば、そのような実験は臨床で行われる可能性がある。脳の一部が損傷してしまったことで、ある種の感覚が失われてしまった患者に対して、彼らのクオリアを回復する手段として人工神経回路を埋め込む、という治療は現在行われている脳と機械をつなげる技術(Brain Machine Interface, BMI)の延長線上に考えられるだろう。今のところ、これに近いアイデアを試すような実験は、まだモデル動物でも行われていない。

 ただし、長期にわたる神経細胞のつながりを変える、という実験はモデル動物で多く行われている。特に、フェレットを使った視覚・聴覚経路つなぎ変え(rewiring)の実験は、特筆に値する(Sharma, Angelucci, & Sur, 2000; von Melchner, Pallas, & Sur, 2000)。

 この実験では、片側の脳半球の聴覚野に、片方の眼球からの視覚入力が入力するように、視床のレベルで神経経路のつなぎ変えをフェレットが生まれて間もないころに行った[註 8] 。フェレットが成長した後で、「つなぎ変えを行わなかった側の」脳半球を使って、聴覚と視覚の簡単な弁別課題の訓練が行われた。フェレットが十分にトレーニングを積んだ後、つなぎ変えられた側の聴覚皮質だだけで処理された視覚入力が、視覚と聴覚、どちらに感じられたかをフェレットに報告させると、なんと、フェレットは視覚と感じられたという報告を行った(von Melchner et al., 2000)。また、つなぎ変えをされたフェレットの聴覚野の神経細胞同士のつながり方は、通常の聴覚野のそれよりも、視覚野の神経細胞同士のつながり方により近いと考えられる機能的な特性が見つかった(Sharma et al., 2000)。

 実際につなぎ変えを行われたフェレットになったらどのような感じがするのかはわからない。しかし、似たような状況は、ヒトで感覚代行(sensory substitution)と呼ばれる現象として報告されている(Bach-y-Rita & S, 2003)。感覚代行の例としては、眼球から視覚野への経路の損傷のせいで、視覚を失った患者に対して、視覚入力を聴覚・触覚を通して伝えるという手法がある。感覚が代行された患者の中には、音を通して、もしくは腹や背中に与えられる振動を通して、視覚が経験されると報告するヒトもいる。

 神経細胞同士のつながり方とクオリアの関係を研究する上で、共感覚(synesthesia)も強力な研究対象の一つとなりうる(Ramachandran & Hubbard, 2001)。共感覚を持っている人々は、ある種の感覚(たとえば、色の視覚)を感じた時に同時に他の感覚(たとえば、味や音)を感じる。共感覚保持者の脳部位は、共感覚をもたない人々にくらべ、共感覚を引き起こす部位同士のつながりが解剖的に強いことが示されている(Rouw & Scholte, 2007)。しかし、今のところ神経細胞の詳細なつながりはわかっておらず、なぜある特定の視覚刺激(たとえば、数字の「1」)が、特定の共感覚(たとえば、「赤い色」)を引き起こすかについてはわかっていない。今後の脳イメージングの発展によっては、特定のつながり方と特定のタイプの共感覚の関係性が明らかになる可能性がある。

理論的なクオリア研究

 前章で紹介した、つなぎ変え・感覚代行・共感覚などの現象は、クオリアが神経回路のつながり方とその活動パターンによって決定されるという考えと辻褄があう。しかし、どのような神経回路のつながり方が、どのようなクオリアを生み出すかについては、現在全く脳科学的な知見がないと言って良い。

 現在までに提唱されているクオリアの理論の中では、ジュリオ・トノーニによって提唱された統合情報理論は、ニューロン同士の階層的な因果関係がクオリアと対応するという仮説を提唱している(Balduzzi & Tononi, 2009; Oizumi, Albantakis, & Tononi, 2014; Tononi, 2004, 2015)[6]

 統合情報理論によれば、あるニューロンが脳内のどの部位に位置するかは、そのニューロンが生み出すクオリアには直接関係がなく、そのニューロンが他のニューロンとどのようにつながっているのこそがクオリアを決定するはずである。フェレットのつなぎ変えの実験では(Sharma, Angelucci, & Sur, 2000; von Melchner, Pallas, & Sur, 2000)、つなぎ変えられた聴覚野内のニューロン同士のつながり方のパターンは、通常のフェレットの聴覚野内のニューロン同士のつながり方よりも、視覚野内のつながり方に似ていたと考えられる。これは、統合情報理論による、クオリアに関する予言と辻褄があう。

 統合情報理論が正しいかどうかには関わらず、ニューロンのつながり方とその活動具合からクオリアが決定されるという理論は、原理的には、他人であろうと、サルネズミであろうと、コウモリであろうと、人工物であろうと、あるシステムがクオリアを感じるのか、そのクオリアはどのようなものであるかについて予言ができるはずである。ただし、その予言が本当に正しいかどうかは、実際にそのシステムにならないかぎり、直接の検証はできないだろう。直接の理論検証として可能なのは、自分自身の(もしくは他人の報告された)クオリアについてである。そのような理論が、まだ発見されていない錯覚も含んで、予言・説明し、長時間にわたる訓練や人工神経回路埋め込みなどによるクオリアの変化を予言・説明し尽くすのであれば、クオリアの理論としてはそれ以上を望むのは難しいだろう。

まとめと展望

 クオリア問題は、意識と脳の問題(the mind-body problem)の本質であり、これまで、哲学者による議論が中心であり、果たして脳科学がアプローチできる問題なのかすらはっきりしなかった。

 しかし、近年のクオリアにまつわる概念の整理と、実証的な意識の心理学・脳科学研究の発展、さらに、ニューロンの結合パターンの変化に伴うクオリアの変化という現象と、それを説明・予言する理論の登場で、クオリア問題の現状は変化しつつある。今後は、クオリア研究も哲学者だけでなく、脳科学者が研究する対象となっていくだろう(Kanai & Tsuchiya, 2012)。

註釈

  1. クオリアは「質感」と呼ばれることもある。しかし、材料の表面の触った感じ、見た目の感じ、のテクスチャのことを特に「質感」と呼ぶことが多く、混乱を招くので、この項では質感という語は使わない。
  2. 狭義・広義のクオリアの区別は、「何を同じとみなすか」という問題が背後に隠れている。「同じ」の規準が明示されない時に、クオリアという語の定義に混乱が生じやすい。一瞬一瞬の経験は全て違うものとみなすか、それでもその中に共通のものがあるとみなすかが、狭義・広義のクオリアの本質であり、それを明確にすることで、クオリア研究の手法・態度も変わってくる。
  3. 二つの刺激は、時間・空間における異なる二点において呈示されることが多い。また、「同じ・違う」以外にも、AとBどちらがよりXであるか、という質の違いも問うことが可能である(より赤いか、より丸いか、など)。このような強制選択が、どれだけ「意識にのぼるクオリア」そのものを反映しているのか、それとも無意識の脳処理の影響はないのか、 どのような手法が最も狭義のクオリアを研究するのに適しているのか、という問題については議論が続いている (Seth, Dienes, Cleeremans, Overgaard, & Pessoa, 2008)。また、このような被験者の報告が刺激の特性自体以外の状況、たとえば、被験者がどのように刺激に対して注意を向けるかが、どのように狭義のクオリアに影響を与えるのかも研究されている(Carrasco, 2011; Prinzmetal, Amiri, Allen, & Edwards, 1998)。
  4. 「錯視」や「錯覚」というと、外界に正確な「答え」があり、それを脳が「間違えて」プロセスしてしまうために起こる、「おかしな」主観的な感覚という響きがある。しかし、このような考え方の根底には、暗示的に我々の主観の外に世界の実体があり、その実体をできるかぎり正確に再構成するのが、意識・クオリアに期待されている機能である、ということが仮定されている。一方で、幻覚・夢などを含め、意識にのぼるクオリアそれだけが我々が経験できる実体であり、世界の姿こそが、過去何百年もの科学実験を通して「間接的に」推測されるものであり、どこまでいってもより確からしい推測しかできない、と考えることもできる。後者の考えでは、錯視・錯覚・幻覚・夢の方がむしろ本質で、通常の意識経験もそれの一部と考えることができる(Llinas & Pare 1991)。
  5. 狭い意味でのクオリアの性質も、常に時間・空間的な文脈の中で決定される。
  6. ルビンの壺やネッカーの立方体の様に、曖昧さが増幅された図形の中には、意志・注意の力でクオリアを変更できるものある。ただし、そのような図形は限られており、そのような状況であっても、赤を青と感たり、音を色と感じるなどのようにあ、思いのままにクオリアを変更することはできない。意志・注意の力がどれだけ感覚経験に影響を与えうるかにはまだ議論がある(Firestone & Scholl 2016)。
  7. 意識的なアクセスが可能な状態(accessibility)であれば意識にのぼるという考え方と、実際にアクセスがなければ意識にはのぼっていないという考え方がある。(Cohen, Cavanagh, Chun, & Nakayama, 2012; Tsuchiya et al., 2015)
  8. このつなぎ変え実験は、内側膝状体(ないそくしつじょうたい、medial geniculate nucleus)という、耳からの聴覚情報を大脳聴覚皮質に伝える役割を担う視床(ししょう)部位において、出生直後にこの聴覚情報を伝える経路を片方の内側膝状体でカットする。すると、目からの視覚情報を大脳視覚皮質に伝える神経が、この内側膝状体の神経とつながってしまう。そのため、つなぎ変えが行われたイタチでは、片側の通常の脳半球では、視覚情報が視覚皮質に、聴覚情報が聴覚皮質に伝わるが、つなぎ変えられた側の脳半球では、視覚情報が聴覚皮質で処理される。

関連項目

外部リンク

参考文献

  1. Chalmers, D. J.
    The conscious mind
    Oxford University Press. New York, 1996
    林一
    意識する心―脳と精神の根本理論を求めて
    白楊社
  2. 下條信輔
    「意識」とは何だろうか 脳の来歴、知覚の錯誤
    講談社現代新書, 1999
  3. Lamme, V. A. F.
    The Crack of Dawn. Perceptual Functions and Neural Mechanisms that Mark the Transition from Unconscious Processing to Conscious Vision
    Barbara Wengeler Stiftung, 2015
  4. 4.0 4.1 Dehaene, S.
    Consciousness and the brain
    2015
    高橋洋
    意識と脳――思考はいかにコード化されるか
    紀伊國屋書店
  5. Koch, C
    The Quest for Consciousness
    CO: Roberts and Publishers, 2004
  6. Tononi, G.
    Integrated information theory
    Scholarpedia, 10(1), 4164, 2015.