「分離脳」の版間の差分

ナビゲーションに移動 検索に移動
123 バイト追加 、 2024年10月12日 (土)
編集の要約なし
 
(同じ利用者による、間の6版が非表示)
12行目: 12行目:


== 分離脳とは ==
== 分離脳とは ==
 1960年代にヨーロッパの古典理論への理解と詳細な症例検討から、[[局在論]]を復権させた[[w:Norman_Geschwind|ゲシュウィンド]](Geschwind, N.)は、[[高次脳機能]]の障害がその機能の責任部位(中枢)の損傷だけでなく、複数の中枢間や、中枢と[[感覚]]・[[運動効果器]]間を結ぶ[[神経線維]]結合([[連合線維]]、[[交連線維]]など)の損傷でも生じるという[[離断症候群]](disconnection syndrome)の概念を提唱した<ref name=Geschwind1965a><pubmed>5318481</pubmed><br>('''河内十郎 訳 (1984)'''<br>高次脳機能の基礎 ―動物と人間における離断症候群―. 新曜社)</ref><ref name=Geschwind1965b><pubmed> 5318824 </pubmed><br>('''河内十郎 訳 (1984)'''<br>高次脳機能の基礎 ―動物と人間における離断症候群―. 新曜社)</ref>。
 1960年代にヨーロッパの古典理論への理解と詳細な症例検討から、[[局在論]]を復権させた[[w:Norman_Geschwind|ゲシュヴィント]](Geschwind, N.)は、[[高次脳機能]]の障害がその機能の責任部位(中枢)の損傷だけでなく、複数の中枢間や、中枢と[[感覚]]・[[運動効果器]]間を結ぶ[[神経線維]]結合([[連合線維]]、[[交連線維]]など)の損傷でも生じるという[[離断症候群]](disconnection syndrome)の概念を提唱した<ref name=Geschwind1965a><pubmed>5318481</pubmed><br>('''河内十郎 訳 (1984)'''<br>高次脳機能の基礎 ―動物と人間における離断症候群―. 新曜社)</ref><ref name=Geschwind1965b><pubmed> 5318824 </pubmed><br>('''河内十郎 訳 (1984)'''<br>高次脳機能の基礎 ―動物と人間における離断症候群―. 新曜社)</ref>。


 この離断症候群の中でも最も多くの関心を集め、研究が行われてきたのが左右の[[大脳半球]]をつなぐ最大の交連線維である[[脳梁]]が、全面的あるいは部分的に切断された分離脳の患者である。分離脳患者に認められる左右大脳半球間の情報伝達が損なわれることによって生じる諸症状は[[半球離断症候群]]と呼ばれている。脳梁が損傷する原因としては、外科手術による人為的切断、[[脳血管障害]]による切断、[[脳外傷]]や[[神経変性疾患|変性疾患]]等による切断、先天的な脳梁の形成不全([[脳梁欠損]])等があるが、主に1930~60年代にかけて、難治性[[てんかん]]の症状の軽減を目的に実施された[[脳梁離断術]](corpus callosotomy)を受けた患者の研究が有名であり、それだけを狭義の分離脳という場合もある<ref name=山鳥1985>'''山鳥 重 (1985).'''<br>神経心理学入門. 医学書院</ref>。
 この離断症候群の中でも最も多くの関心を集め、研究が行われてきたのが左右の[[大脳半球]]をつなぐ最大の交連線維である[[脳梁]]が、全面的あるいは部分的に切断された分離脳の患者である。分離脳患者に認められる左右大脳半球間の情報伝達が損なわれることによって生じる諸症状は[[半球離断症候群]]と呼ばれている。脳梁が損傷する原因としては、外科手術による人為的切断、[[脳血管障害]]による切断、[[脳外傷]]や[[神経変性疾患|変性疾患]]等による切断、先天的な脳梁の形成不全([[脳梁欠損]])等があるが、主に1930~60年代にかけて、難治性[[てんかん]]の症状の軽減を目的に実施された[[脳梁離断術]](corpus callosotomy)を受けた患者の研究が有名であり、それだけを狭義の分離脳という場合もある<ref name=山鳥1985>'''山鳥 重 (1985).'''<br>神経心理学入門. 医学書院</ref>。


[[ファイル:Yamashita Split Brain Fig1.png|サムネイル|'''図1. 脳梁の構造'''<br>左が吻側。]]
[[ファイル:Yamashita Split Brain Fig1.png|サムネイル|'''図1. 脳梁の構造'''<br>左が吻側。]]
== 脳梁の構造 ==
== 脳梁の構造 ==
 脳梁は左右大脳半球の内側面にあり、両者を広く結ぶ[[白質]]束である。全長は成人では約8cmで、約2億~2億5千万本の交連線維から構成されており、前部から順に[[脳梁吻]] (rostrum)、[[脳梁膝]](genu)、[[脳梁幹]](trunk)、[[脳梁膨大]](splenium)に区分される('''図1''')。脳梁幹は[[体部]](body)とも呼ばれ、[[前方幹]](anterior body: AB)、[[前方中央幹]](anterior midbody: AM)、[[後方幹]](posterior midbody; PM)、[[峡部]](isthmus: I)の4つにさらに分けられる。
 脳梁は左右大脳半球の内側面にあり、両者を広く結ぶ[[白質]]束である。全長は成人では約8cmで、約2億~2億5千万本の交連線維から構成されており、前部から順に[[脳梁吻]] (rostrum)、[[脳梁膝]](genu)、[[脳梁幹]](trunk)、[[脳梁膨大]](splenium)に区分される('''図1''')。脳梁幹は[[体部]](body)とも呼ばれ、[[前方幹]](anterior body: AB)、[[前方中央幹]](anterior midbody: AM)、[[後方幹]](posterior midbody; PM)、[[峡部]](isthmus: I)の4つにさらに分けられる。


 脳梁の大部分は[[前大脳動脈]]から分かれる[[脳梁周囲動脈]]によって還流されているが、脳梁膨大の後方部は[[後大脳動脈]]の分枝から還流されている。左右大脳半球を連絡する交連線維には[[前交連]]、[[後交連]]、[[海馬交連]]などがあるが、脳梁が最も主要な機能を担っていると考えられている。脳梁の部位と、そこを通る神経線維が結合する脳の部位は、ある程度位置的に対応しており、脳梁前部(脳梁吻・膝)は左右の[[前頭前野]]を、中部(脳梁幹)は左右の[[側頭葉]]・[[頭頂葉]]領域を、後部(脳梁膨大)は左右の[[視覚野]]を結ぶ線維からなっており、それぞれの機能に応じた情報が伝達されていることが分離脳研究によって明らかにされた<ref name=Ughwanogho2022>'''Ughwanogho, U.O., Taber, K.H., & Chiou-Tan, F.Y. (2022).'''<br>Special anatomy series: Updates in structural, functional, and clinical relevance of the corpus callosum: What new imaging techniques have revealed. The Journal of the International Society of Physical and Rehabilitation Medicine. 5(3). 81-89. [DOI: 10.4103/jisprm.JISPRM-000159]" </ref>。
 脳梁の大部分は[[前大脳動脈]]から分かれる[[脳梁周囲動脈]]によって還流されているが、脳梁膨大の後方部は[[後大脳動脈]]の分枝から還流されている。左右大脳半球を連絡する交連線維には[[前交連]]、[[後交連]]、[[海馬交連]]などがあるが、脳梁が最も主要な機能を担っていると考えられている。脳梁の部位と、そこを通る神経線維が結合する脳の部位は、ある程度位置的に対応しており、脳梁前部(脳梁吻・膝)は左右の[[前頭前野]]を、中部(脳梁幹)は左右の[[側頭葉]]・[[頭頂葉]]領域を、後部(脳梁膨大)は左右の[[視覚野]]を結ぶ線維からなっており、それぞれの機能に応じた情報が伝達されていることが分離脳研究によって明らかにされた<ref name=Ughwanogho2022>'''Ughwanogho, U.O., Taber, K.H., & Chiou-Tan, F.Y. (2022).'''<br>Special anatomy series: Updates in structural, functional, and clinical relevance of the corpus callosum: What new imaging techniques have revealed. The ''Journal of the International Society of Physical and Rehabilitation Medicine''. 5(3). 81-89. [DOI: 10.4103/jisprm.JISPRM-000159]" </ref>。


== 脳梁離断術 ==
== 脳梁離断術 ==
=== 初期の研究 ===
=== 初期の研究 ===
 てんかん患者に対する脳梁離断術は、片側で生じた異常放電が対側に伝播することを防ぐことで症状を軽減することを意図したもので、1930年代後半にヴァン・ウァーグネン(Van Wagenen, W.P.)によって20名以上に実施された。これらの患者に一連の検査を行った神経科医アケライティス(Akelaitis, A. J.)によれば、手術直後には、一部の患者で右手がドアを開けると、左手が閉める、右手が服を着ようとすると左手が脱ごうとするなどの異常([[拮抗失行]])が認められたが、その後消失した。その他の[[知覚機能]]や[[運動機能]]には特に問題はなく脳梁には特別な機能はないと結論された<ref name= Akelaitis1944>'''Akelaitis, A. J. (1944).'''<br>Study on gnosis, praxis, and language following section of corpus callosum and anterior commissure. Journal of Neurosurgery, 1(2), 94–102.[DOI: 10.3171/jns.1944.1.2.0094]</ref><ref name=Zaidel2004>'''Zaidel, E., Iacoboni, M., Zaidel, D., & Bogen, J. (2003).'''<br>The callosal syndromes. In K. M. Heilman & E. Valenstein (Eds.), Clinical neuropsychology (pp. 347–403). New York: Oxford University Press. </ref>。
 てんかん患者に対する脳梁離断術は、片側で生じた異常放電が対側に伝播することを防ぐことで症状を軽減することを意図したもので、1930年代後半にヴァン・ウァーグネン(Van Wagenen, W.P.)によって20名以上に実施された。これらの患者に一連の検査を行った神経科医アケライティス(Akelaitis, A. J.)によれば、手術直後には、一部の患者で右手がドアを開けると、左手が閉める、右手が服を着ようとすると左手が脱ごうとするなどの異常([[拮抗失行]])が認められたが、その後消失した。その他の[[知覚機能]]や[[運動機能]]には特に問題はなく脳梁には特別な機能はないと結論された<ref name= Akelaitis1944>'''Akelaitis, A. J. (1944).'''<br>Study on gnosis, praxis, and language following section of corpus callosum and anterior commissure. ''Journal of Neurosurgery'', 1(2), 94–102.[DOI: 10.3171/jns.1944.1.2.0094]</ref><ref name=Zaidel2004>'''Zaidel, E., Iacoboni, M., Zaidel, D., & Bogen, J. (2003).'''<br>The callosal syndromes. In K. M. Heilman & E. Valenstein (Eds.), Clinical neuropsychology (pp. 347–403). New York: Oxford University Press. </ref>。


=== スペリーとガザニガの研究 ===
=== スペリーとガザニガの研究 ===
40行目: 41行目:


== 臨床場面でみられる分離脳 ==
== 臨床場面でみられる分離脳 ==
 [[抗てんかん薬]]の増加や治療法の進歩により、[[てんかん外科]]における脳梁離断術の適用はかなり限定的になっており、また副作用である離断症状を出さない手技が検討されている。ガザニカも患者の高齢化による研究の継続を危ぶんでいる。1980年代以降の分離脳研究の進展は主に一般の脳神経内科・外科の臨床で遭遇する患者を対象にした研究に拠っている。最も多いのは脳梁付近の[[脳梗塞]]に起因する部分的な離断である。脳梁の前半から中間部までの損傷は前大脳動脈もしくはそこから分かれる脳梁周囲動脈の閉塞で、脳梁膨大の損傷は後大脳動脈あるいはその分枝の閉塞で生じる。しかし、損傷の程度は様々であり、また閉塞した血管の左右によって左脳もしくは右脳の皮質損傷を伴うことが多く、脳梁そのもの損傷による症状なのか、皮質の損傷を含めた症状なのかが判別しにくいという問題もある。また、皮質損傷による麻痺や感覚障害、失語症などがあるとそれによって症状が隠ぺいされてしまう場合もある<ref name=馬場2005>馬原孝彦, 朝長正徳, 吉村正博, 山之内博, 勝沼英宇. (2005)<br>虚血性脳血管障害例における脳梁の病理. 脳卒中, 12(2), 97-105. [DOI: 10.3995/jstroke.12.97] </ref>[11]
 [[抗てんかん薬]]の増加や治療法の進歩により、[[てんかん外科]]における脳梁離断術の適用はかなり限定的になっており、また副作用である離断症状を出さない手技が検討されている。ガザニカも患者の高齢化による研究の継続を危ぶんでいる。1980年代以降の分離脳研究の進展は主に一般の脳神経内科・外科の臨床で遭遇する患者を対象にした研究に拠っている。最も多いのは脳梁付近の[[脳梗塞]]に起因する部分的な離断である。脳梁の前半から中間部までの損傷は前大脳動脈もしくはそこから分かれる脳梁周囲動脈の閉塞で、脳梁膨大の損傷は後大脳動脈あるいはその分枝の閉塞で生じる。しかし、損傷の程度は様々であり、また閉塞した血管の左右によって左脳もしくは右脳の皮質損傷を伴うことが多く、脳梁そのもの損傷による症状なのか、皮質の損傷を含めた症状なのかが判別しにくいという問題もある。また、皮質損傷による麻痺や感覚障害、失語症などがあるとそれによって症状が隠ぺいされてしまう場合もある<ref name=馬場2005>'''馬原孝彦, 朝長正徳, 吉村正博, 山之内博, 勝沼英宇 (2005).'''<br>虚血性脳血管障害例における脳梁の病理. 脳卒中, 12(2), 97-105. [DOI: 10.3995/jstroke.12.97] </ref>。
Marchiafava-Bignami病は主にアルコール多飲者に生じ、脳梁の脱髄壊死を病理学的な特徴とする疾患である。一般に急性期には意識障害、痙攣、前頭葉症状を呈し,意識清明となった後に脳梁病変に伴う多彩な半球離断症候と構音障害を呈することが知られている<ref name=石川2008>'''石川直将, 高橋伸佳, 河村満, 塩田純一, 荒木重夫 (2008).'''<br>Marchiafava-Bignami病の臨床的検討. 昭和医学会雑誌, 68(4), 232-237. [DOI: 10.14930/jsma1939.68.232] </ref>。
Marchiafava-Bignami病は主にアルコール多飲者に生じ、脳梁の脱髄壊死を病理学的な特徴とする疾患である。一般に急性期には意識障害、痙攣、前頭葉症状を呈し,意識清明となった後に脳梁病変に伴う多彩な半球離断症候と構音障害を呈することが知られている<ref name=石川2008>'''石川直将, 高橋伸佳, 河村満, 塩田純一, 荒木重夫 (2008).'''<br>Marchiafava-Bignami病の臨床的検討. 昭和医学会雑誌, 68(4), 232-237. [DOI: 10.14930/jsma1939.68.232] </ref>。


55行目: 56行目:


==== 純粋失読 ====
==== 純粋失読 ====
 [[純粋失読]](pure alexiaもしくはalexia without agraphia)は離断症候群の概念の成立の鍵になった重要な症状である。失語症とは異なり音声言語の障害は認められない。患者は文字を読むことができないが、書字は概ね保たれる。自分で書いた文字も後になると読めない。しかし、文字を指でなぞると読めることがある(schreibendes Lesen)。日本人では多くの場合、漢字も仮名も読めなくなる。最も多い病巣は左後大脳動脈の閉塞による左後頭葉の視覚野と脳梁膨大の複合病巣である。右脳の視覚野と、読み書きの中枢である左脳の[[角回]](angular gyrus)の離断によって生じる症状として説明されることが多い。左脳が健在なら、右脳の視覚野や脳梁が損傷されても左脳の視覚野から左角回への入力が可能であるため読みの障害は生じない。左手で文字をなぞった場合は残っている脳梁の前半部から運動情報が左脳へ伝えられるために音読が可能になる。また、脳梁膨大部を含まなくても左角回皮質直下や、[[側脳室]]後角の下外側の損傷によっても左半球内の離断による純粋失読が生じる場合がある。日本人の症例では漢字と仮名の音読成績の違いに関心がもたれている。特に左側頭葉後下部の損傷で漢字の読み書きに強い障害が生じことが示されており、漢字と仮名で読みの経路が異なる可能性が示唆されている<ref name=山鳥1985 /><ref name=河村1990>'''河村満 (1990).'''<br>純粋失読・純粋失書・失読失書の病態. 神経心理学, 6(1), 16-24.[DOI] https://cir.nii.ac.jp/crid/1570009750651805952</ref>。
 [[純粋失読]](pure alexiaもしくはalexia without agraphia)は離断症候群の概念の成立の鍵になった重要な症状である。失語症とは異なり音声言語の障害は認められない。患者は文字を読むことができないが、書字は概ね保たれる。自分で書いた文字も後になると読めない。しかし、文字を指でなぞると読めることがある(schreibendes Lesen)。日本人では多くの場合、漢字も仮名も読めなくなる。最も多い病巣は左後大脳動脈の閉塞による左後頭葉の視覚野と脳梁膨大の複合病巣である。右脳の視覚野と、読み書きの中枢である左脳の[[角回]](angular gyrus)の離断によって生じる症状として説明されることが多い。左脳が健在なら、右脳の視覚野や脳梁が損傷されても左脳の視覚野から左角回への入力が可能であるため読みの障害は生じない。左手で文字をなぞった場合は残っている脳梁の前半部から運動情報が左脳へ伝えられるために音読が可能になる。また、脳梁膨大部を含まなくても左角回皮質直下や、[[側脳室]]後角の下外側の損傷によっても左半球内の離断による純粋失読が生じる場合がある。日本人の症例では漢字と仮名の音読成績の違いに関心がもたれている。特に左側頭葉後下部の損傷で漢字の読み書きに強い障害が生じことが示されており、漢字と仮名で読みの経路が異なる可能性が示唆されている<ref name=山鳥1985 /><ref name=河村1990>'''河村満 (1990).'''<br>純粋失読・純粋失書・失読失書の病態. 神経心理学, 6(1), 16-24.[https://cir.nii.ac.jp/crid/1570009750651805952 [DOI<nowiki>]</nowiki>] </ref>。


==== 左手の触覚性・運動性失読 ====
==== 左手の触覚性・運動性失読 ====
67行目: 68行目:


==== 左耳の聴覚性言語消去 ====
==== 左耳の聴覚性言語消去 ====
 聴覚は内耳(蝸牛)の有毛細胞→蝸牛神経→蝸牛神経核(脳幹)→交叉→外側毛帯→下丘(中脳)→内側膝状体(視床)→聴放線→聴覚野(側頭葉)の交差性経路と、交叉しない同側性経路があり、両者の情報量は6対4程度とされている。したがって言語刺激を片耳からだけ入力した場合、左耳右耳ともに理解可能である。しかし、両耳から同時に異なった言語刺激を入力した場合(dichotic listening: 両耳同時聴)は、同側性成分がマスキングされるため、言語野が存在する左脳への入力が多い右耳の方が聞き取りやすくなる。
 聴覚は[[内耳]]([[蝸牛]])の[[有毛細胞]]→[[蝸牛神経]]→[[蝸牛神経核]]([[脳幹]])→交叉→[[外側毛帯]]→[[下丘]]([[中脳]])→[[内側膝状体]]([[視床]])→[[聴放線]]→[[聴覚野]](側頭葉)の交差性経路と、交叉しない同側性経路があり、両者の情報量は6対4程度とされている。したがって言語刺激を片耳からだけ入力した場合、左耳右耳ともに理解可能である。しかし、両耳から同時に異なった言語刺激を入力した場合(dichotic listening: 両耳同時聴)は、同側性成分がマスキングされるため、言語野が存在する左脳への入力が多い右耳の方が聞き取りやすくなる。


 しかし、脳梁離断患者ではその傾向が極端になり右耳の刺激だけしか聞き取れない者がある。これは交差性経路によって右の[[聴覚野]]に入力された左耳からの情報が、脳梁離断によって左脳の[[言語野]]へ伝達されないためと考えられる。部分性離断患者での検討から、聴覚情報の伝達には脳梁の後半部分、特に脳梁幹の後部が重要であると考えられている<ref name=山鳥1985 /><ref name=西川隆1988>'''西川隆, 田辺敬貴, 奥田純一郎, 柏木敏宏, 柏木あさ子. (1988).'''<br>脳梁損傷例における消去現象 ―“見かけ上の消去現象”および両耳聴検査における知見補遺―. 神経心理学, 4(1), 33-46. [https://cir.nii.ac.jp/crid/1571135650143613568 [DOI<nowiki>]</nowiki>]</ref><ref name=Sugishita1995><pubmed>7735883</pubmed></ref>。
 しかし、脳梁離断患者ではその傾向が極端になり右耳の刺激だけしか聞き取れない者がある。これは交差性経路によって右の[[聴覚野]]に入力された左耳からの情報が、脳梁離断によって左脳の[[言語野]]へ伝達されないためと考えられる。部分性離断患者での検討から、聴覚情報の伝達には脳梁の後半部分、特に脳梁幹の後部が重要であると考えられている<ref name=山鳥1985 /><ref name=西川隆1988>'''西川隆, 田辺敬貴, 奥田純一郎, 柏木敏宏, 柏木あさ子. (1988).'''<br>脳梁損傷例における消去現象 ―“見かけ上の消去現象”および両耳聴検査における知見補遺―. 神経心理学, 4(1), 33-46. [https://cir.nii.ac.jp/crid/1571135650143613568 [DOI<nowiki>]</nowiki>]</ref><ref name=Sugishita1995><pubmed>7735883</pubmed></ref>。
80行目: 81行目:
=== 分離性運動抑制障害 ===
=== 分離性運動抑制障害 ===
==== 拮抗失行 ====  
==== 拮抗失行 ====  
 [[拮抗失行]](diagonistic dyspraxia)は 、当初、左右の手に拮抗する動作が出現して、日常行為が妨げられる現象(右手で開けた扉を左手が閉める、右手で上げたズボンを左手が下げる)として記載された[4]。手術間もない脳梁離断術患者に認められたことで有名になった。患者の意図は右手の動作には反映されているが、それに誘発される形で左手が拮抗的動作を行う。しかし、実際の左手の動きは必ずしも右手と拮抗的ではなく、無関係な動きや右手と同じ動きをする場合もある。脳血管障害でも稀に生じる場合があり、その中で最も多いのは右前大脳動脈の閉塞による、脳梁膝部から脳梁幹前部と右前頭葉内側面の同時損傷である<ref name=山鳥1985 /><ref name=田中1994 /><ref name=Tanaka1996><pubmed>8673498</pubmed></ref>。
 [[拮抗失行]](diagonistic dyspraxia)は 、当初、左右の手に拮抗する動作が出現して、日常行為が妨げられる現象(右手で開けた扉を左手が閉める、右手で上げたズボンを左手が下げる)として記載された<ref name= Akelaitis1944 />。手術間もない脳梁離断術患者に認められたことで有名になった。患者の意図は右手の動作には反映されているが、それに誘発される形で左手が拮抗的動作を行う。しかし、実際の左手の動きは必ずしも右手と拮抗的ではなく、無関係な動きや右手と同じ動きをする場合もある。脳血管障害でも稀に生じる場合があり、その中で最も多いのは右前大脳動脈の閉塞による、脳梁膝部から脳梁幹前部と右前頭葉内側面の同時損傷である<ref name=山鳥1985 /><ref name=田中1994 /><ref name=Tanaka1996><pubmed>8673498</pubmed></ref>。


==== 道具の強迫的使用 ====
==== 道具の強迫的使用 ====
 [[道具の強迫的使用]](compulsive manipulation of tools)とは、右手が眼前に置かれた物を意志に反し強迫的に使用してしまう現象である(compulsive manipulation of tools)。左手が患者の意図を反映して右手の動きを静止しようとする。日本の森悦朗らによって1982年に報告された<ref name=山鳥1985 /><ref name=森1982>'''森悦朗, 山鳥重. (1982).'''<br>左前頭葉損傷による病的現象 ―道具の強迫的使用と病的把 握現象の関連について―. 臨床神経学, 22, 329-335. [DOI] https://cir.nii.ac.jp/crid/1520290885563948288</ref><ref name=森1985>'''森悦朗, 山鳥重. (1985).'''<br>前頭葉内側面損傷と道具の強迫的使用. 精神医学, 27, 655-660. [DOI: 10.11477/mf.1405203958]</ref>。患者の前に櫛が置かれた場合,右手は意志に逆らってこれを持って髪をといてしまう。使用しないでいるためには左手が櫛を取り上げるか左手が右手を押さえなければならない。右手には[[把握反射]]・[[本能性把握反応]](触れた物あるいは見た物に対し不随意に接近し握ってしまう反応)が存在する。左手には失行などの離断症状は認められない。まれな現象ではあるが、その多くは左前大脳動脈領域の梗塞による[[前部帯状回]]、[[補足運動野]]を含む左前頭葉内側面と脳梁膝部の病巣であり、左前頭葉内側面の損傷による右手で学習された行為レベルの運動パターンの解放と、脳梁損傷による右脳からの抑制の欠如が自動的な右手の道具使用を引き起こすと考えられる。
 [[道具の強迫的使用]](compulsive manipulation of tools)とは、右手が眼前に置かれた物を意志に反し強迫的に使用してしまう現象である(compulsive manipulation of tools)。左手が患者の意図を反映して右手の動きを静止しようとする。日本の森悦朗らによって1982年に報告された<ref name=山鳥1985 /><ref name=森1982>'''森悦朗, 山鳥重. (1982).'''<br>左前頭葉損傷による病的現象 ―道具の強迫的使用と病的把 握現象の関連について―. 臨床神経学, 22, 329-335. [https://cir.nii.ac.jp/crid/1520290885563948288 [DOI<nowiki>]</nowiki>] </ref><ref name=森1985>'''森悦朗, 山鳥重. (1985).'''<br>前頭葉内側面損傷と道具の強迫的使用. 精神医学, 27, 655-660. [DOI: 10.11477/mf.1405203958]</ref>。患者の前に櫛が置かれた場合,右手は意志に逆らってこれを持って髪をといてしまう。使用しないでいるためには左手が櫛を取り上げるか左手が右手を押さえなければならない。右手には[[把握反射]]・[[本能性把握反応]](触れた物あるいは見た物に対し不随意に接近し握ってしまう反応)が存在する。左手には失行などの離断症状は認められない。まれな現象ではあるが、その多くは左前大脳動脈領域の梗塞による[[前部帯状回]]、[[補足運動野]]を含む左前頭葉内側面と脳梁膝部の病巣であり、左前頭葉内側面の損傷による右手で学習された行為レベルの運動パターンの解放と、脳梁損傷による右脳からの抑制の欠如が自動的な右手の道具使用を引き起こすと考えられる。


==== 他人の手兆候 ====
==== 他人の手兆候 ====
102行目: 103行目:
 分離脳研究における最大の関心事は、脳を分割すると意識も分割されるかという問題である。つまり、分離脳患者には意識の主体が一つだけ存在するのか、二つ存在するのかということである。この分離脳患者における意識の分離と統合については、動物を使った神経生理学的研究、科学哲学、精神分析学、計算機科学や人工知能(AI)研究などの領域でも活発な議論が続いている。また、分離脳では各半球に独立した意識主体が存在し、特に右脳には左脳にはない特別な能力を持ちながらも、言語能力を持たないためにその感情、思考、意思を表明できない意識が閉じ込められているという発想は、SFなどの文学やエンターテイメントの世界においても想像力の源泉であり続けている。その一方で、離断手術の直後や特殊な実験的な場面を除くと、日常生活における離脳患者の意識の主観的葛藤の報告や、行動の異常の観察は少ない。この問題についてガザニガは、左右の両半球に限らず脳の情報処理では異なる領域やモジュールが自動的・同時的に働いており、それぞれが意識を持っているというダイナミック・システムを想定している。それにもかかわらず意識の統一性が保たれているのは、左脳のインタープリター・モジュールがそれらの情報を統合し、意味づけて説明しているからであり、意識の統一という機能に関してはインタープリター・モジュールが決定的な役割を果たしていると考えている。
 分離脳研究における最大の関心事は、脳を分割すると意識も分割されるかという問題である。つまり、分離脳患者には意識の主体が一つだけ存在するのか、二つ存在するのかということである。この分離脳患者における意識の分離と統合については、動物を使った神経生理学的研究、科学哲学、精神分析学、計算機科学や人工知能(AI)研究などの領域でも活発な議論が続いている。また、分離脳では各半球に独立した意識主体が存在し、特に右脳には左脳にはない特別な能力を持ちながらも、言語能力を持たないためにその感情、思考、意思を表明できない意識が閉じ込められているという発想は、SFなどの文学やエンターテイメントの世界においても想像力の源泉であり続けている。その一方で、離断手術の直後や特殊な実験的な場面を除くと、日常生活における離脳患者の意識の主観的葛藤の報告や、行動の異常の観察は少ない。この問題についてガザニガは、左右の両半球に限らず脳の情報処理では異なる領域やモジュールが自動的・同時的に働いており、それぞれが意識を持っているというダイナミック・システムを想定している。それにもかかわらず意識の統一性が保たれているのは、左脳のインタープリター・モジュールがそれらの情報を統合し、意味づけて説明しているからであり、意識の統一という機能に関してはインタープリター・モジュールが決定的な役割を果たしていると考えている。


 現在の分離脳研究の代表的な研究者グループによる最近のレビュー論文では、最近の意識をめぐる脳科学的研究で最も有力な二つの理論である、[[グローバル・ニューロナル・ワークスぺース理論]](GNW理論)と、[[統合情報処理理論]](integrated information theory)の分離脳に関する説明について考察している<ref name=deHaan2020><pubmed>32399946</pubmed></ref>[29]。GNW理論<ref name=Dehaene2014><pubmed>24709604</pubmed></ref><ref name=Dehaene1998><pubmed>9826734</pubmed></ref>によれば、脳内の異なるモジュールやネットワークが情報を処理し、その結果が一つのグローバルなワークスペースに送られる。このワークスペースでは、情報が意識化され、他のモジュールやネットワークと共有される。意識にアクセス可能な情報は、ワークスペースにおける競争や共有のプロセスによって選択され、優先的に処理される。脳梁離断によって脳の左右の脳の間の情報の伝達が制限されると、左脳と右脳がそれぞれ独自の情報処理を行うため、その結果として左脳と右脳において異なる意識の内容が生じる可能性がある。
 現在の分離脳研究の代表的な研究者グループによる最近のレビュー論文では、最近の意識をめぐる脳科学的研究で最も有力な二つの理論である、[[グローバル・ニューロナル・ワークスぺース理論]](GNW理論)と、[[統合情報処理理論]](integrated information theory)の分離脳に関する説明について考察している<ref name=deHaan2020><pubmed>32399946</pubmed></ref>。GNW理論<ref name=Dehaene2014><pubmed>24709604</pubmed></ref><ref name=Dehaene1998><pubmed>9826734</pubmed></ref>によれば、脳内の異なるモジュールやネットワークが情報を処理し、その結果が一つのグローバルなワークスペースに送られる。このワークスペースでは、情報が意識化され、他のモジュールやネットワークと共有される。意識にアクセス可能な情報は、ワークスペースにおける競争や共有のプロセスによって選択され、優先的に処理される。脳梁離断によって脳の左右の脳の間の情報の伝達が制限されると、左脳と右脳がそれぞれ独自の情報処理を行うため、その結果として左脳と右脳において異なる意識の内容が生じる可能性がある。


 統合情報処理理論では、意識は情報の統合の度合い(φと呼ばれ、表現される情報の量と情報が統合されている程度によって定義される)が意識のレベルを決定する。さらに、2つのサブシステムの合計φがシステムあたりのφよりも大きい場合にのみ、2つのサブシステムが結合して1つの意識体を形成する。脳梁を除去すると大脳半球間の通信がほぼ完全になくなるため、情報の統合は半球間よりも各半球内で大きくなる。したがって、統合情報理論によれば、分離脳症候群では半球あたりのφが合計φよりも大きくなり、1つの意識ではなく2つの独立した意識システムが出現すると予想される<ref name=Tononi2004><pubmed>15522121</pubmed></ref><ref name=Tononi2005><pubmed>16186019</pubmed></ref>。
 統合情報処理理論では、意識は情報の統合の度合い(φと呼ばれ、表現される情報の量と情報が統合されている程度によって定義される)が意識のレベルを決定する。さらに、2つのサブシステムの合計φがシステムあたりのφよりも大きい場合にのみ、2つのサブシステムが結合して1つの意識体を形成する。脳梁を除去すると大脳半球間の通信がほぼ完全になくなるため、情報の統合は半球間よりも各半球内で大きくなる。したがって、統合情報理論によれば、分離脳症候群では半球あたりのφが合計φよりも大きくなり、1つの意識ではなく2つの独立した意識システムが出現すると予想される<ref name=Tononi2004><pubmed>15522121</pubmed></ref><ref name=Tononi2005><pubmed>16186019</pubmed></ref>。

ナビゲーション メニュー