「情動系神経回路」の版間の差分

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 古くから情動発現に介在する神経回路の研究が進められてきた。前半は情動系神経回路同定の歴史を概観する。初めに情動の中枢起源説に分類される[[Cannon- Bardの中枢]](視床)説や[[Papezの情動回路]]を概説し、次に情動の末梢起源説に分類される[[James-Lange説]]、そして、この流れをくむ最近注目されている[[somatic marker仮説]]を取り上げる。後半は[[心的外傷後ストレス障害]]([[post-traumatic stress disorder]]; [[PTSD]])などの後天的な感情異常発症の脳内メカニズムの解明につながる後天的に獲得された情動系神経回路として、恐怖の[[古典的条件づけ]]によって後天的に獲得された恐怖に介在する神経回路の研究を概説する。これらの研究では、[[扁桃体]]の[[外側核]]は音刺激を[[CS]]に用いた恐怖の古典的条件づけにおいてCSと[[US]]の[[連合学習]]を担い、扁桃体の[[中心核]]は恐怖の指標となる反応の表出に関係する脳部位への扁桃体からの出力部位であると考えられている。最後に最近の研究動向として、扁桃体外側核で生じる連合[[学習]]・[[記憶]]を担う[[シナプスの可塑性]]の分子メカニズムに関する仮説や学習心理学の分野において構築されてきた古典的条件づけの学習理論に対応する神経基盤をも含めた後天的情動系神経経路の研究、そして、恐怖の古典的条件づけの獲得に関係する脳内神経経路を構成する脳部位が担う心理学的機能や情報処理様式は1対1関係の単純なものではなく、分散的に複数の脳部位で処理されていることを示唆する研究を紹介する。
 古くから情動発現に介在する神経回路の研究が進められてきた。前半は情動系神経回路同定の歴史を概観する。初めに情動の中枢起源説に分類される[[Cannon-Bardの中枢]](視床)説や[[Papezの情動回路]]を概説し、次に情動の末梢起源説に分類される[[James-Lange説]]、そして、この流れをくむ最近注目されている[[somatic marker仮説]]を取り上げる。後半は[[心的外傷後ストレス障害]]([[post-traumatic stress disorder]]; [[PTSD]])などの後天的な感情異常発症の脳内メカニズムの解明につながる後天的に獲得された情動系神経回路として、恐怖の[[古典的条件づけ]]によって後天的に獲得された恐怖に介在する神経回路の研究を概説する。これらの研究では、[[扁桃体]]の[[外側核]]は音刺激を[[CS]]に用いた恐怖の古典的条件づけにおいてCSと[[US]]の[[連合学習]]を担い、扁桃体の[[中心核]]は恐怖の指標となる反応の表出に関係する脳部位への扁桃体からの出力部位であると考えられている。最後に最近の研究動向として、扁桃体外側核で生じる連合[[学習]]・[[記憶]]を担う[[シナプスの可塑性]]の分子メカニズムに関する仮説や学習心理学の分野において構築されてきた古典的条件づけの学習理論に対応する神経基盤をも含めた後天的情動系神経経路の研究、そして、恐怖の古典的条件づけの獲得に関係する脳内神経経路を構成する脳部位が担う心理学的機能や情報処理様式は1対1関係の単純なものではなく、分散的に複数の脳部位で処理されていることを示唆する研究を紹介する。


== 情動系神経回路 ==
== 情動系神経回路 ==
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[[Image:情動系神経回路1.png|thumb|300px|'''図1.Papezの情動回路 ''']]
[[Image:情動系神経回路1.png|thumb|300px|'''図1.Papezの情動回路 ''']]


 [[wikipedia:Philip Bard|Bard]]が唱えた情動体験における視床下部の重要性とともに、[[新皮質]]から視床下部に加えられていた抑制が解放されることによって情動が生じるとする[[wikipedia:Walter Bradford Cannon|Cannon]]の視床説は、Cannon- Bardの中枢(視床)説と呼ばれている。
 [[wikipedia:de:Philip Bard|Bard]]が唱えた情動体験における視床下部の重要性とともに、[[新皮質]]から視床下部に加えられていた抑制が解放されることによって情動が生じるとする[[wikipedia:Walter Bradford Cannon|Cannon]]の視床説は、Cannon- Bardの中枢(視床)説と呼ばれている。


 そして、Papez は視床下部を含む情動回路(Papezの情動回路)を提唱した(図1)。Papezの情動回路では、情動表出の中枢は視床下部[[乳頭体]]が担い、情動表出は乳頭体から[[中脳]]への出力によりなされると考えられている。感覚刺激の情報は[[腹側視床]]を介して視床下部に入力され、その情報は[[視床前核]]を経て[[帯状回]]に伝達される。そして、Papezは視床前核から入力を受ける帯状回が大脳皮質における情動の受容野であり、主観的な情動体験の座であると考えた。また、海馬体はこの帯状回や他の領域からの入力を組織化し、中枢性の情動過程を形成して、[[脳弓]]を介して視床下部乳頭体に出力する。すなわち、帯状回-海馬体-視床下部の経路により、皮質レベルにおける情動体験が視床下部から出力される情動表出に統合される。
 そして、Papez は視床下部を含む情動回路(Papezの情動回路)を提唱した(図1)。Papezの情動回路では、情動表出の中枢は視床下部[[乳頭体]]が担い、情動表出は乳頭体から[[中脳]]への出力によりなされると考えられている。感覚刺激の情報は[[腹側視床]]を介して視床下部に入力され、その情報は[[視床前核]]を経て[[帯状回]]に伝達される。そして、Papezは視床前核から入力を受ける帯状回が大脳皮質における情動の受容野であり、主観的な情動体験の座であると考えた。また、海馬体はこの帯状回や他の領域からの入力を組織化し、中枢性の情動過程を形成して、[[脳弓]]を介して視床下部乳頭体に出力する。すなわち、帯状回-海馬体-視床下部の経路により、皮質レベルにおける情動体験が視床下部から出力される情動表出に統合される。


 その後、[[wikipedia:Paul D. MacLean|MacLean]]はPapezの情動回路を“[[大脳辺縁系]](辺縁系:limbic system)”と名づけ、さらにこの辺縁系に視床下部の一部、扁桃体、[[前頭葉眼窩皮質]]、および、[[側坐核]]を付け加えている。
 その後、[[wikipedia:Paul D. MacLean|MacLean]]はPapezの情動回路を“[[大脳辺縁系]]([[辺縁系]]:limbic system)”と名づけ、さらにこの辺縁系に視床下部の一部、扁桃体、[[前頭葉眼窩皮質]]、および、[[側坐核]]を付け加えている。


 上記の提唱された情動系神経回路は、中枢神経である脳が、入力された感覚刺激を処理することによって情動が生じるという立場であり、情動の中枢起源説と呼ばれている。一方、刺激によって引き起こされた身体的反応の状態が脳に入力されることによって情動体験が生じるという立場もある(情動の末梢起源説)。この末梢起源説で有名な仮説としてはJames-Lange説があり、この流れをくむ最近注目されている仮説としては、Damasioのグループらが提唱しているsomatic marker仮説がある。彼らはリスクを引き起こす刺激や状況が自動的に身体の変化を生じさせるとともに、実際に身体の変化を引き起こす末梢からの中枢への回路とは別に、この身体ループをシュミレートした回路が[[前頭前野]]を中心とした中枢に存在していると仮定している。
 上記の提唱された情動系神経回路は、中枢神経である脳が、入力された感覚刺激を処理することによって情動が生じるという立場であり、情動の中枢起源説と呼ばれている。一方、刺激によって引き起こされた身体的反応の状態が脳に入力されることによって情動体験が生じるという立場もある(情動の末梢起源説)。この末梢起源説で有名な仮説としてはJames-Lange説があり、この流れをくむ最近注目されている仮説としては、Damasioのグループらが提唱しているsomatic marker仮説がある。彼らはリスクを引き起こす刺激や状況が自動的に身体の変化を生じさせるとともに、実際に身体の変化を引き起こす末梢からの中枢への回路とは別に、この身体ループをシュミレートした回路が[[前頭前野]]を中心とした中枢に存在していると仮定している。
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 最近、扁桃体中心核がCSとUSの連合にも関与する可能性を示唆する研究が報告されている。
 最近、扁桃体中心核がCSとUSの連合にも関与する可能性を示唆する研究が報告されている。


 Wilensky, Schafe, Kristensen, and LeDouxは、中心核に[[GABAA]]の[[アゴニスト]]である[[ムシモル]]を投与し、恐怖の古典的条件づけの獲得と表出における効果を検討した<ref name=ref9><pubmed>17135400</pubmed></ref>。
 Wilensky, Schafe, Kristensen, and LeDouxは、中心核に[[GABAA|GABA<sub>A</sub>]]の[[アゴニスト]]である[[ムシモール]]を投与し、恐怖の古典的条件づけの獲得と表出における効果を検討した<ref name=ref9><pubmed>17135400</pubmed></ref>。


 この研究の重要なポイントはムシモルが中心核に限局していたことをどのように確認するかである。彼らはまず初めに、[[内側膝状体]]の内側部が外側核へ投射するという知見に基づいて、内側膝状体の内側部を電気刺激し、外側核で生じる誘発電位を記録することで、記録電極を確実に外側核に挿入した。そして、行動学的な効果の検討に用いる投与量と同じ投与量のムシモルを中心核に投与しても、内側膝状体の内側部の電気刺激による外側核からの誘発電位が減弱せず、ムシモル投与が中心核に限局していることを確かめている。
 この研究の重要なポイントはムシモルが中心核に限局していたことをどのように確認するかである。彼らはまず初めに、[[内側膝状体]]の内側部が外側核へ投射するという知見に基づいて、内側膝状体の内側部を電気刺激し、外側核で生じる誘発電位を記録することで、記録電極を確実に外側核に挿入した。そして、行動学的な効果の検討に用いる投与量と同じ投与量のムシモルを中心核に投与しても、内側膝状体の内側部の電気刺激による外側核からの誘発電位が減弱せず、ムシモル投与が中心核に限局していることを確かめている。
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 その結果、中心核投与ラットはフリージングを示さなかった。テストの24時間後に何も投与せず再度テストを行ったところ、中心核投与ラットはコントロールラットと同様にフリージングを示した。これらの結果は中心核が恐怖の古典的条件づけにおいて学習性の情報を中継し、情動表出に関係することを示唆する。
 その結果、中心核投与ラットはフリージングを示さなかった。テストの24時間後に何も投与せず再度テストを行ったところ、中心核投与ラットはコントロールラットと同様にフリージングを示した。これらの結果は中心核が恐怖の古典的条件づけにおいて学習性の情報を中継し、情動表出に関係することを示唆する。


 Wilenskyらは、CSとUSの対呈示の直後にタンパク質の合成を抑制する[[wikipedia:anisomycin|anisomycin]]を中心核に投与し、[[短期記憶]]と[[長期記憶]]のテストを行うために、投与の4時間後と24時間後にCSに対するフリージングを測定した<ref name=ref9 />。その結果、中心核投与ラットは4時間後の短期記憶のテストではコントロールラットと同様にフリージングを示したが、24時間後のテストではフリージングを示さなかった。これらの結果は、中心核が恐怖の古典的条件づけ後の調節的な役割ではなく、恐怖の古典的条件づけの長期記憶に至る記憶固定にも関与することを示唆する。
 Wilenskyらは、CSとUSの対呈示の直後にタンパク質の合成を抑制する[[wikipedia:anisomycin|アニソマイシン]]を中心核に投与し、[[短期記憶]]と[[長期記憶]]のテストを行うために、投与の4時間後と24時間後にCSに対するフリージングを測定した<ref name=ref9 />。その結果、中心核投与ラットは4時間後の短期記憶のテストではコントロールラットと同様にフリージングを示したが、24時間後のテストではフリージングを示さなかった。これらの結果は、中心核が恐怖の古典的条件づけ後の調節的な役割ではなく、恐怖の古典的条件づけの長期記憶に至る記憶固定にも関与することを示唆する。


 扁桃体外側核は恐怖の古典的条件づけにおけるCSとUSの連合学習・記憶に重要な役割を果たしているけれども、Wilenskyらの結果は、恐怖の古典的条件づけの獲得に関係する脳内神経経路において、その経路を構成する脳部位が担う心理学的機能や情報処理様式は1対1関係の単純なものではなく、分散的に複数の脳部位で処理されていることを示唆する<ref name=ref9 />。
 扁桃体外側核は恐怖の古典的条件づけにおけるCSとUSの連合学習・記憶に重要な役割を果たしているけれども、Wilenskyらの結果は、恐怖の古典的条件づけの獲得に関係する脳内神経経路において、その経路を構成する脳部位が担う心理学的機能や情報処理様式は1対1関係の単純なものではなく、分散的に複数の脳部位で処理されていることを示唆する<ref name=ref9 />。

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